【卒業論文】内声の表現衝動 ―なぜ日記を書くのか―
〈梗概〉
例えば、ひとつの生物から命が消えるとき、「なぜ」と問うても仕方のないことがある。そしてまた、冷たく硬直した身体を抱きながら、比べて自分の手は温かく自在に動かせるということについて思い巡らせても、どうにもわからない。しかし、考えてもしょうがないと思いながらも、もやもやして頭から離れないことがある。そういうときの対処法のひとつとして、とりあえず文字にして書いてみることができる。そうすると、直接何かが変化するわけではないが、なんとなく出来事や気持ちが整理されて落ち着いたような感じがする。このことを筆記の心理的効果として、特にどのような条件で効果があるのかを検討した。その結果、筆記には内向的なコミュニケーションとしての側面があり、書かれる言葉のもととなる内なる声は、それまでに出会った他者の経験から構成されているのだろうという推察に至った。
〈目次〉
- 〈梗概〉
- 〈目次〉
- はじめに ―無目的な表現衝動―
- 第一章 病としての筆記衝動
- 第二章 筆記の心理的効果
- 第三章 コミュニケーションとしての筆記
- 第四章 心のなかの他者
- おわりに ―不断の予防―
- 〈註〉〈参考文献〉
はじめに ―無目的な表現衝動―
私は時おり、何かを書きたい衝動に駆られる。それは日々の些細な出来事であったり、頭から離れない考えごとであったり、浮かんでは消える空想であったりする。私はそれらを言葉や文章や、らくがきのような絵を用いて紙に書きつける。何のためにそうしているのかはわからない。あとから読み返すことはほとんどないため、将来役に立てるために書いているわけではなさそうだ。では、何のために、書かずにはいられないのだろうか。心に思ったことを紙に書きつけずとも、生きていけないわけでは決してないし、そうしたことに手間や時間をかけることによって報酬がもらえるということもなければ、もらえたという経験もあまり思いあたらない。それにも関わらず私は、それをそのとき書きつけなければ気が収まらないという欲求に、確かに動かされていると感じる。まるで何かに憑かれたかのように、それを書かないではいられない。この行動は趣味と呼ばれるものなのだろうか。それだけではないだろう。文章の内容は内省的すぎて書くのはつらいだけであることもあるし、そのようなものは人に見せても迷惑になるだけでどうしようもない。趣味はもっと本人が楽しく夢中になれて、まわりから見ると微笑ましいようなものであると思う。
そしてどうやら、このような衝動に動かされるのは私だけではないようだ。多作で有名なルイス・キャロルやドストエフスキーはハイパーグラフィア(書かずにいられない病)に罹っていたという。精神病者のなかには幾枚も幾枚も、たまったら捨てられてしまう絵画や文字列や、当人以外には意味があるとは思えない日記を描き続ける人がいる。私がそもそも表現の衝動というテーマに関心を持ったきっかけは、アウトサイダーアートとして紹介されていた精神病者の作品に出会ったことだった。ひとつひとつの作品の魅力というよりは、描いたものが溜まったら邪魔なものとして捨てられてしまうのにもかかわらず、かなりの時間と労力をかけて描き続けるという姿に惹きつけられた。彼らはなぜ描き続けるのだろうか。
いったい何が、人をそのような表現へと動かすのかを考えていきたい。ただし本論では、事実に基づいて筆記する行為を主に取り上げることにする。描画についても考察したかったが、「描画が言葉による説明より優れている点は、言語表現の持つ力とか奔放さの及ばないところで、情緒や欲求、複雑な思いの微妙なニュアンスを象徴的に集約して表現できるところにある」というように複雑かつ恣意な解釈の幅が広いため、私的見解以上のことを述べるのが困難であると思われた。象徴性の高い人物や設定で物語を創ることについても同様である。
第一章 病としての筆記衝動
まずは、ハイパーグラフィアについての神経学的研究の紹介から始める。ハイパーグラフィアとは書かずにはいられない病のことであり、脳の特定領域の変化によって生み出されると神経学では考えられている。ここで参考にする『書きたがる脳』の著者アリス・W・フラハティは神経科医であり、自身も書きたい衝動に頻繁に悩まされた経験を持つ。
私は、自分が病的なほど書きたい衝動に悩まされているのかはわからないが、「精神病と正気を完全に切り離すことはできない。ある意味では精神病は恐ろしいほど正気とそっくりだ―ただはるかに度を超しているだけなのだ」というフラハティの異常についての考え方に沿うならば、書かずにはいられないハイパーグラフィアを脳の構造から解明することはすなわち、目的もなく衝動的に書くという行為がどのような動機からなされているのかを示すことにつながるはずだ。
フラハティによれば、ハイパーグラフィアとは①同時代の人と比べて大量の文章を書く②外部の影響よりも強い意識的、内的衝動から生まれる③書かれたものが当人にとって非常に高い哲学的、宗教的、あるいは自伝的意味を持っている④少なくとも当人にとって意味があるという以外の基準で、文章が優れている必要はない、という四つの基準に当てはまる状態の人を示す。
そして「いちばんよく知られているハイパーグラフィアの原因は側頭葉てんかんだ」と言われる。側頭葉てんかんの患者で、かつハイパーグラフィアでもあった人物の代表例としてはドストエフスキーが挙げられる。ただし、ドストエフスキーが高名な作家であるからと言って強い創作意欲が必ずしも優れた作品を生み出すわけではなく、「側頭葉てんかんが生むのは異様にモチベーションの高い作家」である。私が問題にするのも、作品に与えられる評価には関わらず表現したいと思う衝動であるので、このことは好都合だと思われる。ドストエフスキーの『地下室の手記』には以下のように書かれている。「わたしが書く目的とは正確には何なのか?それが大衆の利益にならないとしたら、私は原稿用紙に書きとめたりせずに、心に浮かぶ出来事をただ思い返すにとどめておくべきではないのか?確かにそうだ。だが原稿用紙に書かれたほうが確かに印象的だ……それに書くことで実際に開放感をおぼえている」。この手記からわかるのは、彼はその文章が誰のためにもならなかったとしても莫大な量を書き残していたのだろうということと、書くことによって何かに押しつぶされそうになる感覚を振り払うことができていたということである。
また、躁うつ病の患者にも、ハイパーグラフィアの傾向が見られる。フラハティは「書くこととうつのつながりは、うつの人々が極度に内省的になりがちで、内省は書くことを促す、という事実から生まれているのかもしれない」という可能性を考え、「創造性は知能指数の高さのような認知的資質よりも、気分の不安定さと密接なつながりがある」と推察する。書くことがいかにして内省を促すのかということは、後ほどに考えたい。気分の不安定さが創造性につながるというのは、些細なことに対しても感情の起伏が大きい人のほうが、感受性が豊かだという意味で、些細な出来事にも大きな意味を見出しうることから、日常から表現したい題材に事欠かないということなのだろうと解釈できる。
ともかく「脳波を調べてみると、側頭葉てんかんの患者と同じく躁病患者にも、側頭葉で脳波の選択的な変化が生じている」ということから、側頭葉の担っている働きが特に、書きたいという衝動と深い関連を持っていると見て間違いないと思われる。情動と衝動をつかさどると言われる「辺縁系は皮質のどの領域よりも強く側頭葉と結びついている」ということから、感情の揺れ動きと書きあらわしたいという欲求の結びつきも示唆される。
書きたいという衝動と側頭葉の活動に関係があるということは確からしい。では、その衝動及び側頭葉の活性化を促している要因は何なのだろう。ハイパーグラフィアの対極にあるとも言える状態に、書きたくても書けないことに苦しむライターズ・ブロックがある。この二つの状態は対極というよりは、いわば相互補完的であって、ハイパーグラフィアもライターズ・ブロックも、「コミュニケーションをしたいという基本的な生物的欲求に複雑な異常が生じることによって起こる」とフラハティはいう。たとえば、「パニックのように書きまくるのは、理解されたいという絶望的な試みの表れだ。そしてコミュニケーションの不全感はうつを引き起こし、それがまたコミュニケーション能力喪失の原因になる」というように、表現は理解されることを望んでいる故になされるのであり、表現できないことへの苦しみは理解されると思える表現の仕方を見つけられない苦しみなのだと捉えることができる。この見解に沿うならば、コミュニケーション欲求を持ちつつも、うまく理解されるような表現行動をとることができない人が、書くという代替行為で発散している現象として、ハイパーグラフィアを受けとめることもできるだろう。フラハティの論をふまえてまとめると、感受性が豊かで表現されうる心の動きを多く経験しながらも、内向的で自己の内面に注意を向ける傾向を持ち、外部に対しては抑制的に感情を抑えた態度を取りがちで、かつ読書を多くする人というのが、ハイパーグラフィア的な傾向を持ちやすい人格だと思われる。文章を読む量と書く量が比例の関係にあるということは、知っている語彙の多さや、文章による表現への慣れ親しみが関わっているのだろう。
ここで、コミュニケーションがしたいというのは基本的な生物的欲求だと言えるのは何故か、また、コミュニケーションをするとは誰とどのような状態になることを言っているのかという疑問が生じる。コミュニケーションが基本的な生物的欲求であるのは、「人間の脳は人をしゃべらせるようにできていると思われる」ことによると、フラハティは言う。ではどのようにして、機能的にしゃべるようにできていることが、書きまくるという行動につながるのだろうか。話すことと書くことは、言葉をつかった表現という点では同じであっても、随分と異なっている。理解されたいと望むときに、口に出すのではなく書くという手段を選ぶことがあるのはどうしてなのだろうか。たんに口下手なためだけか。それとも、書くことによってしか可能にならない利点が何かあるのではないだろうか。
第二章 筆記の心理的効果
第一節 感情の解放
ドストエフスキーは、書くことによって押しつぶされそうになる感覚を振り払えるようだと言った。また、アンネ・フランクの日記(1944年3月16日)には「最も晴れやかな気持ちになれるのは、とにかく自分の思考や感情のすべてを書きだすことができるときです。それができなければ、私はきっと窒息死してしまうことでしょう」という記述がみられる。どうやら、書きたいという衝動が生じるわけには、文章表現によって解放感を得ることができるという側面があるようだ。この効果を利用していると考えられる心理療法に、ジェームズ・W・ペネベーカーの研究が発端となった筆記療法があるので、筆記療法に関する研究から筆記の効果を検討していく。
トラウマティックな経験を言語に置き換えることにより、その経験に関する人々の考え方が変化するという仮説に基づいた「ペネベーカー博士と共同研究者たちの一連の心理学実験は、混乱した出来事が一貫した様式でひとたび組織化されたなら、人々はその出来事について反芻することをやめ、生活上の諸問題にいっそう効果的に対処できるようになること、また人々が過去の混乱した出来事をひとたび把握したなら身体的健康と精神的健康の増進が認められることを明らかにして」いると言われている。このペネベーカーによる一連の心理実験というのが、筆記効果に関するものである。
とはいえ、経験を言語化することによる効用は、筆記療法に限ったことではなく、精神分析ではかなり以前から言われている。語り療法を開発した医師ブロイアーの症例に、飲み物を拒絶していたO・アンナと呼ばれる女性が、犬がグラスの水を飲んでいるのを見ながら感じた怒りと嫌悪について語り、その直後から飲み物を口にすることができるようになったというものがある。このことは、心因性の症状はその原因について何らかの方法で話すことによって症状が改善されるということを示唆している。そして「フロイトとブロイアーは、抑え込んで閉じ込めた感情を開放することこそが語り療法の価値であると考え」、「閉じ込められた感情の開放、すなわちカタルシスが、精神的な緊張を解き放つ」と考えた。経験された感情が何らかの文脈上で好ましくないものとして捉えられたときに、その表出が抑えられるか、なかったことにされる場合がある。そこで情動を閉じ込めることは精神的に害となるのだが、その経験を語ることによって改善されるということだ。この考え方は、言語として表現されることが心理療法的に有効な治癒の促進につながるということを説明するもののひとつである。その表現形態は異なっていても、経験の言語化に治療効果を見出すという点では、筆記療法と語り療法とは同じであるので、カタルシスとしての感情解放の説明は筆記療法にも適応されるだろう。
「精神的に動揺した経験をことばに置き換えることによって身体的健康が改善することを最近の多くの研究が示している」うえで「今日のたいていのセラピストたちは、トラウマティックな経験の原因と結果について理解を深めることが有益であると確信して」いる。どのようにして話すことがトラウマの克服につながるのかという、説明のところはセラピストの立場によって様々だが、精神的に動揺した出来事について話すことによって、その出来事への洞察や自分自身についての理解が深まり、トラウマの克服へと近づく可能性が高いということはほぼ確かだと思われているようだ。自己開示の重要性は、心理療法に見られるだけではなく、「主要な世界宗教―キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教はどれも、情動の表出を含め、犯した罪を認めて告白することを推奨して」いる。宗教集団と心理療法が推奨する告白の類似性も興味深いところではあるが、ともかくこのことから世界規模の習慣においても、かなり一般的に精神的な動揺を言葉にすることには意味があるとされていることがわかる。
第二節 物語の再体制化と保存
言葉にすることがトラウマの克服につながることを説明するものには、フロイトの理論のほかに、物語ることとアイデンティティ形成の関連が挙げられる。ペネベーカーは「私たちは自分自身にとって一貫性と意味を備えたストーリーを構築する必要があります」と述べる。そのことは、情動的な経験を言葉に置き換えることが健康の増進に与える影響を、筆記療法の効果があった群とまったく効果が見られなかった群とで比較した検証によって明らかにされている。ペネベーカーの主導した分析プログラムの解析によると、筆記によって健康が増進した群の著わした文章には、特徴的な言語要因が三点認められた。ひとつ目には、「幸福」「愛」「良い」「笑い」といった肯定的な情動語を多く使用していることで、二点目は、「怒り」「苦痛」「醜い」といった否定的な情動語を適度に使用していることだ。否定的な情動語は、非常にたくさん使われている場合もほとんど使われていない場合も、その後の健康状態の改善は見られなかったという。そして三点目は、認知や思考に関連する語句、たとえば「原因」「結果」「理由」といった因果思考や「理解」「わかる」といった洞察や内省を示す語句の使用数が増えることであり、ペネベーカーはこの要因を最も重要視している。因果や洞察を示す語句の使用は、記述されたトラウマの内容が一貫性のあるストーリーを構成しており、記述者のなかで納得されたものとなっていることを表わしていると考えられる。筆記実験の初日にはほとんど見られなかったこのような語句の使用が最終日にはかなり多くなっているということは、初めは物語になっていなかったトラウマティックな経験が、筆記を重ねるうちに因果的に理由をつけて説明されるようになっていき、なぜそのような出来事が起こったのかが徐々に了解されていったということだ。そしてそのような場合にのみ、筆記実験には健康向上の効果が認められた。このことから、何がどうなったのかもよくわからないくらいに精神的に動揺した出来事を、因果関係を理解して説明できるようになったとき、「心理的には完了し」「それ以上その出来事について反芻する理由はなく」なるとペネベーカーはいう。つまり、言葉にすることによって、トラウマティックな出来事を抑制することはやめられ、物語として理解することでその出来事についての考えに囚われ過ぎることから解放される効果があるのだろう。
物語ることがトラウマからの解放を導くことは、アイデンティティの概念からも説明される。森茂起によると「アイデンティティを簡単に言えば、自己理解と世界理解を統合して、自己を世界に位置づけている働きであり、そして、統合的にそれらを維持できているという感覚である。経験から意味を汲み出す営みの連続から生まれた理解が集積し、それがある程度の整合性を伴って安定して保たれたときに生まれるものがアイデンティティである」。経験から意味を汲み出す営みの連続から理解が生まれるというところは、ちょうどペネベーカーの述べた筆記の物語構成効果と一致する。これを合わせて考えるに、トラウマティックな出来事というのは、既存のアイデンティティの枠には収まらず、容易にはそれまでの経験に統合できないような出来事なのであり、健康の向上につながった筆記の仕方は、アイデンティティを揺るがした出来事を意味や理由を見出すように理解することで、それを含むような形でアイデンティティの整合性を作り直す試みであったと言える。
しかし、ペネベーカーは物語化した理解によってトラウマティックな出来事について反芻することはなくなるということを筆記の効果として挙げたが、これに反すると思われる意見をフラハティが自分の経験に対する考察として述べている。フラハティは、双子を早産で亡くしたのちの産後気分障害のときに、躁うつ病とともに激しいハイパーグラフィアの症状を経験した。このときの状態について彼女は「わたしは自分の悲しみを愛していた」、「わたしが書くのは起こったことを忘れるためではない。覚えているために書く」と言っている。覚えているために書くというのは、トラウマティックな出来事を反芻するのをやめられることを筆記の効用とすると、一見矛盾した目論見であるように思われる。とはいえ、私が思うに、トラウマティックな出来事というのはたんに情動的な衝撃が大きいだけではなく、個人の人生の転機ともなりうるくらい大事な意味をもった事件となることが多く、そう考えるとフラハティが言うようにその事柄を忘れないようにするために書くという気持ちもわかる。そこで、トラウマとは何かということに関して久松睦典の考えを参考にしたい。久松は「トラウマとは、情動的負荷が大きいために「まだ語ることにできない」体験というだけではなくて、本質的に「語りえない」領域が暴力的に顕になってしまうような出来事ではないだろうか」と推察する。トラウマが久松のいうように本質的に語りえない領域を顕にする出来事であるとすれば、本質的に語りえない出来事はいくら言葉にしようとしても、しきれないということになる。確かに、たとえばフラハティの場合では、なぜよりによって自分の子どもが死ななければならなかったのかということをいくら考えたところで、明確な理由を見出して説明することは、無理にこじつけて思い込みでもしない限りはおそらく不可能であろう。いくつかそれにつながる要因に思い当たったとしても、最終的には運命の悪戯とでもしか言いようのない不幸はあるものだ。では、トラウマ経験者は語りえないその出来事を語ろうとしつづけなければならないのかというと、そうであっては日常生活へ支障を来たしてしまう。そこで、言葉にすることによって解放されるというペネベーカーの主張する筆記の効果と、本質的に語りえない事柄を忘れずにいられるという書記の効果を合わせて考えると、書いておくことは一時停止機能のようなものなのではないだろうかと思われる。つまり、情動に衝撃を与えた出来事が書き記されることによって、そのことばかりにとらわれ続けるのをやめることができ、しかし当人にとっては重大な事件であったそのことをまたいつでも考え直せるようになる。
また、ストレスフルな刺激に繰り返しさらされることによって「くり返される刺激への反応が減少すること」である「馴化」が起こるため、筆記によってネガティブ感情を感じる度合いが減るだろうということも実験されており、「実験参加者らは筆記中にくり返される暴露を通じて、ストレスに関連した刺激に対して情動的に純化されたことが示唆される」という結果になっている。
ペネベーカーのプログラムによる言語分析も、眼に見える形で残しておけることによって内容を再吟味することが容易となるという筆記の特性に負っているところが多いだろう。話し言葉であったら、レコーダーで録音してでもおかない限り、内容を正確に再現することはほぼ確実に不可能であるが、文字を使えば、幾度、どれほど時を経たのちに読み返そうとも、その内容は書かれたときのままだ。保存のできるメディアで記録するということは、いつでも書いた事柄を思い出せることにつながる。そしてそれは、またいつでも満足するまで書きなおすことが可能であるという意味で、その事柄に関する思考を一時的に保存しておく役割を果たしうる。さらにこの保存できるという特性から、言葉を活字にするメリットとして、言葉を伝える相手を時間や場所に拘束しないということを、次章で検討したい。
第三章 コミュニケーションとしての筆記
第一節 媒体が可能にすること
神田久夫は、芸術療法における表現の特質について、前章で見たような表現すること自体の自己治癒的なはたらきのほかに、コミュニケーションの媒体として「他者や自己に向かって何かを伝える、表明するという意味が含まれている」という。そこでは「内的な自己治癒のメカニズムは、アート表現を通してふれあい、理解しようとしてくれる共感者との交わりがあって初めて、十全に機能し始める」 のであり、この二つのはたらきの関連が示されている。また、フラハティによる、ハイパーグラフィアは他者に理解されたいというコミュニケーション欲求を満たすための代替行為なのではないかという推察からも、表現するということにおいて、共感してくれる者がいることは非常に重要な点であると考えられる。
しかしここで、とりわけトラウマティックな経験に関わる表現は、経験自体が言葉にしづらいことに加えて、語る相手を選ぶという難点があることについて述べたい。ペネベーカーの扱った事例に、母親の再婚相手に性的な行為をされ続けた女性がいる。「彼女が経験したあのトラウマは、それが性的なものであったがゆえに彼女の心を荒廃させたのではありません。むしろ彼女の苦悶は、そのトラウマについて誰かに―特に母親に―話したいと必死に願いながら、いつまでも話すことができないでいたために生じたのです」と、ペネベーカーはいう。この場合ではおそらく、彼女がその経験を母親に話すことは家庭を崩壊させかねないし、知られたところで誰もが不幸にしかならなかっただろう。衝撃的な出来事というのは、その内容が聞かされた人に与える影響を鑑みて語られないことも多いのである。
だが、語らなかったからといって経験自体をなかったことにできるわけではなく、その経験による衝撃が大きければ大きいほど、誰かに理解してもらいたいと思うに違いないし、重大な秘密を長期にわたって抱えることが健康に与える弊害は『オープニングアップ』でペネベーカーが示したことだ。そこで、筆記の特性にその応急処置的な効果が期待できるのである。フラハティによると「文章の力の一部は、距離は遠くても聴衆がずっと多いという事実から生まれるのかもしれない。文章は話しかけるコミュニティがないときにコミュニティ意識を生みだすことができる」。ここで想定されている聴衆というのは、出版物やインターネット上の公開の場合は不特定多数の誰かであると考えられ、そのほかにも離れてしまって連絡手段のない相手や、もはや二度と会うことは叶わない過去の人、まったく架空の相手や人ではないものを聴き手として想定することもできる。目の前にいない誰かに向かって語りかけることを、口に出すという方法でもってしたら幻覚が見えるのかと思われかねないが、書くということは、手紙を考えてもらえばわかるように、基本的にその場にいない相手に向かって語りかける行為なのである。そこでは、特に不特定多数に公開する場合では、今すぐに誰かに理解されることは必要ではない。もしかしたらいつか誰かにわかってもらう可能性があるのかもしれないといった心持ちで、身近なコミュニティに属する人には言うことができない事柄を語ることができる。
さらに付け加えると、筆記を心理療法として利用するメリットには、現実的なところでその手軽さがある。まず最低限には紙とペンがあればいいので、精神科を受診してカウンセリングを受けるよりも、格段に安価である。隔離された獄中で、血文字で壁一面に書き連ねた人がいたという例からも、極限の状況で特別な準備がなかったとしても筆記行為は可能であることがわかる。教育水準による識字能力の有無を別にすれば、筆記療法は誰にでもできる方法であって、情緒不安定へ対処するために特別な費用を割く余裕がない場合には、かなりの費用対効果が見込めると言える。また、コミュニケーションの媒体としても、離れたところにいる複数の相手に情報を伝えたい場合に、文字を使った方法は安価で簡単な方法として役に立つ。ただし、音声や映像とは違ってまさに言語のみの情報であるという点で、意味の取り違えや伝えたいことが伝わりきらないこともあるだろうということには注意したい。また、手書き文字とパソコンなどのキーボードで入力された文字では、手書きのほうが筆跡の変化による表現の自由度が高いという違いがある。同じ活字の文章であってもこの二種の違いは書く方の気持ちにも読む方の気持ちにも影響すると思われ、その伝達様式にかかる時間や距離や手間などの条件も異なっている。
フラハティは、その著書のなかで自分の子どもの死に関わる自分の役割を書き、「どうしてわたしはこのようなことをここで語らずにはいられないのだろう?聞かされたほうは当惑するだけなのに」と述べている。しかし、直接目の前にいる人から避けられなかった子供の死について語るのを聞かされるのと比べると、本のページに書かれたものを読むことは、メッセージの受け手にとってたいした当惑にはつながらないと、私は読者として思う。本のなかのひとつのエピソードは他人事として受け取れるうえに、著者は私がそれを読んでいることも知らず、深刻な悩みについて何らの応対も求められていないからである。聞きたくないのなら、読者はそれを閉じてしまえばいいだけのことだ。このことから、書くことには話すのとは異なって、一方的な言葉を連続的に表現できることがわかる。とりわけ特定の人に見せる予定のない文章では、相手に合わせて言葉を選ぶなど、他者の都合を考えて表現方法を考える必要がない。このことは、何らかの出来事によって大きな衝撃を受けると、周りの人の事情を汲む配慮をしている場合ではないという心理状態になりがちであることを思うと、書くという表現による発散の利点の一つだと言えるだろう。それは、非常に深刻で何ともコメントしようのない語りに対しても、その受け取り手に応対を強要しないという意味で、相手の迷惑を考えてしまう発語者の心理的負担を軽くしている。
第二節 筆記向きの人
ペネベーカーが筆記療法の研究を始めたのは、自身がよくものを書いて気分が楽になることを経験していたからであった。「私はどちらかといえば人目につくのが苦手で内気な人間だったので、筆記は、他人に告白するにはプライドが許さない多く個人的な問題を打ち明け、処理することに役立ちました」とペネベーカーは言う。フラハティとペネベーカーの両者に共通して、筆記行為を研究しはじめたことが自身の習慣に発端しているのはテーマの特性を表わしているかもしれない。ある人にとっては非常に重要な意味を持つ行為であっても、周りからはその重要性が理解されるとは限らないということだ。
この節では、筆記療法がどのような性質を持った人に向いているのかを述べていきたい。筆記療法は文字を書ける人であれば誰にでも可能な手軽さで注目されているのだが、筆記療法に関する詳しい研究によると、書くことによって効果を得ることができる群と、まったくと言っていいほど効果が見られない群に分けられることが示されている。誰でもできるが、誰にでも効果があるわけではないのである。
では、どのような性質の人に、筆記による内面の開示は有意義な効果が見られるのか。1997年のペネベーカーの研究によると、「開示が成功するかどうかは、人々にどの程度ネガティブな感情の記憶にアクセスし、表現し、処理し、究極的には解決する能力や自発性があるかによる」。つまり、嫌な記憶と向き合おうとする自主性が必要なのであり、「自身のストレス体験を認めて、そうした体験の記憶をよび起し、それらの感情を固定、言語化し、最終的には、その体験について異なった考えをするようになったとき、その人は開示による恩恵が受けられるようになる」と考えられている。
レポーレは、このような筆記による気分の改善効果がみられる群の思考の特徴を「侵入思考」という尺度で捉えており、侵入思考と筆記効果に相関関係があることを、いくつかの実験で証明している。「侵入思考は、その人が感情的な苦悩を抑制し、回避しようとしながらも、その苦痛の存在を認識しているサインと考えられ」ている。たとえば、「大学生を対象に失恋体験を筆記させ、侵入思考の程度の低い人ではなく、高い人でのみ健康が増進するという結果を見出し」、「差し迫っている試験について筆記すると、試験についての侵入思考が高い人でのみ、気分が改善された」ということだ。よって、ネガティブ感情の筆記によって気分の改善効果を得られるのは、嫌なことを嫌だと捉えており、それに関する苦悩を避けようとする人であるようだ。失恋体験や差し迫る試験について、悩んでも苦しいだけで仕方のないことを悩まずにはいられず、しかし苦悩するのは辛いからできればやめたいと思っている人には、開示の効果があるわけだ。試験前の教室でお互いの不安を確認し合うような行為は、これに類似する効果を持ったものと考えられる。外傷体験とは違い、失恋や試験への苦悩は多くの人にとって共感できるネガティブ感情であって、聴き手に苦痛を強いるものは少ないので、よほど内気でプライドの高い人でなければ発話による不安の発散が見込めるのだろう。
サリヴァンとネイシュによる、歯医者での処置を受けようとしている人を対象に、歯医者の恐怖について簡単に筆記させた効果を調べた実験においても、「痛みの緩和や気分の改善というよい結果は、心配を認め、痛みが抑制できないことを認めた、いわゆる痛みで大騒ぎする開示者で認められた」という結果になっており、これもまたレポーレの主張を裏付けるものである。痛みをあまり感じない人や、歯医者を怖がらない人に痛みの緩和や気分の改善といった効果がみられないのは、そもそもそれほど気分が悪くなっていなかったからだが、心配しながらも自分が恐がっていることを認めない人や、痛みは我慢すれば消失するものだと考えている人においても改善が見られなかったということは、侵入思考という思考の傾向性の、筆記による気分の改善効果への影響の大きさを示唆していると考えられる。
まとめると、「ネガティブ感情を体験していることを認め、感情を表出してよいか葛藤している人、感情を抑制し回避しようとしている人、侵入思考を持ち心配している人は開示の恩恵に浴するという予備的な証拠がある」と言われている。前述のフラハティの考察では、感受性が豊か、内向的かつ抑制的で、読書を多くする人というのがハイパーグラフィア的な傾向を持ちやすい人格であったが、とにかく量をたくさん書けば心身の健康につながるというものではないことがここでわかった。まずはネガティブ感情を持っていると自覚していること、そしてその表出をあまりしていないこと、ネガティブ感情はないほうがいいと思っていることが前提条件としてあったうえで、それらに向き合おうとしていく自発性と、言葉にして考えながら出来事に対する認知を再体制化する能力を持っていることが、筆記によって気分改善を見込むことにつながっている。
第三節 過度の内向を促進する危険
ここまでは、いかに筆記には効果があるかを考察してきたが、筆記には注意したい点もある。ペネベーカーの指摘によると「コントロール不可能な問題に対処することにおいて筆記はとりわけ有効です。しかしながら、コントロールすることが潜在的に可能な状況では、筆記することはむしろ逆効果を生じるかもしれません。もし不快な状況を変えるために何かほかにできることがあるのなら、単に筆記するよりもそれを実行したほうがよいでしょう」ということだ。「アンネの日記」の場合やフラハティの子どもの死のように、一個人の力ではどうにもできない状況においては筆記によって渦巻く感情と折り合いをつけていくことは精神的に良いことだ。しかし、行動によって変えることができる状況ならば行動したほうがいい。これは至極当たり前のことだが、ハイパーグラフィア的といわれる特徴に「内向的かつ抑制的」というものがあることを思うと、この点は非常に重要な指摘だと言える。内向的で感情の表出を抑制しがちな人は、外に働きかけることが少なく、自己の内面ばかりに意識を向けることが多いように思われる。ネガティブ感情を書き出してみることは、あいまいな不満を明確にわかるようにすることには寄与するだろうが、それに対して自分に何かできることはないかと一考することが重要だろう。変えられる状況を我慢して、不満ばかりに目を向ける必要はないからである。そしてまた、コントロール可能な状況においては、ネガティブ感情を表出するのみでなく、実行によって状況を変えたほうがいいということは、不安を表出するのが悪いとは言わないが、試験前の不安についても同じことが言えるだろう。
さらにペネベーカーは以下のように指摘する。「あらゆることについて心の奥底にある考えや感情をひとたび分析しだすと、自己陶酔が生活を覆いつくすようになります。内省しているときには他人を排除して自分自身を見つめています。このような内省状態に支配されて暮しているならば、私たちは人に対して共感性豊かなよい友人であるとはいえませんし、社会における有能なメンバーであるともいえません。私たちが自分の人生を理解し、進路を再考することに役立つという範囲において筆記は有効です。自己陶酔の域に達するまで内省に浸るのは不適応です」。この指摘もまた、内向性を筆記行為によって増幅させる危険について述べたものだ。社会の内にあって思いやりがあって人の役に立つことが良いとされているのは、ひとつの価値観にすぎないとも言えるが、自己陶酔で満足する状態を望ましいと思わないのであれば、気をつける必要がある。
ただし、内向しているとは言っても、内に向かうことはある意味では他者とつながっているとも言えるということを、次章では述べたい。
第四章 心のなかの他者
第一節 内なる声
「わたしたちは文章を書くとき、まるで内なる声が語ることを書きとめているように感じる」と、フラハティはいう。聴覚で捉えるような音声ではなく、意識のなかで響くような声というのがあって、それを文字として書いているというのである。また、ステーヴィー・スミスは「なぜ、わたしのミューズは、彼女が不幸なときにだけ語りかけるのだろう。いや、そうじゃない。わたしのほうが、自分が不幸なときにだけ耳を傾けるのだ。幸福なときには、わたしは生きているだけでよくて、書きたいなどとは思わない」と書いている。不幸なときにだけ内なる声が聞こえて、それを書きたくなるというのは、情動的な衝撃を受けとめるためだと考えられるだろう。
耳で捉えられないのに聞こえる音というと、幻聴という現象が思い浮かべられる。その点はフラハティによって考察されており、「ハイパーグラフィアと幻聴のもとになっている神経活動には共通する脳の部位があるらしい。どちらも側頭葉のなかの言語を理解する部位(ウェルニッケ野)の活動が関係していると見られる。また内なる声、つまりわたしたちの日常経験を語り、作家の著作活動の源泉となるかもしれないが、病理的になると幻聴と解釈される声ともつながりがあるようだ」と言われる。このようにして書くことと内なる声が聞こえることには関わりがあるとされているのだが、この「内なる声」が聞こえるという感覚は、馴染みのない人にとってはそれこそ幻聴との違いがわからないものであるかもしれない。簡単に言うと、その声が実際に他の人にとっても聞こえるありかたで響いているものではないことを自覚できているかどうかと、聞こえてくる音を意識的に聞かないようにもできるかどうかが、両者を分けているものと考えられる。
側頭葉と内声の関係は、経頭蓋的磁気刺激法(TMS)という機器によっても示唆されている。これはさまざまな周波の磁気を当てて、脳の活動に抑制や刺激といった変化を起こすものである。「TMSを側頭葉にあてた試験的な研究では、詩神の訪れという感覚を引き出した」と言われる。「詩神の訪れ」という感覚が具体的にどのようなものなのかは判然としないが、このことから察するに、内なる声という現象は決して一部の人にしか聞こえない特殊なものではなく、脳の構造として備わっているものであって、それはハイパーグラフィアと関係が深いと側頭葉のはたらきなのだろう。たとえば、特定のメロディが耳にこびりついて離れないということは幻聴を体験しない人にもあるだろうが、「神経精神医学的に見れば、耳にこびりつく歌は幻聴と同じで、自我異和同的な声が歌っているのだ」と言われる。ただし、脳の構造として備わっているからといって、「内なる声」が聞こえるのをはっきりと意識していることはそこまで一般的ではないと思われるので、どのような人にどのようなきっかけで内なる声を意識するようになるのかは、興味深いところである。
先の引用中にあった「自我異和同的な声」というのは、自分のなかで響くが自分のものではないと感じる声のことである。そしてオクタビオ・パスによると「インスピレーションとは「誰のものでもなくてすべてのものである『言葉の声』に屈服すること」だ。その声にどんな名を―インスピレーション、無意識、機会、偶然、啓示―つけようと、それは常に他者の声なのである」。これは、アイデアは自分のものではなく、外から来るものであると考える説の典型的なものだ。内なる声を、自分の意識がつくりだしたものではなく、外からやってきた他者の声なのだと捉えることが、創造的なアイデアを外から降ってくるようなものだと考えることになるのだろう。
第二節 言葉の他者性
自我異和同的な声は幻聴のもとであるとされ、「内なる声に違和感が生じるという状態がもっと進むと、精神病につながる」と言われるが、外部から訪れるインスピレーションという感覚が内なる声のなかに含有されているという可能性を考えて、書くことにつながる内なる声が意味を持った言葉として聞こえることに注目してみたい。オクタビオ・パスが「言葉の声」は常に他者の声であると述べているが、それはどういうことなのだろうか。
浜田寿美男は「子どもは、すでに当たり前のように言葉を交わし合っている他者たちのなかに生まれます。そしてその他者たちと場を共有し、まなざしや表情を交わし合い、いまだことばにならない声をやりとりし、そうして身体を通して他者と対話的関係を生きる。そのなかから子どものことばは生まれる」という。子どもが言葉を覚えていく過程では、まわりの他者の使う言葉を学習していくのであって、決してひとりで世界に名前をつけていくわけではない。たとえば、ものを指さし合いながら名前を覚えるときには、合っているものを言ったときと間違っていたときでは他者の反応が違うところから正しい名詞を覚えていくのだろうし、形容詞や動詞にしても、その意味するところが何なのかは周りの人々の使い方を反映して学習していくだろう。初めから私のもとにあった言葉などはない。そうして「ことばにおいてはその対話性こそが本質で、対話なしのことばはありません」ということになる。子どもでなくても、私たちは相手によって、同じことを伝えるのにも言い方を変えることがあるのではないだろうか。あるひとりの人の使うひとつの言語は、相手や状況に合わせて変わるものであり、変わるべきものである。そして他者との関係から、私の言葉は作られていく。これに関連して、ジャック・デリダは『たった一つの、私のものではない言葉』で「私は一つしか言語を持っておらず、それは私のものではない」ことの証明を試みている。そこで、私の持っている言語が私のものではない理由は、「人は一つの言語しか話さない―そしてその言語は、非対称的に―人のもとへ、すなわち、つねに他者のもとへ、他者からふたたび戻って来つつ―他者によって保護されているのである。それは、他者からやってきて、他者のもとにとどまり、他者へとふたたび戻ってゆくのだ」というように、私の持っているは他者からやってきて他者へと戻っていくものであるから私のものではないのだと説明される。まさに、私が普段使っている言葉が、他者との対話という関係の中で生成されるものであること、言葉の声が他者の声であることを言っているのだろう。
さらに浜田は「周囲に誰もいなくても、どんなに一人きりになっても、自分の世界から他者を完全に追っ払ってしまうことはできません」と言う。なぜなら「私たちは生まれてこのかた、いろんな人と出会い、つきあい、交わり、そのなかでたくさんの対話的関係を積み上げてきました。それは膨大な量におよびます。そこにはもう忘れ去ってしまったようなもの、古びて断片しか記憶に残っていないものもあるでしょう。しかしそれでもなお膨大なものを身にまとっていて、いわばそうして蓄積されてきた対話的な関係の網の目に包まれるようにして、人は生きているのです」。そのようにして、過去にあった出会いは憶えていなくても無くなるものではないのだから「実際には目の前に他者はいない場面でも、人はつねに他者との関係につきまとわれている。あるいは人はつねに不在の他者を内に抱えているという言い方ができるかもしれません」と言われる。このことから、たとえそれがひとりの部屋で誰にも見せないものを書いているときであったとしも、表現することは常に他者と不可分なことであると言えるだろう。私の使う言葉のすべてが、過去にどこかで誰かと出会い対話した記憶とつながるものであり、表現するということは可能性としてであっても他者に受けとめられることに向かっているからだ。
たとえば、誰かに言われた言葉が耳から離れずにいるときに、その言葉を頭の中で反芻して応対する言葉を探している状況は、内なる他者と対話しているのだと言えるのではないだろうか。神田久夫が「イメージには必ず、外的現実や実際の経験の再生的要素が含まれる。ただし、外的現実や経験を完全に模写したイメージや、再生したイメージは存在しないし、すべてが個人に固有の内的世界から生じたイメージも存在しない」と言うのも、ここで神田が想定しているのは視覚的イメージではあるが、同じことを述べているのだろう。内的世界の中で声を発する内なる他者は、経験として出会った他者の記憶の要素を少なからず含み、もしくは組み合わされてできあがったものであり、架空の人物を想定していてもそれは完全に自分がどの他者の影響も受けずに創り出したものではありえず、また特定の誰かに似ていたとしてもそれはまったくのその人ではないのである。
第三節 客観的自分の成立
自分の使っている言葉や内なる声として聞こえる言葉は、他者との対話の記憶からとりこまれたものであることを、前節で述べてきた。このことから、内なる声が意識されるという問題は、他者との出会いから内的世界に生じる内なる他者のありかたに関係があるのだろうと推察される。そして、浜田が言ったように、言葉は他者との対話から生成されるのであって、人はつねに他者との関係につきまとわれているのだというと、では言葉を持たなかった頃には人にとって他者との関係はどのようなものであったのだろうかと問いたくなる。言葉を知らなければ言葉としての内なる声は聞こえないに違いないが、内なる他者を持たない心の状態とはどのようであり、そこから内なる他者はいかにして生じるのだろうかということを通して、内なる他者のありかたを考えてみたい。
乳幼児の発達の観点から、岩田純一によって「誕生後まもない赤ん坊は自己と非‐自己の区別があいまいで、自他が融合な状態にある」ことが主張されている。これはつまり、誕生後まもなくは内なる他者どころか他者も自己もない状態であるということだ。同様のことが長井真理によっても「もともとは、自己と他者とを隔てる乗り越えられない壁などは存在せず、両者は自由に行き来したり、ときには溶け合ってひとつになったりしうるのである」と言われている。さらに長井によると、この自他が融合している状態が、言葉による表現の根底にあるという。言葉もなく、自他も成立していない状態、それを長井は「沈黙」あるいは「根源的沈黙」と呼び、「何かを言葉で表現しようとするとき、まずこの根源的沈黙から、ある意味思考に向かう動きが生じる。意味思考とは、根源的沈黙から表現をめざして出ていく運動である」というように、この根源的沈黙こそが言葉による表現の出発点とも言える状態なのであると言う。幼児の体験様式から、人間は原初的には自他未分離なのであって、それゆえに私たちは、自他は理解し合うことができるという共感の信念を持つことができるのだろう。三章一節でコミュニケーションの媒体としての表現の役割について、表現を通してふれあい理解しようとしてくれる共感者との交わりの重要性を述べ、言葉には意味の取り違えが起こる可能性がある点に注意したが、解釈によってはまったく異なる意味にも捉えられかねない言葉を表現するときに、他者の共感を期待することができるのは、この「根源的沈黙」と呼ばれる自他が融合した状態が根底にあるからなのだと言える。
そして生後2~3か月頃からは、この自他未分化な状態に変化が生じてくる。その変化としては、生後二か月頃までに乳児は人とモノとを識別する能力を持ってきて、「モノには一方的に働きかけ、操作するものであるが、人は何らかの感情や意図(主体性)をもって応答してくる存在であることに気づいてくるようである」。さらに生後三カ月頃には、乳児は養育者と本格的に相互的なやりとりをし始める。そこで乳児は、自分の反応を相手に合わせて組織化し、相手からの反応を期待しながらのやりとりの展開ができるようになるのであって、「この相互のやりとりは、相互主体的な自他の関係の成立によって可能となってくるのである」。このようにそれぞれに主体性を持った自他が成立するのであるが、しかしまだこのころの乳児は「心の中」というものを持ってはいないと考えられる。なぜなら、「〈わたしがわたしについて考えている〉とき、そこには考えている主体としての私と、考えられる対象としての私とに自己は二重化されている。まさに1歳半ば頃には、それまでの主観的な行動主としてのわたしだけではなく、知識の対象としての客我(対象としてのわたし)が生じてくるのである」ということから、乳児が自分のことについて考えるようになるのは1歳半からであることがわかる。そして「自己性の認識とは、自らを対象として思い描けることである。自己のメタ化が始まるといってもよい。それにともなって〈私はお腹が減った〉〈これがほしい〉といった自らの内的状態を内省することができるようになってくる」ことから、自己が二重化することによって初めて自分について考えられるようになり、それこそが自らの内的状態を内省することを可能にしているのである。つまり、客観的に知られる自分とは異なった「心の中」を持つのは1歳半を過ぎてからであると言える。「ふり」をすることができるようになるのもこの頃であり、それは自分の心を考えることができるようになることで、現実と心で思い浮かべたことの区別ができるようになり、自分ではないものになりきれるようになるということだ。また、表現しなければ自分の内的状態は他者にはわからないのと同じように、自分とは違う内的状態を他者が持っているということも知るようになる。主体性及び内的状態の成立がともに自他同時であることは、自他の区分のありかたを表わしていると言えるだろう。
自分を自分として対象化すること、自分の内的状態を内省すること、そしてそれを言葉で表現するようになることが、ほぼ同時期に連続して可能になることがわかった。それらは自己の二重化によって可能になるのであったが、「話し言葉では潜在的なままにとどまっている、この語る主体と言表主体の分離は、書記行為あるいは読書行為において明確になる」と長井は言う。発達段階において、書記や読書行為の成立は話し言葉で内的状態を表現することよりはまだ先のことではあるが、書いたものは読みなおせるようになるということと関連して、筆記には書かれたものを客観できるという効果が顕著にあるのである。「芸術療法の適応を考える場合、重要なのは「程よい距離」がとれていることであり、これは患者自身が自分のことを他人の話であるかのように話せたり、自分自身を見失わない程度に自分を遠ざけておくことができるかということなのだ」と、ジャン=ピエール・クラインが言うのも、自分を客観できなければ表現による効果は見込めないということだ。自分のことを他人のことと同列に捉えることができなかったり、自分のことと少しも距離が取れない場合には、自己を表現することは不可能なのだ。そのことと、筆記の効果が見込めるための条件に、ネガティブ感情に向き合う自発性や出来事の意味を再体制化する能力を持っていることが挙がっていることを踏まえて、ペネベーカーは「筆記は予防的な管理法であると考えるべき」だという。ある程度の自己同一性や信じる力を保持していなければ、向き合いたくない現実を認めていく作業をひとりで進めていくことは難しいのである。
ただし、この「客観的になる」ということは、一般的には冷静な判断ができてよいことだと考えられるが、そうとは限らないという症例もある。長井真理の『内省の構造』によると、分裂病の「内省型」は、「事後的内省」といって、何らかの体験をした後に自分自身へのふり返りとして「すでに一定のしかたで世界へと現出してしまった自分」に向けて観察が生じる場合と、「同時的内省」といって「まさに今、世界へと現出しつつある自分」に観察の眼が向けられているものの二種類に分けられるという。この二つの自己観察の分類は、まさに自己を客観的に見ることであり、分裂病でない人の内省のパターンとも同じであると捉えてよいだろう。内省型の患者は、自らの心理状態を常に分析し、それを精神科医に言葉で表現できるため、外的な行動に症状が現れにくい寡症状性の分裂病の研究成果は、彼らの表現力に寄ってきたと言われる。では、「内省型」の何が問題なのかというと、特に「同時的内省」の状態において「普通なら「われを忘れて」いるはずの、日常的な素朴な体験のまっただ中にあっても、われわれの患者は決してわれを忘れることがない。「どんなに夢中になっても……心から人の中にとけこめない」のである」。いくら言葉そのものに他者性が含まれており、内省することは内なる他者へと向かうことだとは言っても、この患者の「心から人の中にとけこめない」という感覚は、過度の自己の二重化による弊害を示唆しているだろう。決して、内省によって客観的に自分を見つめることが悪いわけではなく、それによる恩恵は多いのだが、人と共にいるときまでは内なる声に耳を傾けることに囚われ過ぎないようにしたいものである。
おわりに ―不断の予防―
書かなければ気が収まらないというような衝動的表現行為は、なぜされるのだろうか。その答えを本論文では模索してきた。第一章では、ハイパーグラフィアという病的な筆記行為の神経学的分析を紹介し、第二章ではペネベーカーの主張を元に、筆記には激しく情動に衝撃を与えた出来事を受け入れる効果があることを考察した。第三章では、人に何かを伝えるという目的で文字を使う特徴を主に口頭で話す場合との対比で考え、筆記行為と内向性との結びつきの強さに起因する危険への注意点を述べた。そして第四章では、内向が他者へと向かうものでもありうることを、内なる声の他者性や発達段階における内省の成立過程を見ることで検証した。
結果として、それまで持っていた枠組みでは囲みきれないような出来事がきっかけとなって表現衝動は生まれることがわかった。また、筆記が心理的によい効果を生み出すためには、当事者に辛い出来事と向き合いそれを再体制化できるといった条件が必要である。その効用は言葉にして残しておくことと、想定した他者に伝えて共感されることを通して得られるものであり、発話による発散と似てはいるが、よりはっきりと自己の語りを客観でき、伝える相手を限定しないところに特徴があった。筆記と内向性について注意をしたが、それは内なる他者の声をよく聞くということでもあるので、実際の人付き合いに不都合をもたらすほどでなければ、内省はむしろ大切なことであるといえるだろう。
参考にした文献の中には心理療法に関係するものが多く、そこで特定の哲学者の見解を下敷きにしていると思われる主張も多々あったが、私にとって大事なのはそれを誰が主張したかということではなく、事実そのように見えることがあり、そう考えている人がいるということだと思ったため、基にされていると思われる哲学の文献を調べることはしなかった。
最後に、精神病理や心理療法を中心に取り上げてきたが、筆記は予防として有効であるということや内省は「内省型」の患者だけの問題ではないということから、病に罹っている特別な人だけの話ではないことを強調したい。河合隼雄は「人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根底にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらく他の動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知っていて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければならない。それはある意味では病んでいるのですね」と言う。皆藤章は、身体の障害や糖尿病などの慢性疾患を抱えている人を考慮して、心理療法に「「治す」「治る」ではなく、それらを含み込んだ「生きる」という在りようにコミットする必要性を強調し」ているが、自分がいつか死ぬ存在であることを知りながら生きていることを病だと言えば、生きるというありようにコミットする必要は特別なものではなく、アイデンティティに回収できない事実はいつもすぐ近くにある。皆藤は、不治の病や避けられない偶然の不幸に向き合うときには「存在に関する畏敬の念」を「背後に持ちながら生きること」が重要な在りようになってくると宗教性との関連を述べるが、これはトラウマティックな出来事というのが本質的に語りえないことであると関連するのではないかと思う。
論じ切れていない点や至らない箇所も多く、今後の課題になりそうな問題は山積みだと思われるが、書きたいという衝動をテーマに選んだ私はただでさえ冗長に書いてしまっているので、以上で本論を終わる。
〈註〉〈参考文献〉
アリス・W・フラハティ著、吉田利子訳『書きたがる脳 言語と創造性の科学』ランダムハウス講談社、2006年
J・W・ペネベーカー著、余語真夫監訳『オープニングアップ 秘密の告白と心身の健康』北大路書房、2000年
S・J・レポーレ、J・M・スミス編、余語真夫、佐藤健二、河野和明、大平英樹、湯川進太郎訳『筆記療法トラウマやストレスの筆記による心身健康の増進』北大路書房2004年
神田久夫『イメージとアート表現による自己探求』ブレーン出版、2007年
浜田寿美男『私と他者と語りの世界 精神の生態学へ向けて』ミネルヴァ書房、2009年
横山博編『心理療法 言葉/イメージ/宗教性』新曜社、2003年
森茂起編『トラウマの表象と主体』新曜社、2003年
岩田純一『認識と文化8〈わたし〉の世界の成り立ち』金子書房、1998年
長井真理著、木村敏編『内省の構造―精神病理学的考察―』岩波書店、1992年
皆藤章『日本の心理臨床④ 体験の語りを巡って』誠信書房、2010年
ドストエフスキー著、江川卓訳『地下室の手記』新潮文庫、1969年
ジャック・デリダ著、守中高明訳『たった一つの、私のものではない言葉 他者の単一言語使用』岩波書店、2001年
ジャン=ピエール・クライン著、阿部恵一郎、高江洲義美訳『芸術療法入門』白水社文庫クセジュ、2004年
斉藤慶典『知ること、黙すること、やり過ごすこと』講談社、2009年
酒井邦嘉『言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか』中公新書、2002年
ショーン・マクニフ著、小野京子訳『芸術と心理療法 創造と実演から表現アートセラピーへ』誠信書房、2010年
関則雄編『新しい芸術療法の流れ クリエイティブ・アーツセラピー』フィルムアート社、2008年
野矢茂樹『他者の声 実在の声』産業図書、2005年
はたよしこ編『アウトサイダー・アートの世界―東と西のアール・ブリュット―』紀伊國屋書店、2008年
【卒論準備】2ヶ月前の草稿途中
(タイトル仮)
「ひとりで表現するなかで他者へ向かう意識」
第一章 心理療法における感情表現
第一節 心理学基礎の不確かさ
第二節 言語化
第三節 視覚化
第二章 表現療法の効用
効果的なパーソナリティ条件
注意・馴化・認知的再体制化
コンテクストに収まらない経験 トラウマ(=同化の失敗?)
第三章 表現すること
秘密のままで象徴
「私」無き自己探求
他者に伝えることの意味 ひとりでも社会性(の限度)
自己の他者性 客観化と道標
序
愚痴を他人にこぼすことでなんとなく心がすっきりした気分になったことや、悩みごとがあったときにその悩みを紙に書き出してみることで頭の中が整理されてまとまったようになったという経験は、誰しもあるだろう。愚痴をこぼしたところで、紙に書き出したところで、現実の悩ましい状況は何ひとつ変化していないというのに、心理的緊張状態が緩和されるように感じるのは何故なのだろうか。
私はこれからここで、なんらかの気持ちを表現しているときに、その表現している人の心中ではどのようなことが起こっていて、感情表現によって生じるとされる心理的健康とはどのようなものであるかを考えていきたい。実験によって効果を実証することが目的ではなく、これまで行われた実験結果を参考にして、効果があるとされる行為をなしているときに人の心中ではどのようなことが起こっているのかという仮説を考えることを目的とする。
ちなみに余談ではあるが、私がこのテーマに関心を持った個人的な理由は、私自身、考えごとが頭を離れないときにたいへん長い日記を書きなぐる癖を持っており、公表するのも憚られるほど感情的な日記を読み返すたびに「なぜ私はこのようなものを書かずにはいられないのか」という疑問を持ち続けてきたからだ。「感情を何らかの形で表わさずにいられない人は何のためにそうしているのだろうか」という問いは私にとって、まさに他人事ではないのである。
第一章 心理療法における感情表現
第一節 心理学基礎の不確かさ
心理学には、感情を表現することが精神の健康へとつながるという研究がある。そして、そのことを利用した心理療法が多数ある。これらの研究成果や心理療法が基づく理論を参考にすることで、上記の疑問に対する答えに近づけるのではないかと私は考えた。
しかし心理学の領域ではあくまでも、クライエントの行動を変えることや心理的負担を軽減することに重点がおかれている。実験データをもとにおこなわれる考察は効果に違いがあったかということが主な問題であり、実証的でない事柄については考察されない。実証的でない事柄を閉め出したことは、まさしくそれによって心理学が心の「科学」として確立せしめられたといえることなのだが、そうはいっても依然として「心とは何か」「心の健康とはどのような状態か」という心理学の基本にあると言える理論的テーマのなかには、いくつかの主張が混在しており、ほとんど定まってはいないと言ってもよいほど議論の余地が残されている。
たとえば他者の心の存在は、厳密に実証することは不可能であるとも思われる事象である。しかし、他者の心は存在するのかという問いにいつまでもとどまっていたとしたならば、心理学の発展は一歩たりともありえなかったに違いない。他者の心の存在を前提としたことで、心理学は成り立つことが可能になったのだ。このことから、不確かな事柄を前提として仮定することは学問の発展にとってあながち悪いばかりのことではないことが分かる。ただし、不確かな仮定は不確かな仮定として認識されていることが肝要であるし、多くの実験がよって立つ不確かな前提を確かなものに近づけるための理論の構築は目指されるべきものだろう。答えの出せない問いは考え続けなければならないということが答えだという言い分もあり得るが、答えを出さないぞという心意気で問うことは問いに対して不誠実な感が否めない上に、根本的な事柄を問わずに進められる科学研究の成果がどうのように扱われるかという恐ろしい行く末のことを考慮していないとしか思えないので、建前でもかまわないから本気で答えを求めようとする態度は必要である。
また、根本的な問題に答えが出されていないのは感情研究の分野においても例外ではなく、「感情とは何か、感情表出はどのようになされ、どのように認知されているのかといった根本的な問題が、少なくとも心理学的には未解決であるという現実が存在している」。なぜ感情とは何であるかという問題が未解決であるのに感情の研究が進められるのかは、たいへんな謎であるが、事実としてそのような状態にある。おそらく、研究が進めば答えに近づける類のものであると思われているのか、「感情」や「心」は日常的にも使用される語なので、非常に困難でありかつ批判される恐れにあふれた言語化を避けたとしても、個々人の了承の枠内で進めて行かれているのではないだろうか。
この論文では、他者の心については「ある」という前提に基づくことにする。それが望ましい態度であるかはさておき、なぜあると言えるのかを問うていたら話が先に進まないし、私は今、他者の心があるところでの話をしたいからである。感情については、この困難な課題に直接ふれる必要はないと判断したため保留とするが、感情が表現されたものについてはそこにその人の心の動きが読みとれるものと考える。参考までに、「感情」とその周辺概念として心理学でよく使用される語である「情動」や「気分」について、感情は感情にまつわる概念の中でもっとも広い範囲を包括しており、「何らかの刺激に対して、心理的に、あるいは物質的にふれることで生じる、快―不快の印象を伴う心的状態という程度にとらえるほうが妥当」とされており、情動は「急激に生じ短時間で終わる比較的強い感情のこと」で、気分は「数日から数週間の単位で持続する弱い感情」ととらえる見解が一般的なものであると考えられている。また、めざされるべき心の健康についてはひとまず、当人が肯定的に捉えられる状態であることとしておく。
第二節 感情を表現すること
語り療法を開発した医師ブロイアーの症例に、飲み物を拒絶していたO・アンナと呼ばれる女性が、犬がグラスの水を飲んでいるのを見ながら感じた怒りと嫌悪について語り、その直後から飲み物を口にすることができるようになったというものがある。このことは、心因性の症状はその原因について何らかの方法で話すことによって症状が改善されるということを示唆している。
「フロイトとブロイアーは、抑え込んで閉じ込めた感情を開放することこそが語り療法の価値であると考えました」「閉じ込められた感情の開放、すなわちカタルシスが、精神的な緊張を解き放つ」
言葉にすること 語り療法
言葉を視覚化すること 筆記療法
言葉にならないものを視覚化すること 描画療法
浄化 昇華 脱抑制 生理反応
思ったことや感じたことを吐き出すことが精神の健康のためになると言われ始めた起源は古い。
「私たちは自分自身にとって一貫性と意味を備えたストーリーを構築する必要があります」
「主要な世界宗教―キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教はどれも、情動の表出を含め、犯した罪を認めて告白することを推奨しています」
「私たちは聴衆の種類によって「心の奥底」という概念の定義を変えます。私たちはまた、同一の出来事に関する解釈を状況によって微妙に変えます」
「イメージには必ず、外的現実や実際の経験の再生的要素が含まれる。ただし、外的現実や経験を完全に模写したイメージや、再生したイメージは存在しないし、すべてが個人に固有の内的世界から生じたイメージも存在しない」
「描画が言葉による説明より優れている点は、言語表現の持つ力とか奔放さの及ばないところで、情緒や欲求、複雑な思いの微妙なニュアンスを象徴的に集約して表現できるところにある」
「描画には子どもの認知、情緒、欲求などの諸要因が反映されるとともに、文化や社会、家庭状況といった、生活環境そのものも如実に映し出され、そこから子どもの日常生活を垣間見ることもできる」
「芸術療法の適応を考える場合、重要なのは「程よい距離」がとれていることであり、これは患者自身が自分のことを他人の話であるかのように話せたり、自分自身を見失わない程度に自分を遠ざけておくことができるかということなのだ」
「表現は語源的には「外へ押し出す」こと」
「隠喩は謎なのではなく、謎の解決である」
レヴィナスは、私と他者とのあいだには断絶があると言った。絶対的断絶があるからこそ、私のほうから他者に呼びかけることが、他者と関係を持つためには必要不可欠なのだと。しかし、呼びかけによって初めて他者との関係が成立するというよりは、私は存在しはじめたときからすでに他者との関係のなかに置かれており、他者との関係なしには私などありえ得なかったというのが実際であり、その意味で呼びかけはなされなければならないことなどではなく、呼びかけないではいられないのが私なのだろう。たとえそこに他者がいないところでしかできなかったとしても、他者に向かって。
また、私が私のことを思うとき、思う私と思われる私との間には、他者との間に横たわるものとは種別が異なっているものの、これまた絶対的な断絶がある。ロジャーズの創設したクライエント中心療法では、現実の自己とセルフイメージがなるべく重なっていることが理想とされたが、おそらくこの二つが完全に重なり合うことは理論上ありえない。いかにイメージを近づけようとも、刻一刻と変化し続ける人ひとりを完全なイメージとしてとらえることは不可能であり、自分のことは自分が一番よく知っているとは言っても、イメージとしてとらえようとする限りにおいてそこには必ず盲点が付きまとうからだ。私が私を確認したければ、呼びかけ、呼びかけに応えた動きをしていることを確認するしかない。イメージと現実が重なった領域では、私が私の期待を逃れる動きをすることはまずない。問題は、イメージと現実が異なる領域において視覚に入った現実が発する声を聞きとることができるかという点である。私の意識に上がっていない私の要求は、私が向き合って聞きとろうとすることなしには、聞きとられないどころか、声にすらならない。この、声ですらなく、姿を直接とらえることもできないところの自分の状態に耳を澄まし、眼を凝らす作業こそが、私が問題にしている誰かに何かを主張するためでもなんでもない感情表現のことである。それは認知的再体制化や同化、ストーリー形成と言われる過程の始まりにある作業なのかもしれない。フィクションを創造したとしても、それを行なったのが私であれば表現は、象徴としての解釈が可能なものとなる。詳細な断片を拾い集めること。物語は場面なしには成り立たない。
関則雄編『新しい芸術療法の流れ クリエイティブ・アーツセラピー』フィルムアート社、2008年。
J・W・ペネベーカー著、余語真夫監訳『オープニングアップ 秘密の告白と心身の健康』北大路書房、2000年。
ジャン=ピエール・クライン著、阿部恵一郎、高江洲義美訳『芸術療法入門』白水社文庫クセジュ、2004年。
神田久夫『イメージとアート表現による自己探求』ブレーン出版、2007年。
アリス・W・フラハティ著、吉田利子訳『書きたがる脳 言語と創造性の科学』ランダムハウス講談社、2006年。
ショーン・マクニフ著、小野京子訳『芸術と心理療法 創造と実演から表現アートセラピーへ』誠信書房、2010年。
S・J・レポーレ、J・M・スミス編、余語真夫、佐藤健二、河野和明、大平英樹、湯川進太郎監訳『筆記療法 トラウマやストレスの筆記による心身健康の増進』北大路書房、2004年。
鈴木直人編『感情心理学』朝倉書店朝倉心理学講座10、2007年。
山内弘継、橋本宰監修、岡市廣成、鈴木直人編、青山謙二郎編集補佐『心理学概論』ナカニシヤ出版、2006年。
宮本久雄、金泰昌編『シリーズ物語論Ⅰ 他者との出会い』東京大学出版会、2007年。
【卒論準備】草稿案
卒論の進み具合・・・
タイトル(仮)
感情表現とメンタルヘルス ―アウトサイダーアートと芸術療法から―
アウトサイダーアートとは
アールブリュット、ドゥブュッフェの定義
インサイドとは? アカデミズムという形式(千住p.62) 日本では微妙?
アリストテレス「アートとは人に見せたくなるもののことを言う」見せない前提は祈り
坂上チユキ、病状&経歴とアウトサイドの定義
芸術家による「見出され」が必要であるということ
子どもの絵との違い
芸術療法
箱庭、コラージュ、風景構成法、筆記、etc.
抑制⇔向き合うこと 言語化
表現による客観化が与える心理的作用 悪い夢は人に話すと良い 祈りと告白
中井久夫とウィトゲンシュタイン 言葉にならないもの イメージ 象徴
一人称「私」のない自己表現
ユングのマンダラ 文化と創造
形式美と病理的表現
描かずにはいられない・モチーフへの執着という共通点
患者か天才か 狂気とは(フーコー)
狂気に魅かれる アウトサイダー意識を持つ人が増えているのではないか 傍流文化
【卒論準備】テーマを考える
私はせかされるのが嫌いだ。しかし、日常のなかで執拗にスピードが要求されることや、逃せないタイミングは多くあるように思う。
これは、いつの世にもあったことなのか、それとも現代の日本社会は特にせかせかしているのか、ということで、時間観と暮らしかたの関係を調べたい。結論としては「時間に追われる必要はない」と言いたいが、これはただの気持ちの問題かもしれない。
「時間」とは何なのか。天体の動きを目盛りでくぎったものなのか、運動との関係でとらえられることがある。眠たい講義に耐えているときと趣味に没頭しているときでは、主観的な時間の流れに違いがあることも、興味深い。
特に、時間は文化によって作られるものだと仮定して、文化の社会構造との関連でどのような時間観があるのかをみたい。今のところ「反復する時間」「円循環する時間」「直線状に発展する時間」の三パターンがあるようだ。このパターンの違いには、たとえば狩猟・農耕・近代産業というような、大枠の産業構造の変化が大きく関わっていると考えられる。そこで、暮らしかたのなかでも、暮らしと働くことの関係が変化している点に注目したい。働く場が「家」ではなくなったときに、生活と労働は、そこに金銭報酬があるかないかで分断された。タイムカードを切る働き方は「時間単位の身売り」と揶揄されることもある。これは「時間の所有」が「私の自由」だと考えられているからだ。
また、その文化が信じている宗教的なものも影響しているだろう。自然と人間の命をどのような関係性でとらえているか。死後の世界を現世とは別の世界として想定しているか、生まれ変わりを信じているか、その両方か。自分は死んだあと、ほかのものに生まれ変わってこの世に戻ってくると信じている場合と、死んだらあの世で極楽だと思っている場合では、見通せる将来のスパンや、生きているうちの目的も異なってくるに違いない。
時間のなかでしか生きられないように思われるが、時計がなくても死にはしない。もう少し時間を気にせず、そのときどきの感覚を大切にしていきたいなぁという希望を込めて。つまり、ゆっくりだらだらしたいんです!!と主張したい。
☆今まで読んだ本
(下線は、今のところ特に参考にしたいもの)
内山節『「里」という思想』新潮選書、2005年。
内山節『時間についての十二章 哲学における時間の問題』岩波書店、1993年。
内山節、竹内静子『往復書簡 思想としての労働』農山漁村文化協会、1997年。
内山節『自然・労働・協同社会の理論』農山漁村文化協会、1989年。
C・G・ユング『現在と未来 ユングの文明論』平凡社ライブラリー、1996年。
- 作者: カール・グスタフユング,Carl Gustav Jung,松代洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1996/11/01
- メディア: 新書
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シモーヌ・ヴェイユ、富原眞弓訳『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年。
シモーヌ・ヴェイユ、黒木義典・田辺保訳『労働と人生についての省察』勁草書房、1967年。
田中夏子、杉村和美『現場発 スローな働き方と出会う』岩波書店、2004年。
竹中恵美子、大脇雅子、丸本百合子『共生・衡平・自律 21世紀の女の労働と社会システム』ドメス出版、1998年。
広井良典『グローバル定常型社会 地球社会の理論のために』岩波書店、2009年。
レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』新潮社、1996年。
辻真一『スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化』平凡社、2001年。
☆これから読みたい本
(てきとうに挙げただけ)
エドワード・T・ホール『沈黙のことば』『かくれた方向』『文化を超えて』
エリアーデ『聖なる空間と時間』
デヴィット・スズキ『聖なる均衡』
ウェンデル・ベリー『ライフ・イズ・ア・ミラクル』
シューマッハ―『スモール・イズ・ビューティフル』
ホーケン『サステナビリティ革命』
島村奈津『スローフードな人生!』
イバン・イリイチ
ドネラ・H・メドウズ
バートランド・ラッセル『怠惰への賛歌』
鶴見俊介『神話的時間』
本川達雄『時間の見方・変える時』
ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
ポール・ラファルグ『怠ける権利』
【ゼミ】「眼と精神」(第5章) 終わらない絵画の探求。
存在を茂みに喩えると、奥行・色彩・形・線・動勢・輪郭・表情などはその枝であり、存在をよみがえらせられるものである。存在を茂みに喩えるのは、見えるところと見えないところが風による揺れや見る角度によって違い、繁みの奥は測り知れないという点で、言いえて妙である。枝というのは、全体を支え、水や養分を全体にいきわたらせる役目を持っている。このことから、絵画においては、全体から分離した「問題」もなければ、真に対立するやり方もないし、部分的な「解決」や、積み重ねによる進歩や、引き返しようのない選択もない。どんなに部分的に見える末端であっても、支脈は全体をつないでいる。そういう訳で、画家がいったんは退けた象徴を、それに違った意味を持たせて再び使うことは、許されているのである。たとえば、ルオーの輪郭はアングルの輪郭ではない。というのも、ルオーの画風では、黒く骨太に描かれた輪郭線が力強く奔放な勢いを持っているのに対し、アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えていたため、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、その輪郭線は形態をかたどる役目を果たすためのものだった。何を重視するかによって、同じ輪郭でもまったく異なった意味が付与されうる。また、光は、レンブラントやフェルメールなどにとっては好んで描かれた重要なモチーフであったが、ジョルジュ・ランブールによって年老いて魅力のなくなった権力者の妻のようだと揶揄される。これは、キュビスムの画家たちが光を追放したことによる。彼らは〈画面の肌〉と言われる筆致と絵具が画面上に作り出す材質感に、新たな表現を求めて、貼り紙の技法を使ったり、絵の具に砂を混ぜたりした。しかし光は、デュビュッフェにおいて〈画面の肌〉のある種の感触として再び現れてくる。つまり、いったんは退けられた光という象徴が、今一度とり直されたということだ。このような回帰は避けようがないものだとメルロ=ポンティは言う。
余談になるが、デュビュッフェは子どもや精神障害者による作品を「生の芸術」として称賛した人物であり、「うまい歌手の歌よりも、ひとりの娘が階段を磨きなががなりたてる歌の方が、私の心に響いてくる。それぞれ好みは違う。私は少ないものを好む。同じように萌芽の状態を、不細工さを、未完成さを、雑多さを。私は殻の中のダイヤモンドの原石を好む。その不純物とともに」という言葉を残している。このことから、デュビュッフェが画面上のある種の感触として採用した光も、一度追放される以前のものとは異なった意味が与えられていたと考えられる。デュビュッフェも自ら集めて展覧会を開いたことがあったという精神障害者の絵画は、「見る」ことや「描く」ことについて、私たちが一般的に人間の機能だと思っているそれらはいったい何なのかを考えさせてくれるものである。白い紙を前にしたときに、何を描くのか。決まりはないが、知識としての認知・表現パターンはいくつか持っている状況で、何をどう見て如何に描くのか。存在をよみがえらせる支脈は、精神障害者と呼ばれる人たちの描いた作品のなかにも充分見てとれる、むしろそれはグロテスクさから無意識に目を背けてしまっていそうなほど飾らなく鮮明に骨格を浮かばせているようにも見える。不純物を含んだ殻の中のダイヤモンドは、ただの石ころといったいどこが違っているのかというと、それはおそらく絵画鑑賞において重要なカギとなる「想像力」と「直観」の問題なのだと思う。
話をもどすと、予期されなかった歩みよりもまた、避けられないものである。たとえば、ジェルメーヌ・リシエの彫刻作品は、ロダンの未完成の断片を思わせるところがあり、リシエにとっての完成した彫像は、ロダンにとっては未完成だったろうと思われるということがある。このようなことが起こるのは、メルロ=ポンティに言わせれば、リシエもロダンも彫刻家として、同じ一つの存在の網目に巻き込まれていたからだ。
同じ理由で、およそ何ものも完全な所有とはならない。本当の画家は、ビロードだろうと毛布だろうと、自分のお気に入りの問題の一つを「こねまわし」ながら、実は自分でも気づかずに、それ以外のあらゆる問題においても、もう解決されたと思われていたものを覆すことになる、と言われる。これは、ひとつのモチーフをこねまわして、それをどのように見ることができるか、あらわすことができるかを試行錯誤することは、ひいては世界のあらゆるものに対してのやり方の探求になるからである。つまり、画家の探求は、それが部分的であるように見える時でさえ、いつも全体的なのである。
画家はあるやり方を手に入れると、今までとは違った領域が開かれ、以前に自分が表現できた一切のものを、これからは違ったふうに表現し直さなければならなくなる。たとえば、遠近法を使わずに立方体をとらえることに成功した画家は、立方体以外にもそれまでに遠近法でとらえられてきたもの全てに対して、そのやり方を適応すると違った表現が可能になることに気がつくだろう。一度は「表現しえた」と感じた対象は、遣り口を変えれば違った姿であらわしうるものだ。そうすると、遠近法で描かれた立方体は確かに立方体であるものの、それだけが立方体であると言うこと、立方体というものをそのやり方だけで所有できたと思っていたら、それは間違いだということになる。画家は、彼が以前に発見したものをまだ所有してはいないということは、このことだ。所有されていないものには、なお追求の余地がある。メルロ=ポンティは、新しい発見とは別の探求を呼び求めるものにほかならないと言う。画家たちにとって世界は、存続する限り描き続けなければならないものなのである。よって、普遍的絵画、絵画の全体化、完全に実現された絵画といった理念は、それを問うことにすら意味がないということになる。
パノフスキーは、絵画の「諸問題」、つまり絵画の歴史に磁力を与えている諸問題が、しばしば見当違いな方向から解決されていることを指摘している。画家が関心を持ち、解決しようと探求を進めていく諸問題は、最初にその問題を設定した探求の路線上で解決されるのではなく、画家が探求の袋小路に突きあたり、もはや解決できないものとしてその問題を忘れてしまったかのように他の問題に惹きつけられ、そちらの問題の方に取り組んでいるとふいに突然、前の問題の方で越えられない壁のように見えたものを跳び越えることができる、といった具合で解決されることがあるというのである。絵画の歴史は、ひとつの目標に向かって真っすぐ、段階を追って発展していくという形を取らない。それは、回り道をしたり、横道にそれたり、越境したり、いきなり走りだしてみたりしながら、迷路のなかを錯綜しているようである。そして、このような絵画の歴史性は「迷路」というよりは、存在の茂みの内で奔走しているというふうにも思える。大きな茂みの全貌を知りたくて内に分け入ってはみたものの、非常に複雑で真っ暗なので、どちらが進むべき方向なのかなどということは、知る由もないのだ画家自身にも自ら通ってきた軌跡が、果たして進んでいるのかまた元のところに戻ってきているのかが何とも言えない、ということもある。歩いてはいるが、進んでいるのかはわからないといった状況だ。
しかし、絵画の言葉なき歴史性が迷路のなかを前進していくようだと言われるのは、決して、画家がおのれの欲するものを知らないということを意味するのではない。画家の欲しているものが〈目標〉や〈手段〉以前のものであって、それがわれわれの一切の実用的な活動を高みから指図している、ということなのだ。推測するに、画家は茂みを抜けてどこかに向かいたいのではなく、繁みの全貌が知りたくてうろうろと歩きまわっているのである。
とはいえ、絵画の歴史に見られる声なき「思索」が、まったくの暗中模索であり、意味のいたずらな渦巻きであり、麻痺し流産した言葉だという印象を受けるとすれば、それはわれわれが知的適合という古典的理念にとらわれているからである。知的適合という評価基準を取りはらってみれば、高みから指図しているものをとらえようとして迷路のなかを前進しているというのは、絵画だけでなく、文学や哲学、科学でさえもそうだと言える。なぜなら、いかなる思考も土台から完全に離れきることはないからだ。言葉としての〈思考〉は、それ自身の土台を自由に処理することができるという特権を持ってはいるものの、本当に獲得され、安定した財として蓄積されることはない。存在者をことごとく処理しつくすことなどは、どのような手段によっても不可能なのだ。手探りで堂々巡りをするように進んでいるのは、絵画だけではない。メルロ=ポンティは、結局のところ、どの分野においても客観的な貸借対照表を作ったり、進歩とは何かと考えたりすることは不可能なのだという。或る意味では、人類の歴史の全体が停止しているのだ、と。
これに対して、悟性が抱くであろう感想はおそらく「なんだ、理性の究極のところは、足元の地面がすべっていくことを確認して、昏迷の状態が明けないことを疑問などと名付け、堂々巡りを探求と呼び、完全に〈ある〉わけではないものを存在と名付けることに過ぎないのか」という、ため息まじりの失望である。ただし、ここで裏切られた期待というのは、メルロ=ポンティによれば〈おのれの空しさ〉の埋め合わせとなるような充実欲求の〈誤れる想像〉であるので、この失望というのは、自分が全知全能ではないことを悔しがって無理に駄々をこねているだけのようなものだ。
絵画はもとより他のどんな営みでも、段階を追って発展していく進歩を論じることができないのはなぜかというと、ある意味では、絵画の最初のものが未来の果てまで歩みつくしてしまったからである。〈絵画そのもの〉を完成させる絵画はありえないと言ったが、それは決してひとつひとつの作品に何の意味もないということではなく、むしろ創作は他の作品を変え、明らかにし、深め、高め、創り直し、前もって創り出すことになる。創作が所有につながらないというのも、全生涯を前方に有している、閉じこめられた部屋の中で有り得ようもない永遠の若さを装って見せるものよりは、放たれた家畜に近いものがあるからなのだろう。
絵画は、われわれの一切の実用的な活動を高みから指図しているところのものをとらえようとするが、なぜ絵画がそれを欲するのかというと、自分のものではないそれを自分のものにしたいからでも、空しさや欠けている箇所を補いたいからでもない。それは不思議として、まさに「描く」という行為も含めた一切の活動を指図しているところのものがそこにあるということが、知覚として目には見えないものだからなのだろう。見えはしないが、「見る」ということにも「描く」ということにも深くかかわっているそれが確かにあるということを、あらわそうとしており、まさにその活動の渦中にあるがゆえにそれを、所有はできずとも垣間見ることができるのが、絵画である。
【ゼミ】「眼と精神」要約③ 絵画における「運動」を、ロダンの言葉を手掛かりに。
(『眼と精神』p.292~295)
絵画の作りだしたものは、これまでに述べたような〈線〉のほかに、〈位置の移動なき運動〉もある。絵画は画布や紙の上で起こるものであって、動くものは生み出されない。移動することなく運動を表わすやり方には、痕跡によって移行を暗示するように、ある瞬間とその後の瞬間のちょうどあいだを切り取る方法がある。しかし、このことについてロダンは、瞬間的な現象、不安定な姿勢は運動を石化してしまう、―競技者が永遠に凍りついてしまっているような多くの写真がそれを示しているではないか、と注意した。マレーの写真、立体派の分析、デュシャンの『花嫁』などは、瞬間と瞬間のあいだの視像の数を増やすことによって、運動を起こさせようと試みたが、そのような試みによっては競技者の凍結が溶けることはなかったと、メルロ=ポンティはいう。視像の数を増やすことは、運動についてゼノンが抱いた幻想(「飛んでいる矢は止まっている」的な?)を示しているだけである。ひとつひとつの像は、その瞬間瞬間のそのものの位置を表わしてはいても、ここからあちらに〈行く〉という運動を表わすことにはならない。
では、いったい何が運動を見せてくれるのか?映画はフィルムのひとこまひとこまの連続によって運動を見せるが、視像の数を増やしたものの競技者の凍結を溶かすことができなかった試みたちと映画とでは、どこに違いがあるのだろうか。通常は、映画が運動しているように見えるのは、位置の変化を子細に移すことによってであると考えられているが、スローモーション・カメラの映像を思い出すに、どうやらそうではなさそうだ。
ロダン曰く、「運動を見せてくれるもの、それは腕・足・胴・頭をそれぞれ別の瞬間にとらえた像であり、したがって身体をそれがどんな瞬間にもとったことのない姿勢で描き、―まるで両立しえないもののこの出逢いが、いや、それのみが、ブロンズや画布の上に〔ポーズの〕推移と〔時間の〕持続とを湧出させうるのだとでも言わんばかりに、―身体の諸部分を虚構的に継ぎ合わせたような像なのだ」。たとえば、歩いてる人の両足が同時に地面にふれた瞬間をとらえた写真は、逆説的だが、運動を見事に見せてくれる。それは、人間の身体が空間をまたぎ越す〈時間的偏在性〉というものを持っていることを、示しかけているからである。
画像は、その内的不調和によって動きを見せてくれる。メルロ=ポンティによれば、身体の運動とは、どこか潜在的な中心点で、あらかじめ足・胴・腕・頭などのあいだで謀られている或る何ものかであり、それがただ次の瞬間に位置の変化へと炸裂するにすぎないのである。
走っている足が、実際にはありえない動き方をしている馬の絵を、ジェリコは描いた。この絵を、その時代にはカメラやビデオが普及していなかった無知の産物として片付けてはならない。なぜなら、全速力で走っている馬は、両足をほとんど身体の下にたたみこんだ状態の一瞬を取ることがあるが、このような馬を描いても、ただその場で飛び上がって浮かんでいるようにしか見えないからだ。馬の身体の構造的にありえない姿勢が、走っている馬らしく見えるというのは、どういうことなのだろう。その答えは、絵画が描こうとしているものが切り取られた一瞬の空間ではないというところに由来している。
「芸術家こそが真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです」と、ロダンは言った。迫りくる時間がすぐに閉じてしまうはずの瞬間を、写真は開いた状態で紙に焼き付ける。その意味で、写真は時間の超出・侵蝕・「変身」を打ち壊してしまうが、絵画は、不自然な身体で運動を表わす絵画は、逆にそれを見えるようにしてくれる。
歩いている人が両端を地面につけた瞬間や、ジェリコの描いた馬は、ひとつの身体として描かれながら、まさにその一瞬にしてはありえない体勢であるからこそ、その身体はある瞬間とその後の瞬間をまたぎ越している状態だと言える。このような状態が、メルロ=ポンティの言う、馬が「ここを去ってあちらへ行く」のであり、それぞれの瞬間に足を踏み入れているということだ。
絵画は運動の外面ではなく、運動の秘密の暗号を求める。言い換えると、動いてるものの一瞬の真実を切り取るのではなく、運動を時間の持続とともに描くのである。その暗号とはつまり〈すべての肉体が、そして世界の肉体でさえ、おのれ自身の外へ放射する〉ということだ。時代や流派がちがっても、肉体的なもののうち以外ではありえない(画家にとっても、鑑賞者にとっても)絵画は、まったく時間の外にあることはない。
繰り返しになるが、〈見る〉ということは、思考の一様態や自己への現前ではない。私が私自身から不在となり、存在の裂開―私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ―に内側から立ち合うために贈られた手段なのである。
※「世界の肉体」「存在の裂開」の意味がわからない。
【ゼミ】「眼と精神」要約②
(279〜283ページ)
前段落で、視覚には二種類のものが考えられることがわかった。ひとつは、デカルトに由来する「私によって反省された視覚」であり、もうひとつは「実際に起こっている視覚」である。しかし、この後者の事実的視覚や、その視覚に含まれる「そこにある」は、デカルトの哲学をくつがえすものではない。
視覚は、身体と結合したものなので、デカルトの定義からすると、身体と分かれた精神によって本当に〈考えられる〉ことはありえない。もしも視覚について考えたいとすれば、思考を身体的なものだと考えるほかには方法はない。そこで、メルロ・ポンティは、〈思考〉は初めから悟性と身体の混合物なのであり、そもそも純粋悟性に従属させようとすることがばかげているのだと批判する。
「生の行使」、すなわち、あまり深く考えすぎずに日常生活を送ることによって、心身の合一は可能になるのだが、〈思考〉というものは、〈思考〉と見なされずに思考される限りにおいて、この「生の行使」の旗印なのである。実存する人間や実存する世界は、必ずしも〈思考〉されなければならない対象として現れるわけではない。考えるべく課されているわけではないこれらのものを〈実存の或る次元〉という。この実存の次元は、思考と同じように「或る真理」によって支えられており、実存の次元の昏さと思考の明るさとはその「或る真理」に基づいている。
そこまで進んでみると、デカルトのうちにも〈奥行〉の形而上学らしきものが見いだされる。しかし、デカルトは「或る真理」の誕生を明らかにするわけではないし、神の存在は「深淵だ」のひとことで終わりにされる。デカルトにとっては、この深淵を測ろうと試みることは、心の空間や、見えるものの奥行を考えようとすることと同じく無駄なことなのだ。人間の身分はその資格を欠いているという理由によって。
「資格のないものはそれについて考えるべきではない」というデカルトの形而上学は、明らかになる領域を制限することで思考の明証さを確かにし、形而上学にこれ以上かかわってもしょうがないということを説く形而上学なのである。
こうしてデカルトによって深淵はのりこえられ、神秘は失われてしまった。
科学と哲学のあいだ、私たちが知覚について持っているモデルと「そこにある」ことの昏さのあいだには、もはやつながりはない。現代科学は、デカルトが科学に指定した領域の制限も科学の基礎づけもともに放棄し、デカルトの到達点であったところから出発する。神の裏づけなど必要ないのだ。
操作的思考は、心理学という名目で、デカルトが〈盲目の、しかし他のものへ還元しえない経験〉のために残しておいた、自己自身および実存する世界との接触の領域すら、なわばりとして主張する。操作的思考は、哲学に対して根本的に敵意を持っている。しかし、心理学は、デカルトから見れば混乱した思考に属する概念をいくつも導入した結果、そのうち哲学の意義を認めるようになるかもしれない。哲学は、その意義が認めなおされるまでの間は、デカルトが開き、すぐに閉じてしまった〈心身の複合体〉の次元、実存する世界や底知れぬ存在の次元に沈潜しなければならない。科学と哲学とは、デカルト主義の帰結であり、その解体から生まれた二匹の怪物なのだ。
さて、今のところ哲学に残されているのは、現実の世界の踏査の領域だけだ。心身の複合体として存在していることについての思考。実際に置かれている立場や状況について持っている知では、身体は視覚や触覚の手段ではなく、それらの受託者である。目や手が、見、さわるための道具なのではなく、見、さわるための道具が、傷つき失うことのある身体の器官なのだ。
ここで見られる空間は、『屈折光学』で語られるような、私の視覚の第三者的な証人ないし私の視覚を再構成しそれを俯瞰する幾何学者が見るような〈対象間の関係の束〉ではない。それは空間性の零点ないし零度としての〈私〉のところから測られる空間である。世界は私のまわりにあり、私はそれに包みこまれている。光もまた、その光のなかで現に見ていない人が考えるふうには考えられない。
視覚は、見えるもの以上のものを見せる。インクで描かれた絵画が、森や嵐を見せるのにじゅうぶんであれば、視覚は、身体とはなれたままで身体をあやつってみせる精神に委任されるはたらきではない。
問題は、空間や光について語ることではなくて、そこにある空間や光に語らせることだ。そこで果てのない問いかけ、片がついたとされていた一切の探求が再開される。存在とは何か、身体から切り離された精神にとってではなく、デカルトが身体に広がっていると言った精神にとって。われわれを貫き、包み込んでいるそれら自身にとって。
こうしたことを問う哲学、これから探求されなければならないこうした哲学は、画家に生気を与える。彼の視覚が行為となる瞬間、画家が「絵のなかで考える」ときにおいて。