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【現代哲学】「存在と無」にみるサルトルの主体の概念と『嘔吐』

1、現象学とは

現象学は、意識に現れるものによって世界を説明しようとする試みである。人間の知覚には限りがあり真の物体をとらえることは不可能だと、経験の世界と対比して本質の世界を仮定的するのをやめて、存在するものの存在とはまさにそれが意識の中に現れるところのものにほかならないと考える。

2、「対自存在」は意識の存在

サルトルは存在の領域には二種類があるとした。そのひとつは意識の存在であり、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」であるようなあり方である。これをサルトルは「対自存在」と呼ぶ。「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものである」というのは、あらゆる意識が何ものかについての意識であるからだ。意識は何の内容も持たない意識ではありえず、主体が意識を持つとき必ずそこには意識される対象がある。このような何かに向かう性質を意識の「志向性」という。意識は決して意識される対象そのものにはなりえず、主観が脱自してその外部に距離を置いてある対象へと向かう働きが意識なのである。そして意識は、このように対象に向かう対象定立的意識であると同時に、自己自身についての意識でもある。ただし、自己自身についての意識は、対象についての意識が定立的であるのに対し、非定立的である。対象意識は意識されるものが意識されずにはありえないが、自己意識は自己を意識せずとも意識しているという構造になっている。

3、小説『嘔吐』は「対自存在」を描写している

「私がどんなに身を振りほどこうとしてもどこまでも私に付きまとって離れない一つのあじきない味わい、私の味であるこの味わいを、私の対自によってとらえること、それが小説『嘔吐』の中に記述されるような「吐き気」である」(1)と松浪はいう。『嘔吐』の主人公は、ものを見つめ続けると気分が悪くなるという。自分の顔を見つめ続けるとそれはだんだん猿のような化け物に見えてくるし、カフェでガラスのコップを見つめ続けると世界がおかしくなって吐きそうになる。おかしいのは世界なのか、自分なのか。ものを見続けると世界から離れてしまうような気がするのは、日常の世界では対象としてのものはすべて私にとって何らかの意味をもった道具としてあるからだ。ものを見続けることは、そのものに与えられている使用価値をそのものから引き剥がすことになる。このような感覚で目に入る対象をまなざし続けたら、確かに気分は悪くなり目の回るような気がするだろうし、社会的には少数派になるかもしれない。しかし、それがそのようにあることの不思議を味わうことよりほかに、まさに生きているといえる瞬間、生きている不思議を思い知れる瞬間があるだろうか。

4、「即自存在」は現象の存在

さて、もう一つの存在の領域は、現象の存在であり「即自存在」という。これは「あるところのものであり、それがあらぬところのものであらぬ」ような存在である。即自存在はまったき肯定性であり、それがあるところであるそれ以外のあり方は問題とされない。自己と比べうるような他性を知らず、外に対立するような内も持たない。かたまり的に現れるすべてをそのまま肯定するのが即自存在である。

人間は即自存在である偶然的な自分自身を根拠づけるために、自己の外に出て自分以外の存在へと向かう。そして神ではない人間において、即自存在と対自存在は同時に両立するものではないので、「対自とは『自己を意識として根拠づけるために、即自としての自己を失う即自』である」(『存在と無Ⅰ』p.225)(2)。サルトルは、このような現在の自分を否定し常に未来をつくっていく存在を「実存」と考えた。脱自という特性をもった自己意識を持つ人間存在は、ありのままの自己以外にあるべき自己の姿を考え、それに向かって行動する。これをサルトルは「投企」と言う。サルトルにとって人間は、みずからによってみずからつくられたものなのである。

5、他者のまなざしは主体「私」を対象とする

主観と主観が出会うとき、他者にまなざされた私はどのようにあるのか。私の意識において現れる他者の憶測性、蓋然性によって、他者の対象性は私と他者の根本的関係ではないが、他者の主観性を想定することによって私は他者に対してある存在、他者にとっての対象となる。自分で自分自身をつくる対自存在としての私とは違い、他者に対象化された対他存在としての私というのは、私にはどうにもできないどころか明確に知ることすらできない。他者のまなざしは主体としての私を対象とするのである。逆に、私がまなざした他者はどうであるかというと、他者は私の関係づけを逃れる関係づけの中心として存在する。『嘔吐』においては、「自分は変わっていくがあなたは変わらない」と言い張るアニーと、いや私も君と同じように変わっているのだと言う主人公の間で交わされる食い違いのある会話において、私の関係づけを逃れ続ける他者の姿が浮き彫りにされる。私はある人をとらえようとして諸々の対象とその人を関係づけて全面的に私に依拠したその人のイメージを持つが、その人は主観性を持って次々と私の知らなかった面を見せ、私の予期しなかった行動をつくりあげ、私がその人を対象化しようとすることから逃れていくのである。よって他者は、私がとらえようとするかぎりでは絶対に手の届かない存在であり、それは不在であるということができる。では、どのようにして我々は他者と出会うのかというと、それは他者からまなざされることによってである。私にとっての他者の存在は、私を対象化する存在としてのみ確かめることができる。他者のまなざしを意識することなしに私が対象化されることはないからだ。サルトルの言い方では、「他者は彼がまなざされている限りにおいてではなく、彼が私をまなざしている限りにおいて、私に対して現前的であるところのもの」(3)なのである。

6、<対自-身体>と<対他-身体>

サルトルは主観の入れ物としての人間の身体には、<対自-身体>と<対他-身体>という交通不可能な二つの次元の在り方があると分析した。<対自-身体>は身体の主観的側面であり、私に対する私の身体である。主体としての人間が最もはじめに出会う道具としての身体を行使している状態の身体がこの次元にある。歩くときに自分の足を意識しようとするとうまく歩けなくなるし、話すときに自分の舌を意識し始めたら、何も言えなくなるだろう。これはサルトルのいう<対自-身体>と<対他-身体>という二つの次元の在り方は交通不可能であるということである。

一方、<対他-身体>は身体の対象的側面であり、人の目にさらされた身体である。人の目にさらされた身体と一言にいっても、私にとってそこには、私がまなざす他者の身体と、他者によってまなざされた身体の二種類がある。前者は私がそれに対して観点をとりうるもので、完全に私の外部である世界の一部として現れるが、後者はそれがまさに私の観点であるという理由から、それに対して私が観点をとることができない観点である。私は私の身体に対して観点を持ちえないので、私が私の身体をとらえるときには他者によってまなざされた私の身体としてとらえることになる。

7、「私が私にとっては他者とはまったく違う特別な存在のあり方をしていたところで、人ごみに紛れてしまえば、それさえもありふれた主観のひとつである」

サルトルは『嘔吐』の中で主人公に「私は、自分が、何もしたくないのだということをよく知っている。何かをするとは存在を創造することだ―そしてそのように存在するものは、かなりたくさんあるのだ」(4)といわせている。「何かをするとは存在を創造することだ」というのは、人間はみずからによってみずからつくられたところのものであるという「投企」の人間観である。しかし彼は何もしたくないという。何かをすることで存在を創造している存在は私のほかにもかなりたくさんあるのである。「ブリベ通りに認められるあれら小さな黒い人間たち。一時間後に、私はその中の一人になるだろう」(5)丘の上から町を見下ろしながら、彼はあきらめたように言っていた。私が私にとっては他者とはまったく違う特別な存在のあり方をしていたところで、人ごみに紛れてしまえば、それさえもありふれた主観のひとつである。だから彼は「ためしに少しでも変化が起きるといい。私はそれ以上のことを要求しない」(6)と、ありふれた彼の主観としての存在のとらえ方が、本当にありふれたものになるように願っていたのだ。

 

 

<引用>

  1. 松浪信三『「存在と無」の全容』河出書房新社、1965年、p.61。
  2. 講義資料より。
  3. 講義資料より。
  4. サルトル『嘔吐』白井浩司訳、中央公論社、1964年、p.210。
  5. 同上、p.192。
  6. 同上、p.194。