哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【卒論準備】2ヶ月前の草稿途中

(タイトル仮)

「ひとりで表現するなかで他者へ向かう意識」

第一章 心理療法における感情表現

第一節 心理学基礎の不確かさ

第二節 言語化

第三節 視覚化 

第二章 表現療法の効用

効果的なパーソナリティ条件

注意・馴化・認知的再体制化

コンテクストに収まらない経験 トラウマ(=同化の失敗?)

第三章 表現すること

秘密のままで象徴

「私」無き自己探求

他者に伝えることの意味 ひとりでも社会性(の限度)

自己の他者性 客観化と道標

 

 愚痴を他人にこぼすことでなんとなく心がすっきりした気分になったことや、悩みごとがあったときにその悩みを紙に書き出してみることで頭の中が整理されてまとまったようになったという経験は、誰しもあるだろう。愚痴をこぼしたところで、紙に書き出したところで、現実の悩ましい状況は何ひとつ変化していないというのに、心理的緊張状態が緩和されるように感じるのは何故なのだろうか。

私はこれからここで、なんらかの気持ちを表現しているときに、その表現している人の心中ではどのようなことが起こっていて、感情表現によって生じるとされる心理的健康とはどのようなものであるかを考えていきたい。実験によって効果を実証することが目的ではなく、これまで行われた実験結果を参考にして、効果があるとされる行為をなしているときに人の心中ではどのようなことが起こっているのかという仮説を考えることを目的とする。

ちなみに余談ではあるが、私がこのテーマに関心を持った個人的な理由は、私自身、考えごとが頭を離れないときにたいへん長い日記を書きなぐる癖を持っており、公表するのも憚られるほど感情的な日記を読み返すたびに「なぜ私はこのようなものを書かずにはいられないのか」という疑問を持ち続けてきたからだ。「感情を何らかの形で表わさずにいられない人は何のためにそうしているのだろうか」という問いは私にとって、まさに他人事ではないのである。

 

第一章 心理療法における感情表現

第一節 心理学基礎の不確かさ

心理学には、感情を表現することが精神の健康へとつながるという研究がある。そして、そのことを利用した心理療法が多数ある。これらの研究成果や心理療法が基づく理論を参考にすることで、上記の疑問に対する答えに近づけるのではないかと私は考えた。

しかし心理学の領域ではあくまでも、クライエントの行動を変えることや心理的負担を軽減することに重点がおかれている。実験データをもとにおこなわれる考察は効果に違いがあったかということが主な問題であり、実証的でない事柄については考察されない。実証的でない事柄を閉め出したことは、まさしくそれによって心理学が心の「科学」として確立せしめられたといえることなのだが、そうはいっても依然として「心とは何か」「心の健康とはどのような状態か」という心理学の基本にあると言える理論的テーマのなかには、いくつかの主張が混在しており、ほとんど定まってはいないと言ってもよいほど議論の余地が残されている。

たとえば他者の心の存在は、厳密に実証することは不可能であるとも思われる事象である。しかし、他者の心は存在するのかという問いにいつまでもとどまっていたとしたならば、心理学の発展は一歩たりともありえなかったに違いない。他者の心の存在を前提としたことで、心理学は成り立つことが可能になったのだ。このことから、不確かな事柄を前提として仮定することは学問の発展にとってあながち悪いばかりのことではないことが分かる。ただし、不確かな仮定は不確かな仮定として認識されていることが肝要であるし、多くの実験がよって立つ不確かな前提を確かなものに近づけるための理論の構築は目指されるべきものだろう。答えの出せない問いは考え続けなければならないということが答えだという言い分もあり得るが、答えを出さないぞという心意気で問うことは問いに対して不誠実な感が否めない上に、根本的な事柄を問わずに進められる科学研究の成果がどうのように扱われるかという恐ろしい行く末のことを考慮していないとしか思えないので、建前でもかまわないから本気で答えを求めようとする態度は必要である。

また、根本的な問題に答えが出されていないのは感情研究の分野においても例外ではなく、「感情とは何か、感情表出はどのようになされ、どのように認知されているのかといった根本的な問題が、少なくとも心理学的には未解決であるという現実が存在している」。なぜ感情とは何であるかという問題が未解決であるのに感情の研究が進められるのかは、たいへんな謎であるが、事実としてそのような状態にある。おそらく、研究が進めば答えに近づける類のものであると思われているのか、「感情」や「心」は日常的にも使用される語なので、非常に困難でありかつ批判される恐れにあふれた言語化を避けたとしても、個々人の了承の枠内で進めて行かれているのではないだろうか。

この論文では、他者の心については「ある」という前提に基づくことにする。それが望ましい態度であるかはさておき、なぜあると言えるのかを問うていたら話が先に進まないし、私は今、他者の心があるところでの話をしたいからである。感情については、この困難な課題に直接ふれる必要はないと判断したため保留とするが、感情が表現されたものについてはそこにその人の心の動きが読みとれるものと考える。参考までに、「感情」とその周辺概念として心理学でよく使用される語である「情動」や「気分」について、感情は感情にまつわる概念の中でもっとも広い範囲を包括しており、「何らかの刺激に対して、心理的に、あるいは物質的にふれることで生じる、快―不快の印象を伴う心的状態という程度にとらえるほうが妥当」とされており、情動は「急激に生じ短時間で終わる比較的強い感情のこと」で、気分は「数日から数週間の単位で持続する弱い感情」ととらえる見解が一般的なものであると考えられている。また、めざされるべき心の健康についてはひとまず、当人が肯定的に捉えられる状態であることとしておく。

 

第二節 感情を表現すること

語り療法を開発した医師ブロイアーの症例に、飲み物を拒絶していたO・アンナと呼ばれる女性が、犬がグラスの水を飲んでいるのを見ながら感じた怒りと嫌悪について語り、その直後から飲み物を口にすることができるようになったというものがある。このことは、心因性の症状はその原因について何らかの方法で話すことによって症状が改善されるということを示唆している。

フロイトとブロイアーは、抑え込んで閉じ込めた感情を開放することこそが語り療法の価値であると考えました」「閉じ込められた感情の開放、すなわちカタルシスが、精神的な緊張を解き放つ」

 

言葉にすること 語り療法

言葉を視覚化すること 筆記療法

言葉にならないものを視覚化すること 描画療法

浄化 昇華 脱抑制 生理反応

 思ったことや感じたことを吐き出すことが精神の健康のためになると言われ始めた起源は古い。

 

「私たちは自分自身にとって一貫性と意味を備えたストーリーを構築する必要があります」

「主要な世界宗教キリスト教イスラム教、ヒンズー教ユダヤ教、仏教はどれも、情動の表出を含め、犯した罪を認めて告白することを推奨しています」

 

「私たちは聴衆の種類によって「心の奥底」という概念の定義を変えます。私たちはまた、同一の出来事に関する解釈を状況によって微妙に変えます」

 

「イメージには必ず、外的現実や実際の経験の再生的要素が含まれる。ただし、外的現実や経験を完全に模写したイメージや、再生したイメージは存在しないし、すべてが個人に固有の内的世界から生じたイメージも存在しない」

 

「描画が言葉による説明より優れている点は、言語表現の持つ力とか奔放さの及ばないところで、情緒や欲求、複雑な思いの微妙なニュアンスを象徴的に集約して表現できるところにある」

 

「描画には子どもの認知、情緒、欲求などの諸要因が反映されるとともに、文化や社会、家庭状況といった、生活環境そのものも如実に映し出され、そこから子どもの日常生活を垣間見ることもできる」

 

「芸術療法の適応を考える場合、重要なのは「程よい距離」がとれていることであり、これは患者自身が自分のことを他人の話であるかのように話せたり、自分自身を見失わない程度に自分を遠ざけておくことができるかということなのだ」

 

「表現は語源的には「外へ押し出す」こと」

 

「隠喩は謎なのではなく、謎の解決である」

 

レヴィナスは、私と他者とのあいだには断絶があると言った。絶対的断絶があるからこそ、私のほうから他者に呼びかけることが、他者と関係を持つためには必要不可欠なのだと。しかし、呼びかけによって初めて他者との関係が成立するというよりは、私は存在しはじめたときからすでに他者との関係のなかに置かれており、他者との関係なしには私などありえ得なかったというのが実際であり、その意味で呼びかけはなされなければならないことなどではなく、呼びかけないではいられないのが私なのだろう。たとえそこに他者がいないところでしかできなかったとしても、他者に向かって。

また、私が私のことを思うとき、思う私と思われる私との間には、他者との間に横たわるものとは種別が異なっているものの、これまた絶対的な断絶がある。ロジャーズの創設したクライエント中心療法では、現実の自己とセルフイメージがなるべく重なっていることが理想とされたが、おそらくこの二つが完全に重なり合うことは理論上ありえない。いかにイメージを近づけようとも、刻一刻と変化し続ける人ひとりを完全なイメージとしてとらえることは不可能であり、自分のことは自分が一番よく知っているとは言っても、イメージとしてとらえようとする限りにおいてそこには必ず盲点が付きまとうからだ。私が私を確認したければ、呼びかけ、呼びかけに応えた動きをしていることを確認するしかない。イメージと現実が重なった領域では、私が私の期待を逃れる動きをすることはまずない。問題は、イメージと現実が異なる領域において視覚に入った現実が発する声を聞きとることができるかという点である。私の意識に上がっていない私の要求は、私が向き合って聞きとろうとすることなしには、聞きとられないどころか、声にすらならない。この、声ですらなく、姿を直接とらえることもできないところの自分の状態に耳を澄まし、眼を凝らす作業こそが、私が問題にしている誰かに何かを主張するためでもなんでもない感情表現のことである。それは認知的再体制化や同化、ストーリー形成と言われる過程の始まりにある作業なのかもしれない。フィクションを創造したとしても、それを行なったのが私であれば表現は、象徴としての解釈が可能なものとなる。詳細な断片を拾い集めること。物語は場面なしには成り立たない。

 

 

関則雄編『新しい芸術療法の流れ クリエイティブ・アーツセラピー』フィルムアート社、2008年。

J・W・ペネベーカー著、余語真夫監訳『オープニングアップ 秘密の告白と心身の健康』北大路書房、2000年。

ジャン=ピエール・クライン著、阿部恵一郎、高江洲義美訳『芸術療法入門』白水社文庫クセジュ、2004年。

神田久夫『イメージとアート表現による自己探求』ブレーン出版、2007年。

アリス・W・フラハティ著、吉田利子訳『書きたがる脳 言語と創造性の科学』ランダムハウス講談社、2006年。

ショーン・マクニフ著、小野京子訳『芸術と心理療法 創造と実演から表現アートセラピーへ』誠信書房、2010年。

S・J・レポーレ、J・M・スミス編、余語真夫、佐藤健二、河野和明、大平英樹、湯川進太郎監訳『筆記療法 トラウマやストレスの筆記による心身健康の増進』北大路書房、2004年。

鈴木直人編『感情心理学』朝倉書店朝倉心理学講座10、2007年。

山内弘継、橋本宰監修、岡市廣成、鈴木直人編、青山謙二郎編集補佐『心理学概論』ナカニシヤ出版、2006年。

宮本久雄、金泰昌編『シリーズ物語論Ⅰ 他者との出会い』東京大学出版会、2007年。