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【ゼミ】「眼と精神」要約③ 絵画における「運動」を、ロダンの言葉を手掛かりに。

 

眼と精神

(『眼と精神』p.292~295)

 

絵画の作りだしたものは、これまでに述べたような〈線〉のほかに、〈位置の移動なき運動〉もある。絵画は画布や紙の上で起こるものであって、動くものは生み出されない。移動することなく運動を表わすやり方には、痕跡によって移行を暗示するように、ある瞬間とその後の瞬間のちょうどあいだを切り取る方法がある。しかし、このことについてロダンは、瞬間的な現象、不安定な姿勢は運動を石化してしまう、―競技者が永遠に凍りついてしまっているような多くの写真がそれを示しているではないか、と注意した。マレーの写真、立体派の分析、デュシャンの『花嫁』などは、瞬間と瞬間のあいだの視像の数を増やすことによって、運動を起こさせようと試みたが、そのような試みによっては競技者の凍結が溶けることはなかったと、メルロ=ポンティはいう。視像の数を増やすことは、運動についてゼノンが抱いた幻想(「飛んでいる矢は止まっている」的な?)を示しているだけである。ひとつひとつの像は、その瞬間瞬間のそのものの位置を表わしてはいても、ここからあちらに〈行く〉という運動を表わすことにはならない。

では、いったい何が運動を見せてくれるのか?映画はフィルムのひとこまひとこまの連続によって運動を見せるが、視像の数を増やしたものの競技者の凍結を溶かすことができなかった試みたちと映画とでは、どこに違いがあるのだろうか。通常は、映画が運動しているように見えるのは、位置の変化を子細に移すことによってであると考えられているが、スローモーション・カメラの映像を思い出すに、どうやらそうではなさそうだ。

ロダン曰く、「運動を見せてくれるもの、それは腕・足・胴・頭をそれぞれ別の瞬間にとらえた像であり、したがって身体をそれがどんな瞬間にもとったことのない姿勢で描き、―まるで両立しえないもののこの出逢いが、いや、それのみが、ブロンズや画布の上に〔ポーズの〕推移と〔時間の〕持続とを湧出させうるのだとでも言わんばかりに、―身体の諸部分を虚構的に継ぎ合わせたような像なのだ」。たとえば、歩いてる人の両足が同時に地面にふれた瞬間をとらえた写真は、逆説的だが、運動を見事に見せてくれる。それは、人間の身体が空間をまたぎ越す〈時間的偏在性〉というものを持っていることを、示しかけているからである。

画像は、その内的不調和によって動きを見せてくれる。メルロ=ポンティによれば、身体の運動とは、どこか潜在的な中心点で、あらかじめ足・胴・腕・頭などのあいだで謀られている或る何ものかであり、それがただ次の瞬間に位置の変化へと炸裂するにすぎないのである。

走っている足が、実際にはありえない動き方をしている馬の絵を、ジェリコは描いた。この絵を、その時代にはカメラやビデオが普及していなかった無知の産物として片付けてはならない。なぜなら、全速力で走っている馬は、両足をほとんど身体の下にたたみこんだ状態の一瞬を取ることがあるが、このような馬を描いても、ただその場で飛び上がって浮かんでいるようにしか見えないからだ。馬の身体の構造的にありえない姿勢が、走っている馬らしく見えるというのは、どういうことなのだろう。その答えは、絵画が描こうとしているものが切り取られた一瞬の空間ではないというところに由来している。

「芸術家こそが真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです」と、ロダンは言った。迫りくる時間がすぐに閉じてしまうはずの瞬間を、写真は開いた状態で紙に焼き付ける。その意味で、写真は時間の超出・侵蝕・「変身」を打ち壊してしまうが、絵画は、不自然な身体で運動を表わす絵画は、逆にそれを見えるようにしてくれる。

歩いている人が両端を地面につけた瞬間や、ジェリコの描いた馬は、ひとつの身体として描かれながら、まさにその一瞬にしてはありえない体勢であるからこそ、その身体はある瞬間とその後の瞬間をまたぎ越している状態だと言える。このような状態が、メルロ=ポンティの言う、馬が「ここを去ってあちらへ行く」のであり、それぞれの瞬間に足を踏み入れているということだ。

絵画は運動の外面ではなく、運動の秘密の暗号を求める。言い換えると、動いてるものの一瞬の真実を切り取るのではなく、運動を時間の持続とともに描くのである。その暗号とはつまり〈すべての肉体が、そして世界の肉体でさえ、おのれ自身の外へ放射する〉ということだ。時代や流派がちがっても、肉体的なもののうち以外ではありえない(画家にとっても、鑑賞者にとっても)絵画は、まったく時間の外にあることはない。

 繰り返しになるが、〈見る〉ということは、思考の一様態や自己への現前ではない。私が私自身から不在となり、存在の裂開―私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ―に内側から立ち合うために贈られた手段なのである。

 

 

「世界の肉体」「存在の裂開」の意味がわからない。

 

眼と精神

眼と精神