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【ゼミ】「眼と精神」(第5章) 終わらない絵画の探求。

眼と精神

  

存在を茂みに喩えると、奥行・色彩・形・線・動勢・輪郭・表情などはその枝であり、存在をよみがえらせられるものである。存在を茂みに喩えるのは、見えるところと見えないところが風による揺れや見る角度によって違い、繁みの奥は測り知れないという点で、言いえて妙である。枝というのは、全体を支え、水や養分を全体にいきわたらせる役目を持っている。このことから、絵画においては、全体から分離した「問題」もなければ、真に対立するやり方もないし、部分的な「解決」や、積み重ねによる進歩や、引き返しようのない選択もない。どんなに部分的に見える末端であっても、支脈は全体をつないでいる。そういう訳で、画家がいったんは退けた象徴を、それに違った意味を持たせて再び使うことは、許されているのである。たとえば、ルオーの輪郭はアングルの輪郭ではない。というのも、ルオーの画風では、黒く骨太に描かれた輪郭線が力強く奔放な勢いを持っているのに対し、アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えていたため、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、その輪郭線は形態をかたどる役目を果たすためのものだった。何を重視するかによって、同じ輪郭でもまったく異なった意味が付与されうる。また、光は、レンブラントフェルメールなどにとっては好んで描かれた重要なモチーフであったが、ジョルジュ・ランブールによって年老いて魅力のなくなった権力者の妻のようだと揶揄される。これは、キュビスムの画家たちが光を追放したことによる。彼らは〈画面の肌〉と言われる筆致と絵具が画面上に作り出す材質感に、新たな表現を求めて、貼り紙の技法を使ったり、絵の具に砂を混ぜたりした。しかし光は、デュビュッフェにおいて〈画面の肌〉のある種の感触として再び現れてくる。つまり、いったんは退けられた光という象徴が、今一度とり直されたということだ。このような回帰は避けようがないものだとメルロ=ポンティは言う。

余談になるが、デュビュッフェは子どもや精神障害者による作品を「生の芸術」として称賛した人物であり、「うまい歌手の歌よりも、ひとりの娘が階段を磨きなががなりたてる歌の方が、私の心に響いてくる。それぞれ好みは違う。私は少ないものを好む。同じように萌芽の状態を、不細工さを、未完成さを、雑多さを。私は殻の中のダイヤモンドの原石を好む。その不純物とともに」という言葉を残している。このことから、デュビュッフェが画面上のある種の感触として採用した光も、一度追放される以前のものとは異なった意味が与えられていたと考えられる。デュビュッフェも自ら集めて展覧会を開いたことがあったという精神障害者の絵画は、「見る」ことや「描く」ことについて、私たちが一般的に人間の機能だと思っているそれらはいったい何なのかを考えさせてくれるものである。白い紙を前にしたときに、何を描くのか。決まりはないが、知識としての認知・表現パターンはいくつか持っている状況で、何をどう見て如何に描くのか。存在をよみがえらせる支脈は、精神障害者と呼ばれる人たちの描いた作品のなかにも充分見てとれる、むしろそれはグロテスクさから無意識に目を背けてしまっていそうなほど飾らなく鮮明に骨格を浮かばせているようにも見える。不純物を含んだ殻の中のダイヤモンドは、ただの石ころといったいどこが違っているのかというと、それはおそらく絵画鑑賞において重要なカギとなる「想像力」と「直観」の問題なのだと思う。

話をもどすと、予期されなかった歩みよりもまた、避けられないものである。たとえば、ジェルメーヌ・リシエの彫刻作品は、ロダンの未完成の断片を思わせるところがあり、リシエにとっての完成した彫像は、ロダンにとっては未完成だったろうと思われるということがある。このようなことが起こるのは、メルロ=ポンティに言わせれば、リシエもロダンも彫刻家として、同じ一つの存在の網目に巻き込まれていたからだ。

同じ理由で、およそ何ものも完全な所有とはならない。本当の画家は、ビロードだろうと毛布だろうと、自分のお気に入りの問題の一つを「こねまわし」ながら、実は自分でも気づかずに、それ以外のあらゆる問題においても、もう解決されたと思われていたものを覆すことになる、と言われる。これは、ひとつのモチーフをこねまわして、それをどのように見ることができるか、あらわすことができるかを試行錯誤することは、ひいては世界のあらゆるものに対してのやり方の探求になるからである。つまり、画家の探求は、それが部分的であるように見える時でさえ、いつも全体的なのである。

画家はあるやり方を手に入れると、今までとは違った領域が開かれ、以前に自分が表現できた一切のものを、これからは違ったふうに表現し直さなければならなくなる。たとえば、遠近法を使わずに立方体をとらえることに成功した画家は、立方体以外にもそれまでに遠近法でとらえられてきたもの全てに対して、そのやり方を適応すると違った表現が可能になることに気がつくだろう。一度は「表現しえた」と感じた対象は、遣り口を変えれば違った姿であらわしうるものだ。そうすると、遠近法で描かれた立方体は確かに立方体であるものの、それだけが立方体であると言うこと、立方体というものをそのやり方だけで所有できたと思っていたら、それは間違いだということになる。画家は、彼が以前に発見したものをまだ所有してはいないということは、このことだ。所有されていないものには、なお追求の余地がある。メルロ=ポンティは、新しい発見とは別の探求を呼び求めるものにほかならないと言う。画家たちにとって世界は、存続する限り描き続けなければならないものなのである。よって、普遍的絵画、絵画の全体化、完全に実現された絵画といった理念は、それを問うことにすら意味がないということになる。

パノフスキーは、絵画の「諸問題」、つまり絵画の歴史に磁力を与えている諸問題が、しばしば見当違いな方向から解決されていることを指摘している。画家が関心を持ち、解決しようと探求を進めていく諸問題は、最初にその問題を設定した探求の路線上で解決されるのではなく、画家が探求の袋小路に突きあたり、もはや解決できないものとしてその問題を忘れてしまったかのように他の問題に惹きつけられ、そちらの問題の方に取り組んでいるとふいに突然、前の問題の方で越えられない壁のように見えたものを跳び越えることができる、といった具合で解決されることがあるというのである。絵画の歴史は、ひとつの目標に向かって真っすぐ、段階を追って発展していくという形を取らない。それは、回り道をしたり、横道にそれたり、越境したり、いきなり走りだしてみたりしながら、迷路のなかを錯綜しているようである。そして、このような絵画の歴史性は「迷路」というよりは、存在の茂みの内で奔走しているというふうにも思える。大きな茂みの全貌を知りたくて内に分け入ってはみたものの、非常に複雑で真っ暗なので、どちらが進むべき方向なのかなどということは、知る由もないのだ画家自身にも自ら通ってきた軌跡が、果たして進んでいるのかまた元のところに戻ってきているのかが何とも言えない、ということもある。歩いてはいるが、進んでいるのかはわからないといった状況だ。

しかし、絵画の言葉なき歴史性が迷路のなかを前進していくようだと言われるのは、決して、画家がおのれの欲するものを知らないということを意味するのではない。画家の欲しているものが〈目標〉や〈手段〉以前のものであって、それがわれわれの一切の実用的な活動を高みから指図している、ということなのだ。推測するに、画家は茂みを抜けてどこかに向かいたいのではなく、繁みの全貌が知りたくてうろうろと歩きまわっているのである。

とはいえ、絵画の歴史に見られる声なき「思索」が、まったくの暗中模索であり、意味のいたずらな渦巻きであり、麻痺し流産した言葉だという印象を受けるとすれば、それはわれわれが知的適合という古典的理念にとらわれているからである。知的適合という評価基準を取りはらってみれば、高みから指図しているものをとらえようとして迷路のなかを前進しているというのは、絵画だけでなく、文学や哲学、科学でさえもそうだと言える。なぜなら、いかなる思考も土台から完全に離れきることはないからだ。言葉としての〈思考〉は、それ自身の土台を自由に処理することができるという特権を持ってはいるものの、本当に獲得され、安定した財として蓄積されることはない。存在者をことごとく処理しつくすことなどは、どのような手段によっても不可能なのだ。手探りで堂々巡りをするように進んでいるのは、絵画だけではない。メルロ=ポンティは、結局のところ、どの分野においても客観的な貸借対照表を作ったり、進歩とは何かと考えたりすることは不可能なのだという。或る意味では、人類の歴史の全体が停止しているのだ、と。

これに対して、悟性が抱くであろう感想はおそらく「なんだ、理性の究極のところは、足元の地面がすべっていくことを確認して、昏迷の状態が明けないことを疑問などと名付け、堂々巡りを探求と呼び、完全に〈ある〉わけではないものを存在と名付けることに過ぎないのか」という、ため息まじりの失望である。ただし、ここで裏切られた期待というのは、メルロ=ポンティによれば〈おのれの空しさ〉の埋め合わせとなるような充実欲求の〈誤れる想像〉であるので、この失望というのは、自分が全知全能ではないことを悔しがって無理に駄々をこねているだけのようなものだ。

絵画はもとより他のどんな営みでも、段階を追って発展していく進歩を論じることができないのはなぜかというと、ある意味では、絵画の最初のものが未来の果てまで歩みつくしてしまったからである。〈絵画そのもの〉を完成させる絵画はありえないと言ったが、それは決してひとつひとつの作品に何の意味もないということではなく、むしろ創作は他の作品を変え、明らかにし、深め、高め、創り直し、前もって創り出すことになる。創作が所有につながらないというのも、全生涯を前方に有している、閉じこめられた部屋の中で有り得ようもない永遠の若さを装って見せるものよりは、放たれた家畜に近いものがあるからなのだろう。

絵画は、われわれの一切の実用的な活動を高みから指図しているところのものをとらえようとするが、なぜ絵画がそれを欲するのかというと、自分のものではないそれを自分のものにしたいからでも、空しさや欠けている箇所を補いたいからでもない。それは不思議として、まさに「描く」という行為も含めた一切の活動を指図しているところのものがそこにあるということが、知覚として目には見えないものだからなのだろう。見えはしないが、「見る」ということにも「描く」ということにも深くかかわっているそれが確かにあるということを、あらわそうとしており、まさにその活動の渦中にあるがゆえにそれを、所有はできずとも垣間見ることができるのが、絵画である。

 

 

眼と精神

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