哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【ゼミ】「眼と精神」要約①

眼と精神

(段落11~14?)

 

身体の謎と絵画の諸問題は、同じところにある。

身体が見ることができるのは、物だ。物が見えるのは、セザンヌが「自然は内にある」と言ったように、身体がそれを見るからだ。そこにあるものが身体のうちに呼び起す反響を迎え入れることで初めて、物はそこにあるとされる。

そして身体は、目に見えたものを目に見えるものにすることができる。それがすなわち、絵画だ。絵画は見えるので、ほかの人によって見られることで、その鑑賞者の身体のうちにこれまた反響を呼び起こす。つまり絵画は、二重化された〈見えるもの〉である。

ラスコーの洞くつの壁画は、岩壁と絵具からなるが、そこに描かれた動物たちは、壁についてしまった絵具のしみとは一線を画する。鑑賞者は絵を、物を見るときのようには見ない。絵を見るというよりは、絵に従って、絵とともに見るのである。

 

イマージュというと、デッサンのように、心のなかに思い描いた複写・写し・第二の物であるように思われている。しかし心のなかのイマージュは決してそのようなものではなく、〈外なるものの内在〉かつ〈内なるものの外在〉なのだ。この二重構造は、まさに身体が〈感じる〉と〈感じられる〉という二重構造を持っていることに由来する。この現象によって、〈創造的なもの〉についての〈準・現前〉と〈切実な可視性〉という大問題を理解することができる。

サルトルが言うには、イマージュはそのもの自体としてはあらわれない不在の対象物を志向するものであり、画像や役者の物真似などの事物の世界から素材を借りるものと、意識や感情などの精神の世界から素材を借りるものに区別される。しかしメルロ=ポンティは、この主張は間違っていると批判する。)

〈準・現前〉は、〈創造的なもの〉は現実的なものよりもずっと近くにあり、またずっと遠くにあるということだ。想像的なものは、〈現実的なもの〉の私の身体内部での生活表(=見取り図?)であるという意味で、現実的なものよりも私に近い。一方、画像は身体を介さなければ〈類似したもの〉にならず、また画像は物について考える機会ではなく、物に従う眼差しの痕跡や、〈現実的なもの〉が想像的に組成されるという視覚の構造を考える機会を与えるという意味で、ずっと遠くにある。

 

目は物しか見えず、絵画は物としては見られないのだが、画像や心的像を見るための〈内部の目〉が別にあると言いたいわけではない。そもそも肉眼の機能そのものが、単なる色や光や形の受容ではないのだ。肉眼は〈見えるもの〉について天賦の才を与えられており、この才能は〈見る〉という訓練によって鍛えたのが画家の視覚だ。

眼は世界からの衝撃に動かされ、手でその世界を〈見えるもの〉に組み立てる。そうして絵画はできるのであり、およそすべての絵画では〈可視性〉という謎だけが祭られてきた。

 

ひどく当たり前のことだが、画家の世界は目に見える世界だ。そしてこれは、部分的であることによってしか完全ではありえない。眼は身体の部分であり、それは世界のなかにあって取り換えや比較の不可能なたったひとつの個別的な視点だ。絵画はほかの人には決して見ることができず、画家自身でさえそれが何なのかよくわからないものを、紙やカンバスといった物に閉じ込めようとする試みである。

〈見る〉ということは〈離れて持つ〉ということだ。見られたものに指の一本も触れなかったとしても、その像は見る人の身体のうちに所有されている。絵画はこのように不思議な方法で、存在のあらゆる現れかたを所有するものだという点で、狂気じみているともいえる。

絵画は、一般的な視覚では見えないと信じられているもの(単なる物以外のもの)を、見えるようにしてみせる。だから、絵に従って、絵とともにあるように見ることによって、触ったり動いたりといった「筋肉感覚」なしで、鑑賞者は世界の奥行きや重さを実感する。

絵画を見るときの視覚は、「視覚的所与」(物によって呼び起される反響?)を超えて、存在の〈肌理〉に向かって開かれている。存在の〈肌理〉とは、感覚的伝達を含めた存在を成り立たせる成分と素地のようなものであり、人にとっての家のように、眼はそこに住みついている。

 

眼と精神

眼と精神