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【倫理学概論】脳死からの臓器移植

いのちとすまいの倫理学

1.どの状態を死とするか

人が生きている、死んでいるとはどのような状態なのか。一般に、生は死と相対するものとして考えられるが、実際には死の瞬間と言える一点はない。それは、完全な身体の機能停止に向かって徐々に進行していく不可逆的な現象であり、どこまでが生きていてどこからが死んでいるという明確な線引きはできないのである。たとえば死体のひげがのびることが往々にしてあるように、すべての身体機能が失われる時点までを生きているというわけではないし、いったん機能を停止した心臓がマッサージや電気ショックによって回復することがあるように、特定の内臓や神経の機能停止が必ず死につながるわけでもない。

だからどの状態を死とするかは、もちろん社会的な死の定義に従いはするものの、基本的に医師の裁量に任されている。そして近年、医療技術の進歩の結果、人工呼吸器などの生命維持装置の使用によって、脳死という特殊な死に方が起こるようになり、この、どの状態から人は死んでいるのかということが改めて問題となった。

 

2.脳死が論じられるのは臓器移植のため

心臓死や窒息死や脳幹死は、それぞれ心臓の機能停止と気道のふさがりと呼吸運動をつかさどる脳幹の障害によって体内で酸素の欠乏がおこり、脳の機能停止へとつながるものである。ところが脳死は、生命維持装置によって人為的に延命治療がおこなわれていながら、脳が不可逆的に機能を停止し、それにともない呼吸中枢が動かなくなって、脳組織全体に酸素欠乏がおこるというものだ。脳死は、脳の機能が働かなくなっても身体に酸素を供給する生命維持装置があって初めて可能になる死に方なのであり、医師の中でも脳死植物状態の区別を知らないものもいたらしいが、高い技術によって作られた生命維持装置のないところで脳死は絶対に起こらないのである。

そして、脳死は他の死に方にくらべ論じるべき問題として取り上げられるが、それは臓器移植とのかかわりにおけるところが大きい。脳死状態にある身体は、身体に必要な酸素や栄養素を供給する生命維持装置のおかげで、脳以外の身体は脳が機能していた時と同じように動いている。とはいえ、自分で呼吸や血圧のコントロールもしている植物状態とは違い、脳死状態は外観的には土気色の顔で生気がなく、立花隆脳死患者を見た印象を「死体を人工呼吸器で動かしているという感じ」(1)だというが、機械に動かされているのであっても、動いているという事実は確かなのであり、臓器移植にとってはそこが肝要なのである。臓器の中には、腎臓のように死体から取った臓器でもかなりの確率で移植手術が成功するものもあるが、特に心臓はとりわけ酸素欠乏に弱い構造をしており、個体死の直後に二度と動かなくなってしまうので、死体からの移植は不可能だからだ。脳死を人の死として認めれば、脳死状態の人から臓器を摘出し移植することができるが、脳死が死ではないとすれば同じ行為が、患者を殺したと受け取られることになる。しかし、今まで慣習的に息を引き取り心臓が動かなくなった状態を死としてきた社会においては、機械を外せば止まるにしてもとりあえずは心臓が動いている状態を死んでいるとするには抵抗がある。こういうわけで、脳死が死であるかどうかが問題とされたのである。

 

3.工藤和男の意見:脳死からの臓器移植は間違っている

これについてはいろいろな意見があるが、工藤和男は大きく二つの理由を挙げて、脳死状態からの臓器移植は原則として間違っていると指摘する。(2)まず一つ目の理由は、脳死からの臓器移植が他人の死を前提とし利用する治療であること。誰もが受け入れられる心臓死を迎えた後の結果として可能になる死体からの臓器移植とは違い、治療の目的のために伝統的な死の概念を変える必要がある事態は、治療のために他人の死を待ち望むという倒錯した発想が引き起こされかねない医療体制だと、工藤は批判する。そして二つ目として、脳死からの手術に限らず、手術後生涯にわたっていのちの根幹である免疫を抑制しなければならない臓器移植は、もはや治療とは呼べなものだと言う。

 

4.工藤の意見に対する私の考え:心臓死を死とする伝統的概念にも不確かさがあり、献体を自ら望む人もいる

工藤が脳死からの臓器移植が間違っていると述べる一つ目の理由に関して、確かに治療のために他人の死を待ち望むような医療体制はあってはならないものである点に私は同意するが、心臓死後の死体からの臓器提供と脳死患者からの臓器提供の違いを伝統的な死の概念に基づくか否かで分けることには違和感を覚える。五分以上心臓が止まっていても、その後蘇生し、しかもその心臓が止まっていた間もはっきりした内的意識を保持していたという女性がいた。このことから、心臓死を死とする伝統的な概念は、まだ意識のある人を死んだといって放置してその結果死に至らしめるケースを含んでいると考えられる。同様に、個人の主観的意識の有無を観察によって判断することは非常に難しく、脳死状態の脳が本当に死んでいるのかも判断しかねるものだ。身体は人類に残されたもっとも未知なる自然であると言われることもあるように、身体が何によって動かされているのか、意識があるとはどういう状態であるかは到底わかりそうもないのであるが、死を定義するというのはその瀬戸際を見極めようとすることである。今までの考え方では死として認められない脳死を、臓器移植手術を行うために無理に死として新たな概念を形成することを推奨するわけではないが、脳死が死であるかどうかと同じくらい心臓死が死であるかどうかも不確かなのだということは覚えておきたい。科学技術の進歩によって医療行為に可能なことの範囲が広がっているのに、伝統的な死の概念を固持しつづけるのも不自然だろう。

そして、治療のために他人の死を待ち望むような医療体制はあってはならないものであるということに関して、それはまったくその通りではあるが、一部に自分の死を他人のために役立てたいと考える人がいることを考慮すると、また違った見方をすることもできる。星野一正は「私たちが人生最後にできる愛のボランティアとして、臓器移植の目的で臓器を提供する行為と、遺体のまま人体解剖学の教育・研究のために全身を大学に提供する行為とがある」(3)という。自分が死んだあとに自分の臓器が他の人の体内で機能し続けてその人が生きていけると、自分の遺体を人体解剖学実習の教材として役立ててもらい医者の養成に奉仕できるのだと考えることが、純粋に喜びとなる者もいるのである。余命の短くなった患者が献体登録をすることで、なるべく良好なサンプルを学生に提供したいという気持ちから健康に気をつけるようになったという話を知ると、人生の最後の最後まで人のために存在しようとするのはどうかとも思ってしまうが、奉仕の精神とは支えることで支えられるものだとは、まさにこのことなのだろう。

脳死状態からの臓器移植の工藤の批判点の二つ目については、いのちの根幹であるとみなされる身体の作用が具体的に他になにがあるのかは、私の知識不足のためあげることはできないが、現在医療行為としておこなわれていることの中には、免疫抑制以外にもその類の行為が他にもあるのではないか。飲んでいると怪我の治りが遅くなる薬もその一例として考えられる。

 

5.経験的事実に基づく医療技術に絶対はない

また、脳死からの臓器移植には、そもそも脳死という現象がめったに起こらないものであることから、臓器提供が慢性的に少なすぎるという問題もある。しかし、たとえそれが宝くじに当たるような確率でしかなかったとしても、宝くじで大金が当たる確率がとても低いことがわかっていながらも、宝くじを買う人は存在し、宝くじという商売が成り立つことを思うと、重病の患者のために一縷の希望として臓器移植という可能性があってもいいのではないかと私は思う。ただ、その可能性のあまりの低さと、もしも手術が成功したからといってそれで終わりにはならないということは重々理解しておく必要がある。医療技術は、そうすればこうなることが多いという経験的な事実から成り立っており、今までその理療を受けた人がみんなそうだったからといって、自分もそのようになるとは決まっていない。薬の効果は、ある症状が出ているときにその薬を服用するとその症状が治まった人が多いというだけだ。薬の成分がどのような化学反応を起こすものであるかが実験によって確かめられているとしても、自分の身体に起こっている症状の原因がどこにあるのかは推測することしかできないし、各人固有のものである身体のどの条件の違いが薬品の効果に対する身体の反応を変化させるかなどは、結果としてしかわからないし、それもやはりどうしても推測にすぎないのである。脳死からの臓器提供は、多少投げやりかもしれないが私は、希望をかけたい人は掛ければいいし、自分の死が他人の役に立つことに喜びを見いだせる人は意思表示を残しておけばよいのだということで、医療体制としてあることは悪くないと思うが、関わる人にはなるべく知識をつけるべきだろう。生死の境の判断は、なぜあるのかもわからない生命が消えるきっかけなどわからないものだから、ただ決定する裁量を任されている医師には精一杯最善を尽くしてほしいと願うばかりだ。

 

引用文献

(1)立花隆脳死中央公論社、1986年、p.41。

(2)工藤和男『いのちとすまいの倫理学晃洋書房、2004年、p.53。

(3)星野一正『医療の倫理』岩波新書、1991年、p.136。

脳死 (中公文庫)

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いのちとすまいの倫理学

いのちとすまいの倫理学

 
医療の倫理 (岩波新書)

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