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【現代哲学】隔たりへの応答 ―レヴィナスの他者論について―

全体性と無限―外部性についての試論 (ポリロゴス叢書)

1、「他者」は「絶対的に他なるもの」

レヴィナスにとって「他者」とは「絶対的に他なるもの」である。それは、私の予測を常に超出して同化を許さないものであり、決して自我の自同性に回収されることはない。自我にとって捉えきれないものとしての他者はサルトルにおいても考えられていたが、サルトルにとって他者はどれほど把握しようとしても逃れ続けるもの、もしくは私を支配しようとするものとして現われていた。しかし、レヴィナスにとって自我と他者の関係は、そのようなお互いに支配しようと睨みあう主体同士の相克の関係ではなく、他者は自我の前に支配しようとすべきものとしては現われていない。

2、サルトル他者論とは対照的に、「顔」は受動的で避けられない現象である

では、レヴィナスの考える他者は自我にとってどのようなものであったのだろうか。これを「顔」という概念から考えると、他者の現前を表わすために用いられた「顔」は私に対して現れるものである。つまり、サルトルのいう自我と他者との相克の関係を、「まなざす」という対自的・能動的な行為と「まなざされる」という即自的・受動的な態度のあいだでの葛藤であったととらえると、レヴィナスの考える自我は他者に対する関係においては特に受動的な面が強調されている。さらに他者を見ることについての両者のとらえ方を比較すると、非常に対照的であることがわかる。他者は主体にとって支配しようとする対象であるとしてとらえていたサルトルにとって、他者を見ることは「まなざす」という主体的行為であったが、レヴィナスにおいては他者を見ることが、顔が現われてくるという受動的で避けられない現象となっている。なぜ他者の顔を見ることが受動的であるのかというと、それはレヴィナス〈顔〉の無限性と呼ぶ性質によって、他者の顔は自我によって了解される類の内容を持って現れているわけではないからである。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである。顔は見られもしなければ触れられもしない。なぜなら、視覚や触覚においては、自我の自同性が対象の他性を包含し、その結果、この対象はほかでもない内容と化すからである」(1)。完全にその意味するところがわかるのではない現われに対して、了解をすることはできない。だから、ただそこに何らかの表出があるということを受けとめるしかないのである。佐藤によると、自我が顔に対してまったく受動的に従属するのは「私の能動性が他なるものを「同」へと吸収する同の働きの一環だと見なされているからである。顔があらわにする他人が他なるもの、絶対的に他なるものであり、その絶対的に他なるものを絶対的に他なるものとしてそのまま遇するためには、能動的な「同」の働きによってそれを同へと取り込むことは避けなければならない。純粋な受動性を保つことではじめて、絶対他がそういうものとしてのままに私に接触することが可能になる」(2)のである。また、「志向性の観念は、単に質的かつ主観的でどんな対象かとも無縁とみなされている感覚のあり方から具体的所与としての性格を剥奪することで、感覚の観念を揺るがせた」(3)が、それは意識の志向性が同化の働きであったからであり、すべての感覚がたんに自我によって構成されたものではないのだと考えることは、他なるものからの訪れを享受するというあり方を認めることによって可能となる。絶対的に他なるものである他者だけでなく、他なるものに対しても、その他性を自我に還元しないためには受動的な態度が要されるということだ。

3、根底的な分離のある自我と他者は、関係を持つことができるのか

「絶対的に他なるもの」という表現からもわかるように、レヴィナスにおいて自我と他者とのあいだには根底的な分離がある。これは、身体性から人間をとらえたメルロ=ポンティが私と他者を同じ構造をもったものとして捉えたのとは異なっている。他者は私と同じものではない。自我から他者への関係のあいだには、底がないほど深い隔たりがあるである。これに関して「およそ倫理が可能であるとするならば、ひとはあらかじめ〈他者への関係〉のうちに存在していなければならない。他者との関係が、私が私であることの、なりたちそのものに食いこんでいるなにごとかであるとすれば、倫理とはこの私にとっても避けがたい、応答すべき問題であり応答という問題であることになるだろう」しかし「他者とは私との差異であり、わたしからの隔たりそのものであるような、なにものかのことである。そうであるとすれば、そうした絶対的な差異であるもの、はるかな隔たり自体であるものとの関係を、どのようにして思考することができるのだろうか」(4)という問題がある。「絶対的に他なるもの」である他者に対して私は絶対的な責任を負っていると、レヴィナスはいうが、まったく隔たりの向こうにあるものに対して私に責任があるというのは一体どういうことなのか。一般的に責任というと主体的な関わりをもったものに対して負うものであるし、自我と他者のあいだに絶対的な隔たりがあるというのなら、自我と他者は関係を持つことができるのかということすら疑問に思えるものである。

4、私の自同性に還元できない他者は、言葉によって現出する

この問題にこたえるのは、言葉の存在である。熊野によると「ことばが他者と私との間で交わされるのも、他者が私からの絶対的な差異であるからである。隔たりが存在しないのなら、ことばが取り交わされる理由もまた存在しない」(5)。なぜ言葉が交わされるのかというと、それはそこに私ではない人がいるからであり、他者は私と同じではないがゆえに私は言葉を交わすのだ。言説は自我の容量を超えて他者を受容することである。「教えは外部から到来し、私が内包するより多くのものを私にもたらす」(6)からこそ、私にとって意味がある。他者をもしも私の自同性に還元することが可能であったとしたら、そのような他者はもはや他者とは呼べないものではあるが、私はその他者のことでわからないことは何もなく以心伝心であり、このような状態でも言葉を交わすとしたら私たちはひとりごとを発する必要があるということを立証しなければならないだろう。レヴィナスは「事実、発語は比類なき現出である。というのも、発語が成就するのは、記号を起点として、意味するものおよび意味されるものへと赴く運動ではないからだ。意味されるものへの通路を開くまさにその瞬間、記号は何かを閉ざすのだが、これに対して発語は、意味されるものの現出に意味するものを臨在させることによって、記号が閉ざしたものの閂を外す」(7)という。ここでの現出とはすなわち、他者の現出である。絶対的な隔たりの彼方にいる他者は発語によって私の前に現出してくるのであり、私は他者との関係の中にいるのだということを示しているのが言語の存在なのである。そこで特に重要なのは、言語が記号として含んでいる意味情報ではなく、他者へと言語を発する行為だ。他者からの記号に含まれている意味を解釈しようとするのは同化であり、言語は歓待して迎え入れるべき他なるものの現われなのである。現実になぜ私たちが挨拶を交わすのかというと、挨拶は「私はここにいて、あなたがそこにいることを認めている」というメッセージだと考えられる。

5、(疑問)レヴィナスの自我は「顔」を持つのか

言語の存在によって他者は現前し、他者との関係の内にある私にとっての倫理を問題にできることがわかった。ここでもう一つ問題であるのは、レヴィナスが要求する絶対的な責任は自他非対称な責任であって、他者に私に対しての責任を要求することはできないが、私には他者に対する無限の責任があるという点である。ここでは深く追求しないが、レヴィナスにとって他者の現前が「顔」であったということから、自我は「顔」を持たないものなのではないだろうかと推察することができる。実際にレヴィナスが「顔」というとき、それは他者によって見られる自分の「顔」ではなく、ただ自我に対して現れてくる他者の「顔」だけであるように思われる。顔の表出は私がその訴えに耳をふさぐことができないものであるのも、完全に孤独で生まれ死んでいく人がありえないように他者は私の前に顔を現しているからであり、一方、私の顔は鏡面に移った虚像として以外、直接私の眼前に現れてくることはありえないものだということが関係あるのかもしれない。

 

<引用文献>

  1. エマニュエル・レヴィナス著、合田正人訳『全体性と無限 ―外部性についての試論―』国文社、1989年、p.292。
  2. 佐藤義之『物語とレヴィナスの「顔」 ―「顔」からの倫理に向けて―』晃洋書房、2004年、p.34。
  3. エマニュエル・レヴィナス、前掲書、p.282。
  4. 熊野純彦『差異と隔たり 他なるものへの倫理』岩波書店、2003年、p.v。
  5. 同上、p.xii。
  6. エマニュエル・レヴィナス、前掲書、p.61。
  7. 同上、p.278。

 

 

<参考文献>

内田樹レヴィナスと愛の現象学せりか書房、2001年。

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス海鳥社、2004年。

サロモン・マルカ著、内田樹訳『レヴィナスを読む』ポリロゴス叢書、1996年。

 

差異と隔たり―他なるものへの倫理―

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