哲学生の記録。

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【ゼミ】「眼と精神」要約②

眼と精神

(279〜283ページ)

 

前段落で、視覚には二種類のものが考えられることがわかった。ひとつは、デカルトに由来する「私によって反省された視覚」であり、もうひとつは「実際に起こっている視覚」である。しかし、この後者の事実的視覚や、その視覚に含まれる「そこにある」は、デカルトの哲学をくつがえすものではない。

視覚は、身体と結合したものなので、デカルトの定義からすると、身体と分かれた精神によって本当に〈考えられる〉ことはありえない。もしも視覚について考えたいとすれば、思考を身体的なものだと考えるほかには方法はない。そこで、メルロ・ポンティは、〈思考〉は初めから悟性と身体の混合物なのであり、そもそも純粋悟性に従属させようとすることがばかげているのだと批判する。

「生の行使」、すなわち、あまり深く考えすぎずに日常生活を送ることによって、心身の合一は可能になるのだが、〈思考〉というものは、〈思考〉と見なされずに思考される限りにおいて、この「生の行使」の旗印なのである。実存する人間や実存する世界は、必ずしも〈思考〉されなければならない対象として現れるわけではない。考えるべく課されているわけではないこれらのものを〈実存の或る次元〉という。この実存の次元は、思考と同じように「或る真理」によって支えられており、実存の次元の昏さと思考の明るさとはその「或る真理」に基づいている。

そこまで進んでみると、デカルトのうちにも〈奥行〉の形而上学らしきものが見いだされる。しかし、デカルトは「或る真理」の誕生を明らかにするわけではないし、神の存在は「深淵だ」のひとことで終わりにされる。デカルトにとっては、この深淵を測ろうと試みることは、心の空間や、見えるものの奥行を考えようとすることと同じく無駄なことなのだ。人間の身分はその資格を欠いているという理由によって。

「資格のないものはそれについて考えるべきではない」というデカルト形而上学は、明らかになる領域を制限することで思考の明証さを確かにし、形而上学にこれ以上かかわってもしょうがないということを説く形而上学なのである。

こうしてデカルトによって深淵はのりこえられ、神秘は失われてしまった。

科学と哲学のあいだ、私たちが知覚について持っているモデルと「そこにある」ことの昏さのあいだには、もはやつながりはない。現代科学は、デカルトが科学に指定した領域の制限も科学の基礎づけもともに放棄し、デカルトの到達点であったところから出発する。神の裏づけなど必要ないのだ。

操作的思考は、心理学という名目で、デカルトが〈盲目の、しかし他のものへ還元しえない経験〉のために残しておいた、自己自身および実存する世界との接触の領域すら、なわばりとして主張する。操作的思考は、哲学に対して根本的に敵意を持っている。しかし、心理学は、デカルトから見れば混乱した思考に属する概念をいくつも導入した結果、そのうち哲学の意義を認めるようになるかもしれない。哲学は、その意義が認めなおされるまでの間は、デカルトが開き、すぐに閉じてしまった〈心身の複合体〉の次元、実存する世界や底知れぬ存在の次元に沈潜しなければならない。科学と哲学とは、デカルト主義の帰結であり、その解体から生まれた二匹の怪物なのだ。

さて、今のところ哲学に残されているのは、現実の世界の踏査の領域だけだ。心身の複合体として存在していることについての思考。実際に置かれている立場や状況について持っている知では、身体は視覚や触覚の手段ではなく、それらの受託者である。目や手が、見、さわるための道具なのではなく、見、さわるための道具が、傷つき失うことのある身体の器官なのだ。

ここで見られる空間は、『屈折光学』で語られるような、私の視覚の第三者的な証人ないし私の視覚を再構成しそれを俯瞰する幾何学者が見るような〈対象間の関係の束〉ではない。それは空間性の零点ないし零度としての〈私〉のところから測られる空間である。世界は私のまわりにあり、私はそれに包みこまれている。光もまた、その光のなかで現に見ていない人が考えるふうには考えられない。

視覚は、見えるもの以上のものを見せる。インクで描かれた絵画が、森や嵐を見せるのにじゅうぶんであれば、視覚は、身体とはなれたままで身体をあやつってみせる精神に委任されるはたらきではない。

問題は、空間や光について語ることではなくて、そこにある空間や光に語らせることだ。そこで果てのない問いかけ、片がついたとされていた一切の探求が再開される。存在とは何か、身体から切り離された精神にとってではなく、デカルトが身体に広がっていると言った精神にとって。われわれを貫き、包み込んでいるそれら自身にとって。

こうしたことを問う哲学、これから探求されなければならないこうした哲学は、画家に生気を与える。彼の視覚が行為となる瞬間、画家が「絵のなかで考える」ときにおいて。

 

眼と精神

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