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【倫理学概論】ケアの責任自体が生の享受であれ

くらしとつながりの倫理学

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

 

1、自律的に生きること

工藤は、閉じた共同体内のあらかじめ定まっている道徳に従うことを他律として、自らが倫理的であろうと批判的に判断することを自律とする。そして「啓蒙の時代である近代に求められる理性の公共的使用は、共同体から一旦離れて考えてみるという決意と勇気であり、これまでの言葉で言い直せば、道徳を時には問い直す倫理であり、他律だけの未成年状態から脱却する自律である」(1)と、これからは自律的に生きなければならないというが、ここでいう自律して生きることとはただ自分勝手に自分にいいようにすることではない。この点は道徳であっても同様だと思われるが、倫理とは他者との関係の中で必要とされるものなのであり、それは当然他者に配慮したものでなければならない。

2、他者に対する倫理

他者に対する倫理には、私と同じ人間としての他者を自分と平等に大切なものとして扱おうとするものと、自分とはまったく異なっている他者を何よりも優先して扱おうとするものがあると考えられる。品川哲彦によると、前者はアリストテレスの言う「分配の正義」「共生の正義」「交換の正義」に代表される「正義の倫理」であり、これは誰にでも等しく適応される原理原則をめざしたものである。そして、後者のように他者を捉える倫理を品川は、ハンス・ヨナスの「責任の倫理」とキャロル・ギリガンの「ケアの倫理」をとりあげて考察する。「ヨナスの倫理理論は非対称な力関係を範型とし、傷つけられうる対象の側から傷つけうる主体にむけてつきつけられる責任によって基礎づけられる」(2)ものであり、例としては「乳飲み子は、存在をおびやかされている存在者であるがゆえに、回りの世界にたいして異論をはさめないしかたで、その世話をするようにという当為をつきつけている」(3)ということで、その責任を引きうけるかは決まっていないが、確かに感じうるものである。一方、「ケアの倫理は特定の内容の価値観や社会的役割と関わりなく、ただ、傷つきやすい、助けを必要とする人間観に立脚して」おり、現実の人々が置かれている文脈や状況において「身近な人間への気づかいを重視し、人間関係の良好な維持のために心を砕くことを倫理的と考えている」(4)。

3、責任の倫理とケアの倫理

品川によると「責任の倫理とケアの倫理はともに非対象的な力関係に由来する規範を基底とするゆえに、生身の人間の傷つきやすさ、生の損なわれやすさに配慮する」(5)。自他を非対称な力関係のうちに見ることは、正義の倫理が類似の状況や立場にある誰に対しても等しく適応される原理原則として描かれていることとは、特徴的に異なっている。また「ケアの倫理は苦しんでいる人を気づかうというその精神から、場合によっては、社会のなかで成り立っている既存の正義の観点からすれば、尊重すべき存在者の範疇から外れている存在(たとえば、犯罪者、敵国の人間など)へのケアをも要請する」(6)が、ここで品川のいう「正義」は、工藤のいう「道徳」に近いところがあると思われる。それらは特定の範囲を持った集団の中で適応されるものであり、正義が公平や平等をめざしたところでアリストテレスの時代であれば奴隷や女性は人格として認められていなかったように、適応外のものへ対しては一切の配慮を欠いているのだ。ところが「責任は、私と異なる存在者からの呼びかけにも端的に応えうる」(7)のであり、外部に対して開かれていると言える。「私たちは複雑になった現代に、実に多様な共同体の重なりありの中に生きている。いくつもの道徳や規範がぶつかりあうとき、私たちは安定した役割を超え出る自律的判断を求められている」(8)と工藤は言う。ある集団のなかでの正義がほかのところではまったく通用しないということは十分あり得る状況にあっては、ひとつの共同体の中に閉じこもることで安心したいと思うこともあるだろうが、現状として複雑に共同体が重なっているのであれば、それぞれの状況を鑑みて自分で判断するしかない。「信頼思考の強い人ほど、よく他者を観察し、原則的には他者を信頼しながら、信頼できない人を見分ける判断力に優れている」(9)であり、閉じた共同体に守られて安心するのではなく見知らぬものを認めて判断していかなければ、世界を開いていくことはできない。また、ケアの倫理が「既存の正義による保護から外れた外部にたいしても不当であるまいとする態度の表われ」(10)だといわれるように、外部に目を向けることは共同体内部の道徳から離れて、自分自身で倫理を見出すことにもつながる。

4、責任に応えることは生の享受である

ただし、責任の倫理には、責任を感じたあとにそれを引き受けるかどうかの決断のところにハードルが残っている。「人間が自由である以上、責任を果たすことも放棄することもできる」(11)からである。私はこの問題について、楽観的かもしれないが、感じられた責任は果たされるように方向づけられていると考える。「斯くの如き世に何を楽んで生くるか。呼吸するも一の快楽なり」という西田幾多郎の言葉について上田閑照が「生き得るためには、生きること自身に何か肯定的なことがないと生きぬくことはできません」と言ったことから品川は、西田の呼吸という言葉はひとりの人間が一個の生き物として生存の根本的な条件である環境との交わりのなかに自分の生を確かめているようすを伝えているとと読み取り、「私の生、私が「ある」ということは私の外にあるものとのこうした交わりにおいて成り立っている。呼吸が快楽なのは、その交わりそのものを端的に享受することだからに他ならない」という(12)。他者からの責任を感受してそれに応えようとすることは、まさに外部との交わりである。それゆえに、その責任を放棄することは自分の前に現れた他者の訴えから目をそむけ耳をふさぐことである。それでは外との交わりを享受することができないので、生を喜ぶことも自分の生を確かめることもできない。自分と異なる外部を無視していたら、安心はできるがドキドキしないということなのだろう。関係を結ぶことは享受されるものである。ケアの倫理でもノディングスによって「受け入れ、受け入れられること、ケアし、ケアされること。これが人間の基本的なありようであり、その基本的な目的である」(13)と言われ、「ケアが人生を意義深くさせる不可欠の要素である以上、ケアを放棄する人は自分をとりまいているすべての他者と事物に興味を持てない自己疎外という結果に陥らざるをえない」(14)。レヴィナスは「ひなたぼっこは最初の横領である」というパスカルの言葉を引いて、私は存在しているだけで他者に対して無限の責任を負っていると言ったが、責任の倫理では「責任が存在する可能性が、なにより先行する責任だ」(15)といわれ、責任を感じ責任を担いうるものとして主体は存続すべきだとされる。ひなたぼっこによって横領をしているからといって、今すぐひなたから退くべきなのではない。他者からの責任を感じる私は、私として存在するべきなのであり、応えるか応えられるか否かは別にして、私と関わるすべてのものへの責任を負うのである。

5、恩返しとしてではなく、支え合い自体が幸福でありますように

工藤は、「支えあいは幸福の具体化である。親切にするという正しさは決して感謝されるという幸せをめざしてなされるのではない。今述べた世代間リレーでわかるように、もうすでに幸せは与えられているのである。誤解されたりありがとうの言葉をもらえなくても、それは不公正ではない。これまでの無数の目に見えぬ恵みにお返しをしないことが不公正なのである。支えられているという幸せに支えるという正しさが加わってはじめて幸福は形をなす」(16)と述べる。「世代間リレー」とは、上の世代から受けた恵みは下の世代にお返ししようと考えることである。たしかに、赤ん坊はほかっておかれれば死んでしまうし、生きていることは周りのいろいろな人の助けによって成り立っている。しかし、すでにもらっているものがあるからそれを返そうという考えを親切の動機とすることには問題があると思う。「私が今生きていること自体がもうすでにさまざまな世話や親切のたまものだから、そのお返しとしてせっせと目の前の他人に親切をなすべきなのである」(16)としたら、世代間倫理において過去の世代は私たちの配慮などせずに環境を破壊したというのに、なぜ私たちの世代から未来のために節約をしなければならないのだろうか。もしくは、虐待をされて育った子が親になったときにわが子を虐待する傾向があるという負の連鎖をとめる論理は、受けた恩のお返しとして親切にするべきだという主張からは引き出せないだろう。また、幼いころから身体が不自由で動くこともできずにひたすら他人に世話を受けて何とか生きてきた人にとっては「受けた恩を返すべきだ」と主張されるのは酷なことにしかならない。与えられたものを返そうとするだけでは、与えられなかったものを与えることはできないということになる。そこで、乳飲み子の世話をするのは、決して自分がそうであったときに他者から無条件にそうされたときの恩を返すためにされることではなく、与えることがそのままもらうことなのであると考えることができる。このとき与えたものともらったものはまったく違うものであるので、誰かへの親切がそのまま自分も何かをもらうことになっているのにはなかなか気がつきにくくはあるが、徐々にもしくは後になって気がつくこともあるように、親切の贈答は確かにそういう構造になっていると考えるほうが送る方にとっても受けるほうにとっても気分がよいと思われる。

親切の動機となるものは、工藤の言に則すればむしろ、責任がないことに対して関わるべき事柄や人に応答するという仕方で責任をとることであり、相手の生きようとする力を支えることである「思いやり、大切にすること」(17)に近くあるべきだと言えるだろう。支え合いは幸福の具体化であることには同意するが、それは他者を受けいれ、受けいれられること自体を喜びとして享受することから支え合いが可能になっているからである。

 

 

 

<引用文献>

  1. 工藤和男『くらしとつながりの倫理学晃洋書房、2006年、p.15。
  2. 品川哲彦『正義と境を接するもの 責任という倫理とケアの倫理』ナカニシヤ出版、2007年、p.32。
  3. 同上、p.38。
  4. 同上、p.24。
  5. 同上、p. iii。
  6. 同上、p.26。
  7. 同上、p.44。
  8. 工藤、前掲書、p.16。
  9. 同上、p.17。
  10. 品川、前掲書、p.26。
  11. 同上、p.99。
  12. 同上、p.49。
  13. 同上、p.183。
  14. 同上、p.187。
  15. 同上、p.39。
  16. 工藤、前掲書、p.179。
  17. 同上、p.196。

 

<参考文献>

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』北海道新聞社、2003年。

佐藤義之『物語とレヴィナスの「顔」 ―「顔」からの倫理に向けて―』晃洋書房、2004年。

 

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正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

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