哲学生の記録。

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【組織神学】エコフェミニズムについて

1、近代思想の二項対立(文化と自然・男性と女性)

 近代には「理性・感性」「合理・不合理」「主体・客体」「文化・自然」というように、世界のすべてを二項対立の図式でとらえようとする傾向があると、スーザン・ヘックマンの『ジェンダーと知』では主張されている。これに関連して、オートナーは、男性は文化的であり、女性は自然に近いものだという枠組みは、その枠組み自体が社会文化の産物であると指摘している。また、自然と文化を対立させる図式そのものに問題があるのではないかとも考えられている。ここには、自然という資源を人間という文化主体が利用するという構図が見られるように思うが、たとえば日本にかつては多くあった里山の思想には、自然環境があってこそ人間の生活が成り行き、人間の手が入ることで自然環境が自然環境そのものにとっても良いように整備されるという共生の関係があった。必ずしも、人間の文化活動と自然は対立の関係でしかありえないというものではないのである。自然を利用するための対象として、もしくは合理的精神では理解できない法則に支配された未知の領域として、どちらにせよ人間とは別のものだと切り離して考えるという世界観を持った文化のありかたが、自然と文化の対立という図式を作り出しているのだと考えられる。ヴァンダナ・シヴァは自然環境の再生可能性を無視した森林伐採に警鐘を鳴らしているが、このことにも関連して、日本では人間と山林が共存していたころの里山のありかたを見直す必要があるのではないだろうか。

2、ヴァンダナ・シヴァの「女性原理」

 インドでは、森林が媒介する自然の物質循環と水環境に依拠して生命を維持してきたために、インドの人々は森林を神聖視して崇拝するとともに、これを荒らして破壊することの内容に大切に管理していたそうだ。しかし、「英国の植民地化で開始され、独立後の今日においてもインド国家によって引き継がれている「科学的経営」に基づく「科学的林業」なる政策は、木材の市場的価値にのみ着目して森林の持つ多様な価値をこれに還元し、再生可能性を考慮することなく、まるで鉱床を採掘するかのごとく森林を伐採していった」(1)。その結果として、生物の多様性がなくなり循環可能な生態系が破壊されるということや、共有地としての森林はなくなるということや、永続可能な林業ではなく短期利益を求める商業的木材生産のために森林に依拠していた人々の生活基盤が崩れつつあるということが起こっている。

「シヴァにおいては、農業や林業における女性たちの活動が、自らの生命のみならず自然の循環と再生を支える役割を果たすものとして把握されているのである。こういった活動は本来女性と男性が共に担うものであったが、生存維持経済が市場経済への包括によって崩壊すると、男性はそのような活動からは除外され、女性たちがその主たる担い手となって」(2)いった。そのため、シヴァは近代科学やグローバルな市場経済といったものに対する変革や解放の指針として「女性原理」をあげるのである。つまり、「女性原理」といってもそれは、女性であることによって無前提で獲得されるものではなく、男性であるからと言って無条件で排除されるといったものではないのだということは、押さえておきたい。先に、文化が自然を女性的なものとしているのだと述べたが、シヴァもまた自然と女性との一体性を生活様式や性別役割分業に媒介された社会的なものとして理解しているということだ。

3、日本資本主義による家庭内の男女不平等

「近代家族の性別分業に起因する家庭内での男女不平等は、けっして男性による「性支配」の体制の問題なのではなく、社会的・歴史的な問題、つまり日本資本主義のあり方の問題だと言うべきであろう。家庭内で男性が家事・育児などに非協力で、その責任を妻に押しつけている問題も、各家庭においてさまざまな形があり、程度の違いがあり、千差万別であろうけれども、そうなる原因は資本主義的生産様式に由来する問題であることは否定できない」(3)と、鰺坂真は述べる。男女不平等は、近代資本主義の構造のもとでその生産様式が引き起こした問題なのだという主張である。これはI.イリイチがいうところの、男性が賃金労働を行なうかたわらで、女性が無償労働としてシャドウ・ワークに従事するといういわば相互補完関係になっていたということを指しているのではないかと思われる。働いているにも関わらず、家庭内での女性の労働には対価が支払われず、相互補完関係にあって家庭を成り立たせているとは見られずに、男性の賃金収入で女性は養ってもらっているという考えかたがまかり通っていたということだ。しかし、資本主義のありかたによって、社会での賃労働と家庭での無償労働に役割をわけるようになったからといって、圧倒的な比率で賃労働は男性が担い、無償労働は女性が担うといった役割分担になる必然性もまた資本主義のありかたにあったと言えるのだろうか。

4、性別役割分業における不平等とは何か

「シヴァにおいて問題視されているのは「人間の仕事」であるはずのものが「女の仕事」と「男の仕事」に分断されていることではなく、「女の仕事」と「男の仕事」の調和が破壊され「女の仕事」の評価が不当に低められていることなのであるから、性別役割分業自体は肯定されていると理解される」(4)と南は言う。男女の不平等をいうときには、何を平等として不平等だと批判するのかを確かめたい、と私は思う。シヴァが仕事の評価として考えていたものは何なのだろうか。おそらく、鰺坂が資本主義に起因する家庭の性別分業における男女不平等としていうときには、労働に対して支払われる賃金格差が想定されていると見ることができるだろう。しかし、賃金の差は目に見えてわかるものであるが、性別役割分業を「男は狩猟、女は採集および農耕」という原初的な区分にさかのぼった場合、ここには性差はあるけれど、この状態を不平等であるとはいえないのではないかと思う。異なったものを比して等しいかどうかを論じることに意味はないだろう。さらに、女性が狩猟を担っていた民族も存在したということから、特定の活動と性別役割との結びつきは極めて文化的・社会的なものなのだろうということが示唆される。

5、人工妊娠中絶にみる女性の自己決定権の問題

性別役割には、賃金格差以上の不平等があるのではないかということは、女性の自己決定権の問題から見ることができるだろう。女性の自己決定権が特に問題とされるのは、生殖医療技術による人工妊娠中絶に関する倫理的問題においてである。加藤秀一は「女性は自己決定などしていない。胎児について決定しているのは家父長制社会であり、そのとき女性は胎児の入れ物としてしか扱われていない」ことこそがフェミニストの告発の内容であるという(5)。そこには、子どもを産むためのものとして女性が扱われていたということがあり、女性は自分の身体のことや他にしたいことがあるか如何に関わらず、とにかく家を継がせるべき子孫を産むように、家族や親せきをはじめとした社会から、圧力とも言えるくらいの期待をかけられていた。江原由美子は『自己決定権とジェンダー』において、「女性の自己決定権は「本人の意思によらずして産むこと/産まないことを強制されない」という権利にすぎないのであるから、こうした権利があるとしても、それだけで女性が産むか産まないかを自己決定できるとは言えず、「女性の自己決定を実現するような支援を行う社会関係・社会組織が形成」されているか否かが重要であるという(6)。いくら自分で自由に選んでいいと言われても、現実的に選びやすい選択肢が固定されていたのでは意味がないということで、これは重要な指摘であると思う。

「妊娠した女性にとっては、妊娠する以前には「自己の身体」の一部であったものが、受精の瞬間から「他者の身体」となってしまう、あるいは「自己の身体」がふたつの身体へと分離されていくという経験がある」(7)。自己と他者を二項対立としてとらえる構図を近代が持っていたと考えれば、妊娠で自己が他者へと別れていくという女性の身体はその枠組み内におさまるものではなく、それゆえに理性の外にある「自然」と結びつけて考えられたという側面があるのかもしれない。

生殖医療の人工妊娠中絶について、不妊の原因がどこにあるのかもわからず、多くの不妊をもたらしている何らかの根本的な問題があるのかもしれないというのに、とりあえず個々の人の身体的機能の問題をテクノロジーで解決しようとする試みは、対症療法的なやりかたにすぎないのではないかとも考えられている。対症療法は、根本的な問題の解決にはならず、ひとつの症状を抑えることができたとしても、同じ問題から別の形で病状があらわれるところに特徴がある。目に見える症状に比べて、根本的な問題はわかりにくく、多くの要因が絡まり合って複雑なものであることが多いため、原因を突き止めることはたいへん困難であるとは思うが、対症療法的なやりかたをしていると、症状の形は変化するなかでそもそもの問題が悪化していくという事態にもなりかねない。

6、セックスとジェンダー

性差には、セックスとジェンダーがあり、セックスは身体的性別・生物学的性別であり、ジェンダーは社会的性別・文化的性別であると区分される。さらにジェンダーでは、単に性を区別するというだけではなく、そのあいだの差や、その性別を自己のアイデンティティとして自認できるかどうかということや、その性が担っていると思われる役割のイメージといったことが問題となる。たとえば、生物学的事実と社会規範的な役割のイメージを混同して捉えることは、たいへんな間違いである。社会規範的な役割イメージというものは、産まれたときから周りの社会環境で当然とされている場合が多いので、あたかもそれが動かぬ事実であると思いこんで育つ個人は少なくないように思うので、気をつけたいところだと思う。

 

 

〈引用〉

(1)鰺坂真編『ジェンダー史的唯物論』南有哲「エコ・フェミニズムにおける科学と自然」p.189。

(2)同上、p.206。

(3)同上、鰺坂真「エンゲルスの家族論と現代」学習の友社、2005年、p.37。

(4)同上、南有哲「エコ・フェミニズムにおける科学と自然」p.208。

(5)同上、上田浩「ジェンダーと生殖医療」p.164。

(6)同上、p.165。

(7)同上、p.178。

 

〈参考文献〉

鰺坂真編著『ジェンダー史的唯物論』学習の友社、2005年

原ひろ子、根村直美編著『健康とジェンダー明石書店、2000年

I.イリイチ著、玉野井芳郎訳『ジェンダー』岩波現代選書、1984

 

ジェンダーと史的唯物論

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