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【現代哲学】現象学と言語表現 ーメルロ=ポンティとサルトルよりー

1、メルロ=ポンティの哲学が「詩的」である理由

メルロ=ポンティが自らの哲学的問題を考察するときに使用する言語が「詩的」だという指摘がある。言語とは何かという問題をあくまでも哲学的に探究した言語論展開者の言語表現が、一見したところでは哲学とまったく異なる営みであるように思われる詩と、なぜ同じものであるかのように解されるのだろうか。熊野純彦によれば、これは、「すぐれた詩人や哲学者は、知とことばのとばりを引き裂いて、世界との接触を回復し、その経験を、ふたたびことばによって語りだそうと」(1)するからであり、また「日常のなかでは、普通のことばによって覆われてしまっている、経験の始原的な次元を探りあて、もう一度ことばにもたらすことが、メルロ=ポンティにとっても問題」(1)であったからである。詩とは何か、哲学とは何かという問いの答えは詩人、哲学者の数だけあるとしても、メルロ=ポンティを含む多くの哲学者の思考は、このような意味で詩人たちと問題を共有し、困難を分かち合っていたと熊野は主張する。

2、哲学と詩作の言語表現はともに、対象化されないものを語る根源的パロールである

メルロ=ポンティは、話されることばであるパロールを二つに分ける。そのひとつは、対象化されたことば、すでに獲得された思考を表すパロールであり、これは二次的なものである。そしてもうひとつが、思考を私にとって初めて表す根源的なパロールである。(2)メルロ=ポンティにとって思惟のあり方とは「自分の対象についての十全な規定をまだもっていない意識、自分自身を説き明かしていない生きられた論理の意識、自然的標識の経験によってのみ己を知る内在的意味の意識」(2)なのであり、このような対象以前の意識を固定された表現のなかに閉じ込めることが、思惟の言語化であった。このとき、すでに獲得された思考ではなく、私にとって初めて思考を表すものとなるという点で、哲学における言語表現と詩作における言語表現とはともに、対象化されないものを語る根源的パロールであるという共通性がある。「世界を見つめなおし、絶えず経験そのものを更新することをこころみる思考のことば、通常のことばがとどかない領域に向けて、なおことばをつなごうとする哲学的な思考を紡ぐことばが、そのなりたちにおいて詩のことばとかよいあうもの」(3)なのである。

3、「メルロ=ポンティは小説を書いた方がいい」という揶揄と、文学と哲学を画す一線

『知覚の現象学』刊行の一年後に、メルロ=ポンティは研究報告を行い、それは『知覚の現象学』で彼が展開した様々なモチーフのうち、特に中心となるテーゼを要約しなおし、またすでに開始されていたと思われるさまざまな批判や反論に対して、自説を擁護するために企てられたものだった。その講演後の質疑応答において、ブレイユから「あなたの考え方は、哲学よりも小説や絵画において表現されるほうがいいと思いますね。あなたの哲学は、小説の世界に接しています。このことは欠陥だというのではありませんよ。われわれが小説家の作品の中に見出すような現実性が直接示唆するところのことと、あなたの哲学は境を接していると思うのです」(4)という意見が投げかけられた。私はこの意見に対し、半分のところは的を射ているが、半分のところはまったく的外れであると思う。というのも、読者が小説のなかに見出すような現実性が直接示唆するところのこととメルロ=ポンティの哲学が近いところにあるというのは、メルロ=ポンティ自身が「私としては、諸々の学説を並べたような問題にではなく、具体的な問題に対して答えていきたい」(5)といっていることからもわかるように、メルロ=ポンティの問題がある種の現実感覚に端を発しているものであるので、当然といえば当然のことである。メルロ=ポンティの問題は、すでに抽象化された言語の概念においてあるのではない。メルロ=ポンティが「知覚される出来事というものは、この出来事の生起に際して知性が構成するところの、透明な諸関係の全体の中に、決して解消されてしまう筈がない」(6)のだというのも、「メルロ=ポンティが問題とする知覚は、たんに反省によって眺められるような、対象としての意識の出来事ではない。彼の知覚は、意識的であるよりもむしろ前意識的であり、人称的であるよりもむしろ前人称的で」(7)あったからである。言語になる前の現実というのは、まさに言語にし難いものであるので、そのようなものはどのように語れば表すことができるのかということは、彼においては困難な課題であったに違いない。これが、熊野がいうところの「メルロ=ポンティが引き受けた詩人の辛苦」である。

しかし、小説の中に見られる類の現実性が示唆することとメルロ=ポンティの哲学が近しいところにあるからといって、メルロ=ポンティの考え方が小説や絵画において表現されるほうがいい、ということには決してならない。詩、小説、絵画はまったく相を異にする表現形態をとるものであり、それらをひとくくりにして語るのはかなり抵抗があるが、ここで試みたいのは芸術論ではないので、哲学との対比としてひとまずそれらの違いは置いておくことにする。詩、小説、絵画などと哲学は、どんなに隣接していようともやはり一線を画しているのである。メルロ=ポンティは「文学が、芸術が、生の営みが、物そのもの、感覚的事物そのもの、実在物そのものをかりてなされ、極限にまでいった場合は別にして、習慣的なもののなか、構成されたもののなかにとどまるという幻想をみずからも持ち、また他にも与えうるのに対し、絵具も使わず銅版画のように白黒で描く哲学は、この世界の奇怪さを、人々が哲学と同じくらいまたそれ以上見事に、だが半ば沈黙の中で対決しているこの世界の奇怪さを、忘れ去ることを我々に許さないのである」(8)と、文学や芸術などと哲学の違いを言っている。また熊野によれば「詩人がことばを撚りあげ、詩句を編みあげようとするとき、通常の意味での時間は流れていない。詩のことばは瞬間をとどめ、現在を永遠なものとして語りだすことができるのである。哲学のことばはこれに対して、あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない。哲学者はいつでも、時間の中で永遠に追いつこうとする」(9)。だから、哲学はおよそ完結することのありえないこころみとなることだろう。問いの生まれる源泉としてあるのはともに現実の経験そのものであるとしても、詩では問いに答えを与えることが再び問いとなるようであり、哲学では問いの前で立ち尽くし答えを求め続けるようになるというふうに、問いに対する働きかけの点においては異なっているのである。

4、サルトルにおける哲学と文芸

ところが、メルロ=ポンティと同時代に活躍し、その思想の類似点と相違点から比較されることも少なくないサルトルは、哲学者として名をあげながら、文学の世界でも作品を残している。メルロ=ポンティにとっては明らかに区別されていた哲学と文芸は、サルトルにおいてはどのようなものだったのだろうか。

二人がともに試みた現象学は、意識に現れるものによって世界を説明しようとするものである。人間の知覚には限りがあり真の物体をとらえることは不可能だと、経験の世界と対比して本質の世界を仮定的するのをやめて、存在するものの存在とはまさにそれが意識の中に現れるところのものにほかならないと考える。サルトルメルロ=ポンティがテーマとしてあつかう領域には、かなりの重なりが見られ、重なるところがあればこそ違いを見出すことができる。思想とそれを言語として表現する形態から、サルトルメルロ=ポンティとどう異なっていたのかを見ていきたい。

サルトルは存在の領域には二種類があるとした。そのひとつは意識の存在であり、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」であるようなあり方である。これをサルトルは「対自存在」と呼ぶ。「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものである」というのは、あらゆる意識が何ものかについての意識であるからだ。意識は何の内容も持たない意識ではありえず、主体が意識を持つとき必ずそこには意識される対象がある。このような何かに向かう性質を意識の「志向性」という。意識は決して意識される対象そのものにはなりえず、主観が脱自してその外部に距離を置いてある対象へと向かう働きが意識なのである。そして意識は、このように対象に向かう対象定立的意識であると同時に、自己自身についての意識でもある。ただし、自己自身についての意識は、対象についての意識が定立的であるのに対し、非定立的である。対象意識は意識されるものが意識されずにはありえないが、自己意識は自己を意識せずとも意識しているという構造になっている。

もう一つの存在の領域は、現象の存在であり「即自存在」という。これは「あるところのものであり、それがあらぬところのものであらぬ」ような存在である。即自存在はまったき肯定性であり、それがあるところであるそれ以外のあり方は問題とされない。自己と比べうるような他性を知らず、外に対立するような内も持たない。かたまり的に現れるすべてをそのまま肯定するのが即自存在である。人間は即自存在である偶然的な自分自身を根拠づけるために、自己の外に出て自分以外の存在へと向かう。そして神ではない人間において、即自存在と対自存在は同時に両立するものではないので、「対自とは『自己を意識として根拠づけるために、即自としての自己を失う即自』である」(10)。サルトルは、このような現在の自分を否定し常に未来をつくっていく存在を「実存」と考えた。脱自という特性をもった自己意識を持つ人間存在は、ありのままの自己以外にあるべき自己の姿を考え、それに向かって行動する。これをサルトルは「投企」と言う。サルトルにとって人間は、みずからによってみずからつくられたものなのである。

サルトルは文学としての彼の代表作である小説『嘔吐』の中で、「対自存在」を描いて見せる。松浪は「私がどんなに身を振りほどこうとしてもどこまでも私に付きまとって離れない一つのあじきない味わい、私の味であるこの味わいを、私の対自によってとらえること、それが小説『嘔吐』の中に記述されるような「吐き気」である」(11)という。『嘔吐』の主人公は、ものを見つめ続け、気分が悪くなる。自分の顔を見つめ続けるとそれはだんだん猿のような化け物に見えてくるし、カフェでガラスのコップを見つめ続けると世界がおかしくなって吐きそうになる。ものを見続けると世界から離れてしまうような気がするのは、日常の世界では対象としてのものはすべて私にとって何らかの意味をもった道具としてあるからである。ものを見続けることは、そのものに与えられている使用価値をそのものから引き剥がすことになる。このような感覚で目に入る対象をまなざし続けたら、確かに気分は悪くなり目の回るような気がするだろう。おかしいのは世界なのか、自分なのか。対象に与えられているように日常では思われている意味というものは、見つめ続けるだけでゆらぎ始めるような不確かなものである。しかし社会的生活の大部分の場面ではそれが前提とされているのである。

5、哲学の難しさは本質と言葉の性質に起因する

メルロ=ポンティが使うような詩的言語を交えたものに限らず、哲学が一般的に難しいと思われているのは、ここのところに原因があるだろう。求められる本質は、日常のどこにでもあるものであり、日常のすべてであると言い換えることも可能でありながら、まさに日常を生きているといえるようなさなかにはいつも潜み隠れてしまっており、見つけられないものなのである。晩年のメルロ=ポンティが使った「見えるもの」と「見えないもの」という言葉を借りると、サルトルは見えるものを描くことで見えないものを表そうとしたのに対し、メルロ=ポンティは見えないものを見るために書いていた側面があるといえるのではないだろうか。

 

シーニュ〈1〉

シーニュ〈1〉

 
存在と無 上巻

存在と無 上巻

 

 

<引用文献>

  1. 熊野純彦メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』NHK出版 シリーズ哲学のエッセンス、2005年、p.10。

  2. 講義資料12より。

  3. 熊野、前掲書、p.21。

  4. M.メルロ=ポンティ著、菊川忠夫訳・解説『メルロ=ポンティは語る―知覚の優位性とその哲学的帰結―』御茶の水書房、1981年、p.43。

  5. 同上、p.50。

  6. M.メルロ=ポンティ著、菊川忠夫訳、前掲書、p.20。

  7. 同上、p.75。 

  8. メルロー=ポンティ著、竹内芳郎、海老坂武、栗津則雄、木田元滝浦静雄訳『シーニュⅠ』みすず書房、1969年、p.31。

  9. 熊野純彦、前掲書、p.105。

  10. サルトル存在と無Ⅰ』p.225。

  11. 松浪信三『「存在と無」の全容』河出書房新社、1965年、p.61。