哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【ゼミ】自同性の一線 〜レヴィナス「逃走論」より〜

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

1.前近代の西洋哲学は存在の自足せる安逸を前提としており、自我から出られない

西洋哲学は、自我から出られない全体性にすべてを包み込む危険をはらんでいると、レヴィナスは指摘する。というのも、平和と均衡を理想としている西洋哲学は、存在の自足せる安逸を前提としているからである。自我を自足した安逸と考えているものの例として、レヴィナスブルジョア精神とその哲学を挙げて「自我について自足した安逸という考えを持っているブルジョアは、いかなる内面的分裂を打ち明けることもないし、自己への信頼を欠いていることを恥じている」(145)と説明する。自足した安逸としての自我とは、すべてがそのなかに定立されるところのものであり、すべては自我にとって存在しているところのものであると考えられる。また、何よりも明日の確実性・現在の保証を望む「ブルジョアの所有本能は統合本能であり、その帝国主義は安全性の追求である」(145)とあるように、自我を自足した安逸としてとらえると、自我は自我と対立した世界を自己自身へと統合し、そうして自我のうちを平安に保とうとする。「こうして未来は過去へと統合される」というのも、自足した安逸としての自我は、未来として現れる不確定で予測不可能な要素を、安逸して定まっていてよく知られたものと信じられている自己自身へと統合するからである。

 

2.主体は存在から逃走することができないという二十世紀の問題

近代以前の哲学はこのように存在の自足せる安逸を前提としていたことから、主体と世界を調和し、平安と均衡を保つことを理想としていた。それゆえに、「人間の条件の不充足が、存在に課せられたひとつの制限として以外の仕方で理解されたことは一度としてなかった」(146)のであり、その場合にはいかにこの制限を超越し、制限のない無限な存在と合一するかのみが問題とされた。しかし二十世紀の感性によって、存在のうちにある制限以上に深刻で本性的な欠陥が見てとられた。それは「制限という観念が存在するものの実在・実存に適用されうるものではなく、単にその本性にのみ適応されるということ」が確信されたことから始まる。

存在するものの本性とは、「主体を引き裂き、人間の内部で自我を非‐自我と対峙させるような闘争を超えたところに、主体は単純なものとして存在する」(144)といったときの非‐自我と対峙する自我ではなく、単純に存在する主体そのものであるととらえることができる。単純に存在する主体というのは、自我と非‐自我という対立を超えたところにいる主体のことであり、自己のうちにあるすべてのものをして自我と非‐自我とに分けている働きを担っている主体のことである。そして、現代文学があらわにした不安、レヴィナスが「逃走論」で論じている「逃走」という現象は、この主体が自己自身から逃れようとすることである。非‐自我と対立してある自我が自己自身から逃れようとするならば、自己自身に含まれる要素を非‐自我に移すことや、非‐自我であったものを自我とすることによって部分的には可能であるが、主体が自我や非‐自我を対峙させている当の主体自身から逃れることや、主体が自我を定立する働きをまったくやめることは不可能に思われる。つまり存在から逃走することはできないのである。

 

3.逃走は「存在の自同性」によって阻まれる

ところで、存在から逃走することはできないということが問題となるのは、主体が存在から逃走したいという欲求をもったときだが、主体はなぜ存在から逃げたいと思うのだろうか。言い換えると、逃走の欲求はいかにして生まれるのだろうか。これにこたえるのが、「存在の自同性」という性質である。存在の自同性は「存在は存在する」ということだ。そして「存在は存在する」という事実の肯定は自足している。「存在するという事実のあからさまな肯定は絶対的に自足していて、他の何ものにも準拠してはいない」のであり「ある存在に関してその実在だけを考えるかぎり、存在は存在するという肯定につけ加えるべきものは何もない」(146)という、存在と存在することについてのこのような関係が「存在の自同性」と言われるものである。「自同性は、存在するという事実の自足せる安逸の表現であって、誰も、その絶対的で決定的な性格を疑問に付することはできないように思われる」(146)というのが、従来の西洋哲学における考え方であった。しかし、ここに世紀の病として存在からの「逃走」の欲求が生まれたときに、存在は存在しないことはできないという事実は逃走の欲求をもった自我の前に不可能性として立ちはだかることになる。

レヴィナスは「実存は、他の何ものにも準拠せずに自己を肯定するような絶対者である」(151)と言う。つまり自我においては、参照するものと参照されるものが同じものなのであり、そこには自同性がある。そして、「自我の自同性において、存在の同一性が束縛という性質を持っており、その性質が苦悩のかたちを持つので、そこから逃げたくなる」のである。レヴィナスによると「逃走」は「自我が自己自身であるという事実を断とうとする欲求」(151)であるが、自我は自己自身にしか準拠せずに自己を肯定するものであることから、自我が自己自身であるという事実を断ちつつ自己を肯定することは不可能なのである。ここに自我の自同性が逃走を阻むものとしてあることがわかる。

「非‐自我の存在は我々の自由と衝突しはするが、まさにそれによって自由の行使を強調するものだった」(148)というのは、非‐自我は自我の思い通りにならないものではあるものの、自我は非‐自我との境界上でもって非‐自我の自我への統合をなしえたからである。従来は自我と非自我を対立させていたが、非自我を定立させている単純な主体にとっては、非自我も存在しているものであるので、自我と非自我の対立はそのような事実への反抗とはならないのだろう。

「逃走は存在そのもの、「自己自身」から逃れるのであって、存在に課せられた制約から逃れるのではない。逃走において自我は、自分がそうではなく、また、決してそうはならないだろうもの、すなわち無限として、自己から逃れるのではなく、自分がそうであり、そうなるであろうものそれ自体と対立するものとして、自己から逃れる」(152)のであって、自我と非‐自我とを対立させる主体としての自我は、その働きがあるかぎりでは自己自身から逃れることができないと考えられる。心理学では「欲求」というと、何か自分には足りないものがあり、それを欲しがって求める気持ちを持つことであるが、逃走の欲求はおそらくそのような「今ここにない何かが存在していて欲しい」と望むことではなく「どこかに行きたい」と望むことでもなく、「存在しているすべてのものから離れたい」というような欲求である。「人間は生来自分が望みもしなかったし選びもしなかった実存のなかに巻き込まれているという月並みな確認は、有限たる人間の場合にのみ限定されてはならない。この確認は、存在それ自体の構造を言い表しているのだ」(172)とレヴィナスは言う。不老不死に生まれたかったと望むことは、その存在それ自体の肯定でもある。しかし、存在したくなかったと望んだところで人間は自ら望んで存在し始めるわけではないし、存在したくなかったと望んでいることがすなわち現在において自己が存在しているという事実を現わしている。「実存への参入は意志に反してなされたものではない。もしそうなら、この意志それ自体の実存が当の実存に先立つことになるからだ」(172)というように、意志は実存がはじまるとともにはじまる。たとえそれが自己自身から逃れたいという欲求であっても、欲求があるという時点で逃れたいと意志している自我は実存してしまっているのである。

ベルクソンの示したように「無を思考すること、それは抹消された存在を思考すること」(173)であり、これによって思考は存在以外のものを捉えることはできないのだといえる。

「思考は実在するか、実在するとみなされたものだけしか思考できないし感じることもできない」(175)というのも、ここでいう「存在」とは一般的に言われる五感で確かめられる客観性を持ったものではないからだ。「無それ自体でさえ、思考がそれと出会うかぎりでは、実在をまとわされるからで、われわれは無条件に、「非‐存在は存在する」とパルメニデスに抗して言明するように強いられている」(175)のであって、思考される対象としてあるものを「存在する」というのならすべての観念は存在しているものとなりうる。ここからも、存在している自我がいかにも存在と分かち難い構造になっているのがわかる。

 

4.世紀の病としての「逃走」という現象

「存在するものは存在する」という事実から逃れることは可能なのかというのが問題であったが、存在するものは存在しているという事実から逃れることはできないという不可能性よりも、存在するものが存在から逃れようとする欲求をもって存在するということに、私は注目したい。存在から逃れんと欲する存在者が存在しはじめたことは、世紀の病としての「逃走」という現象であった。十九世紀までは超えられることのなかった一線を近代の感性が超えたことについて、「戦争と戦後がわれわれに知らしめた自我の存在」とレヴィナスは言うが、戦争と戦後はいったい我々に何を知らしめたのだろうか。安逸に自足していた自我から、逃走を欲求する自我への転換はどのようにして起こったのか。レヴィナスによると、「逃走」という病が姿を現すような「こうした状況は、生活の余白がだれにも残されず、誰も自分自身と距離をとる力を持てないような時代に造り出される」(147)のであるが、生活の余白や自分自身と距離をとる力はなぜ失われてしまったのかも、それを取り戻すことは可能なのかもわからない。

 

 

<参考文献>

エマニュエル・レヴィナス「逃走論」『レヴィナスコレクション』ちくま学芸文庫、1999年。()内は引用ページ数。

 

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)