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【現代哲学】メルロ=ポンティの他者論  〜共存する主体という事実〜

知覚の現象学 1

知覚の現象学 2

1、メルロ=ポンティ他者論は、サルトルの批判を起点とし独我論を脱する

 メルロ=ポンティの他者論は、サルトルの他者論を批判するところから始まる。サルトルは、人間の実存を、意識的存在である対自存在としてのありかたと物的存在である即自存在としてのありかたの二種があるとして分けた。そして他者に対しての人間存在としては、対自存在と対自存在が出会った場面では、両方が主体として共存することは不可能であり、双方が相手を対象化しようとする相剋の関係をそこに見てとった。

 メルロ=ポンティはこれについて、人間が対自存在か即自存在のどちらかとしてあるという分け方は、人間が<世界にある>存在であることを無視した分類であると指摘する。世界のなかにおいて人間は、ただの物であることはないし、完全に意識だけであることもありえないからである。メルロ=ポンティにとって世界のなかにある人間存在は、物質的であると同時に意識的であった。そしてこのように人間存在が両義性を持っているということは、身体的存在としてのありかたそのものだ。身体は、物理的にとらえられるという面と、主体の意志によって動かされるという面を同時に実現している存在なのである。

 他者論としては、サルトルが意識的存在である対自存在が主体的なありかたであり、複数の主体が共存することはできないとしたことから独我論的な傾向を持っていたのに対し、メルロ=ポンティのように両義性を持ち合わせた身体的存在として人間の主体を考えると、主体の共存は可能であるどころか、現実的に主体は共存しているとしか思えなくなる。主体の定義を変えることによってメルロ=ポンティ独我論を抜け出したのだと言える。

2、メルロ=ポンティの主体の概念=身体的存在とは何か

 では、メルロ=ポンティが主体の概念とした身体的存在としての主体はどのようなものであり、独我論的であり他者と共存することのできない主体概念とはどう違っているのだろうか。

 メルロ=ポンティが批判する他者と共存することのできない主体概念は、対自存在と即自存在に分けられるサルトルの主体概念だけではない。主体の物質的側面と意識的側面は身体というありかたとして統合されており、分けられるものではないというサルトルへの指摘はそのまま、デカルトが人間の「考える」という意識的働きだけを信じられるものとして、感覚は疑わしいものであると切り捨てたことへも当てはまるものである。メルロ=ポンティは、幻影肢という症状をあげて、「幻影肢が一方では生理的諸条件に依存し、その限りでは第三者的な因果性の結果でありながら、それでいて他方では、患者の個人的経験や彼の記憶や情動または意志に所属することができるはどうしてであるか、わけがわからぬ」(1)というように、生理学的説明だけでも心理学的説明だけでも十分にこの現象を説明することはできないことから、身体としての人間のありかたは「心的決定因と生理的条件がどんなふうに噛み合っているか」(1)が問題になるという。メルロ=ポンティにとって「私とは私の身体である」(2)のであり、デカルトのように思惟する実態という意識的存在としての「私」は、意識的側面と物質的側面をあわせもった身体的存在の片面のみなのだ。

3、メルロ=ポンティは、観念上の世界ではなく事実の世界を求める

 デカルトの言うように感覚は誤りうるものであるが、メルロ=ポンティは、あくまでも<現実的なもの>にこだわる。感覚が誤りうるものであるにしても、そこには誤った感覚というものがあるのであり、錯覚が錯覚として語られるということは錯覚を錯覚として認めているからなのである。観念上の世界ではなくて事実の世界を求めるとき、誤りうる知覚は、誤っていてもそこに事実としてあるとしか思えないものとしては真理なのだといえる。

 同様に、そこに事実としてあるとしか思えないものを真理としてあつかったとき、世界や他者というものは語ることができるものとなる。「世界とは、私が思惟しているものではなくて私が生きているものであって、私は世界へと開かれ、世界と疑いようもなく交流しているけれども、しかし私は世界を所有しているわけではなく、世界はいつまでも汲みつくせないものなのだ」(3)。メルロ=ポンティにとっての世界とは、思惟の結果構成させるものではなく、自分の頭のなかだけにあるものでもない。それは、交流が可能であり関係を作ることのできるすべてのものなのである。この世界と交流するときには、私は必ず身体というありかたで存在している。身体の能力としての知覚こそが、世界を私の前に提示することができるからだ。

4、世界も他者も、交流できるが汲みつくせない

 疑いようもなく交流できるけれども、決して汲みつくせないという世界のありかたは、私と同じく身体的存在として世界のなかにいる他者の、私にとってのありかたも同様である。他者と言葉を交わすとき、言葉の意味というのが人の経験よって違うニュアンスをもってくるということを考えると「意識は自ら経験のなかに入れておいたものだけしか己の経験のなかに見出すことはできないということ」(4)が真実らしく思える。そしてこうなると、主体同士で意志を伝達するというのはありえないということになる。各々が自分の経験にそった意味だけを交わす言葉のうちに見出すということが、言葉のやりとりの結果であり、「何一つとして一方の意識から他方の意識に移行するものはない」(4)からだ。しかし、事実はそうではないからこそ、私たちは言葉を交わすのである。「事実は、我々は自分が自発的に考えていたよりも以上のことを理解する能力を備えている、ということなのだ」(4)とメルロ=ポンティはいう。言語のなかには思惟があり、他者に従って思惟する能力を私たちは備えているので、他者と言葉を交わすことによって、意識はそのなかにそれまでなかったものを生じさせることができるのである。

5、主体=身体、知覚=真実として、ただそうあるようにしか思えないという存在のありかたを記述した

 メルロ=ポンティにとっての課題は、明証性や確実性を世界のなかに求めることではなかった。「知覚世界の全幅にあいまいさが拡がっている」(5)というように、主体を身体として、知覚を真実として考えることは、世界にあいまいさを拡げることにつながるというのは、メルロ=ポンティもわかっていたことである。しかし「世界の問題、そしてその手初めとして自己の身体の問題は、すべてがそこに在りつづける、というこの一事のなかにかかっているのである」(6)。どんなにあやふやなものであっても、自己は身体としてあるのであり、世界や他者は交流可能なものとして広がっている。論理的な明証性よりも、ただそうあるようにしか思えないという存在のありかたを記述しようとすることが、メルロ=ポンティがその哲学によって試みたことであったため、メルロ=ポンティの主体の概念は他者との共存が可能なものであったのだと考えられる。

 

 

知覚の現象学 1

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知覚の現象学 2

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<引用文献>

  1. M.メルロ=ポンティ竹内芳郎、小木貞孝訳『知覚の現象学みすず書房、1967年、p.139。
  2. 同上、p.325。
  3. 同上、p.18。
  4. 同上、p.293。
  5. 同上、p.326。
  6. 同上、p.324。