哲学生の記録。

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【倫理学概論】脳死からの臓器移植

いのちとすまいの倫理学

1.どの状態を死とするか

人が生きている、死んでいるとはどのような状態なのか。一般に、生は死と相対するものとして考えられるが、実際には死の瞬間と言える一点はない。それは、完全な身体の機能停止に向かって徐々に進行していく不可逆的な現象であり、どこまでが生きていてどこからが死んでいるという明確な線引きはできないのである。たとえば死体のひげがのびることが往々にしてあるように、すべての身体機能が失われる時点までを生きているというわけではないし、いったん機能を停止した心臓がマッサージや電気ショックによって回復することがあるように、特定の内臓や神経の機能停止が必ず死につながるわけでもない。

だからどの状態を死とするかは、もちろん社会的な死の定義に従いはするものの、基本的に医師の裁量に任されている。そして近年、医療技術の進歩の結果、人工呼吸器などの生命維持装置の使用によって、脳死という特殊な死に方が起こるようになり、この、どの状態から人は死んでいるのかということが改めて問題となった。

 

2.脳死が論じられるのは臓器移植のため

心臓死や窒息死や脳幹死は、それぞれ心臓の機能停止と気道のふさがりと呼吸運動をつかさどる脳幹の障害によって体内で酸素の欠乏がおこり、脳の機能停止へとつながるものである。ところが脳死は、生命維持装置によって人為的に延命治療がおこなわれていながら、脳が不可逆的に機能を停止し、それにともない呼吸中枢が動かなくなって、脳組織全体に酸素欠乏がおこるというものだ。脳死は、脳の機能が働かなくなっても身体に酸素を供給する生命維持装置があって初めて可能になる死に方なのであり、医師の中でも脳死植物状態の区別を知らないものもいたらしいが、高い技術によって作られた生命維持装置のないところで脳死は絶対に起こらないのである。

そして、脳死は他の死に方にくらべ論じるべき問題として取り上げられるが、それは臓器移植とのかかわりにおけるところが大きい。脳死状態にある身体は、身体に必要な酸素や栄養素を供給する生命維持装置のおかげで、脳以外の身体は脳が機能していた時と同じように動いている。とはいえ、自分で呼吸や血圧のコントロールもしている植物状態とは違い、脳死状態は外観的には土気色の顔で生気がなく、立花隆脳死患者を見た印象を「死体を人工呼吸器で動かしているという感じ」(1)だというが、機械に動かされているのであっても、動いているという事実は確かなのであり、臓器移植にとってはそこが肝要なのである。臓器の中には、腎臓のように死体から取った臓器でもかなりの確率で移植手術が成功するものもあるが、特に心臓はとりわけ酸素欠乏に弱い構造をしており、個体死の直後に二度と動かなくなってしまうので、死体からの移植は不可能だからだ。脳死を人の死として認めれば、脳死状態の人から臓器を摘出し移植することができるが、脳死が死ではないとすれば同じ行為が、患者を殺したと受け取られることになる。しかし、今まで慣習的に息を引き取り心臓が動かなくなった状態を死としてきた社会においては、機械を外せば止まるにしてもとりあえずは心臓が動いている状態を死んでいるとするには抵抗がある。こういうわけで、脳死が死であるかどうかが問題とされたのである。

 

3.工藤和男の意見:脳死からの臓器移植は間違っている

これについてはいろいろな意見があるが、工藤和男は大きく二つの理由を挙げて、脳死状態からの臓器移植は原則として間違っていると指摘する。(2)まず一つ目の理由は、脳死からの臓器移植が他人の死を前提とし利用する治療であること。誰もが受け入れられる心臓死を迎えた後の結果として可能になる死体からの臓器移植とは違い、治療の目的のために伝統的な死の概念を変える必要がある事態は、治療のために他人の死を待ち望むという倒錯した発想が引き起こされかねない医療体制だと、工藤は批判する。そして二つ目として、脳死からの手術に限らず、手術後生涯にわたっていのちの根幹である免疫を抑制しなければならない臓器移植は、もはや治療とは呼べなものだと言う。

 

4.工藤の意見に対する私の考え:心臓死を死とする伝統的概念にも不確かさがあり、献体を自ら望む人もいる

工藤が脳死からの臓器移植が間違っていると述べる一つ目の理由に関して、確かに治療のために他人の死を待ち望むような医療体制はあってはならないものである点に私は同意するが、心臓死後の死体からの臓器提供と脳死患者からの臓器提供の違いを伝統的な死の概念に基づくか否かで分けることには違和感を覚える。五分以上心臓が止まっていても、その後蘇生し、しかもその心臓が止まっていた間もはっきりした内的意識を保持していたという女性がいた。このことから、心臓死を死とする伝統的な概念は、まだ意識のある人を死んだといって放置してその結果死に至らしめるケースを含んでいると考えられる。同様に、個人の主観的意識の有無を観察によって判断することは非常に難しく、脳死状態の脳が本当に死んでいるのかも判断しかねるものだ。身体は人類に残されたもっとも未知なる自然であると言われることもあるように、身体が何によって動かされているのか、意識があるとはどういう状態であるかは到底わかりそうもないのであるが、死を定義するというのはその瀬戸際を見極めようとすることである。今までの考え方では死として認められない脳死を、臓器移植手術を行うために無理に死として新たな概念を形成することを推奨するわけではないが、脳死が死であるかどうかと同じくらい心臓死が死であるかどうかも不確かなのだということは覚えておきたい。科学技術の進歩によって医療行為に可能なことの範囲が広がっているのに、伝統的な死の概念を固持しつづけるのも不自然だろう。

そして、治療のために他人の死を待ち望むような医療体制はあってはならないものであるということに関して、それはまったくその通りではあるが、一部に自分の死を他人のために役立てたいと考える人がいることを考慮すると、また違った見方をすることもできる。星野一正は「私たちが人生最後にできる愛のボランティアとして、臓器移植の目的で臓器を提供する行為と、遺体のまま人体解剖学の教育・研究のために全身を大学に提供する行為とがある」(3)という。自分が死んだあとに自分の臓器が他の人の体内で機能し続けてその人が生きていけると、自分の遺体を人体解剖学実習の教材として役立ててもらい医者の養成に奉仕できるのだと考えることが、純粋に喜びとなる者もいるのである。余命の短くなった患者が献体登録をすることで、なるべく良好なサンプルを学生に提供したいという気持ちから健康に気をつけるようになったという話を知ると、人生の最後の最後まで人のために存在しようとするのはどうかとも思ってしまうが、奉仕の精神とは支えることで支えられるものだとは、まさにこのことなのだろう。

脳死状態からの臓器移植の工藤の批判点の二つ目については、いのちの根幹であるとみなされる身体の作用が具体的に他になにがあるのかは、私の知識不足のためあげることはできないが、現在医療行為としておこなわれていることの中には、免疫抑制以外にもその類の行為が他にもあるのではないか。飲んでいると怪我の治りが遅くなる薬もその一例として考えられる。

 

5.経験的事実に基づく医療技術に絶対はない

また、脳死からの臓器移植には、そもそも脳死という現象がめったに起こらないものであることから、臓器提供が慢性的に少なすぎるという問題もある。しかし、たとえそれが宝くじに当たるような確率でしかなかったとしても、宝くじで大金が当たる確率がとても低いことがわかっていながらも、宝くじを買う人は存在し、宝くじという商売が成り立つことを思うと、重病の患者のために一縷の希望として臓器移植という可能性があってもいいのではないかと私は思う。ただ、その可能性のあまりの低さと、もしも手術が成功したからといってそれで終わりにはならないということは重々理解しておく必要がある。医療技術は、そうすればこうなることが多いという経験的な事実から成り立っており、今までその理療を受けた人がみんなそうだったからといって、自分もそのようになるとは決まっていない。薬の効果は、ある症状が出ているときにその薬を服用するとその症状が治まった人が多いというだけだ。薬の成分がどのような化学反応を起こすものであるかが実験によって確かめられているとしても、自分の身体に起こっている症状の原因がどこにあるのかは推測することしかできないし、各人固有のものである身体のどの条件の違いが薬品の効果に対する身体の反応を変化させるかなどは、結果としてしかわからないし、それもやはりどうしても推測にすぎないのである。脳死からの臓器提供は、多少投げやりかもしれないが私は、希望をかけたい人は掛ければいいし、自分の死が他人の役に立つことに喜びを見いだせる人は意思表示を残しておけばよいのだということで、医療体制としてあることは悪くないと思うが、関わる人にはなるべく知識をつけるべきだろう。生死の境の判断は、なぜあるのかもわからない生命が消えるきっかけなどわからないものだから、ただ決定する裁量を任されている医師には精一杯最善を尽くしてほしいと願うばかりだ。

 

引用文献

(1)立花隆脳死中央公論社、1986年、p.41。

(2)工藤和男『いのちとすまいの倫理学晃洋書房、2004年、p.53。

(3)星野一正『医療の倫理』岩波新書、1991年、p.136。

脳死 (中公文庫)

脳死 (中公文庫)

 
いのちとすまいの倫理学

いのちとすまいの倫理学

 
医療の倫理 (岩波新書)

医療の倫理 (岩波新書)

 

 

【倫理学概論】対話でつくる国際正義

 1.不可欠、だが困難な、国際正義の定立

グローバル化により異なった文化的背景をもつ人間の接触機会が増大したいま、文化横断的な正義や地球的な共存倫理を定立することなしに、他者との良好な関係を維持することは不可能なのである」(1)と、押村高はいう。産業化に押されるように、世界を行き来する人や金や情報の交通は増え、事件が及ぼす影響の範囲も広がった。今や、テロや犯罪組織、エネルギー資源や環境、貧困・飢餓・食料、金融危機の問題など、世界規模で取り組まなければならない問題が多くおこっている。このような国境を越える問題を考えるときには、文化による違いのない正義や地球全体を慮る倫理が必要となるのである。しかし、いくら必要とされても、グローバルなレベルで共通の規範というのは定めるのが非常に困難なものだ。

複雑な国際社会における正義の定立をむずかしいものにしているのは、まずそれぞれの文化が異なる価値観や正義観をもっているということである。「コミュニタリアンと呼ばれる人びとは、善や正しさの観念がその社会に固有のものであり、共通にそれを正しいと信じている人びとの範囲でしか正義の履行は期待できないと考えた」(2)ように、文化による価値観の多様性ゆえに、定めるのが困難どころか、国際社会に共通の正しさはあるのかどうかもわからないという考えもある。しかし、価値観が違うからといってそれが直接文化をまたぐ正義はありえないという結論に至ることはないだろう。世界の三大宗教を比較して共通の正しさを見つけることもできるし、わけもなく人を殺すことを正しいとする文化はないからである。価値観の違いは多々あるにしても、最低限のところに国際社会の平和のために守るべき秩序を求めることはできるだろう。

 

2.文明を横断した「対話」で、国際正義を導き出す

そして、異なる文化をまたいだ正義を探るときに重要になるのが「対話」である。押村は「文明を横断する正義を導くのに、抽象的な推論にも類似性の模索にも限界があることが明らかとなった。それでは、差異に配慮しつつおこなわれる「文明間の対話」にそのような役割を果たすよう期待することはできないか」(3)と考える。いくつかの民族、文化、言語などからなる国家内において、よりよく共存するためのルールやコンセンサスを生み出すさいに異文化対話が実践されていることから、国際社会の正義を導くためにも対話は有効な手段となると推測されるのである。

ただし、これまで異文化対話である国家間での外交の際に論じられるのは各国の利益であって、国際社会全体のあるべき姿へと進む道ではなかった。押村は「伝統的な外交は、第一義的には国益の増進を測る手段とみなされている」(4)という。中西は地球的統治にとって問題となる国家エゴは国際政治の構造そのものに由来するものであり「国家の代表にとって国際会議の現場で自国の利益を守り、伸張することはそれ自身公的な責務である。彼らは人類全体を代表すべきいかなる政治的義務も負っていない。彼らが地球全体の利益も考えて行動することは許されているが、それは自国の利益と一致する範囲内においてであり、自国の利益に反する決定を支持することは彼らにとっては義務違反となるのである」(5)と分析するが、押村はそのような国家エゴは伝統的な外交に特有のものであり、国際正義を論じるときにも欠くことができないものであるとは考えていないのである。「ロールズは正義の「多元性」や「個性」を確保するためにも、社会正義を国境外に適用しないほうが無難だと考える」(6)が、これは国際的な正義に各国の同意を求める行為が「勢力の非対象にもとづく強者、つまり数でいえば開発国、富でいえば先進国による正義の強要をもたらすかもしれないし、それによって、各国の正義あるいは善文化が破壊されるかもしれない」(7)と心配したからである。「国際社会では、自らの意志を他者に押しつけ、また逆に他者から意志を押しつけられないための役割を軍事力は果たしてきた」(8)というのも、自国の利益だけを考えた外交のあり方のひとつだろう。しかし現在において国家が自国のことだけを考えるのは、結果の影響の及ぶ範囲の広さからして隣国や未来に対する無責任であると思われる。経済活動は国境を超え、環境問題において国境などありはしないのである。

では、国際社会の正義を導くための対話とはどのようなものであるか。「理論的に言うと、文明間対話の成否は、代表者がどのようにして自己の立場へのこだわりを脱することができるか、つまり国際公民の自覚を持てるかによって決まる」(9)と押村は言う。つまり自国の利益ではなく、地球全体のことを考えた発言によってなされる対話が、国際正義を導くのである。また「文明内の正義の常識は外界では通用しないという意識を持てば、自己の正義を押しとおすことなく、共通の正義を探し求めるという姿勢を育み、対話による正義の達成という理念に近づく」(10)という押村の見解は、まったくその通りであると私は思う。自国の正義を絶対的なものだと思っていては、ちがう文明を生きる他者の意見を否定することしかできないが、対話というのは自らの意志を押しつけるだけのものではないのだ。自らの正義を相対化する対話を成立されられれば、正義の食い違いがひき起こす紛争はその根拠を失うことになる。

 

3.ひとりの考察には限界があるが、「私」の意見も大切

相対化の効果に加えて、国際正義を導くのが地球全体のことを考えたひとつの理性の思考ではなぜいけないのかということを説明しようとすると、多文化を包括する正義を導くための方法が対話でなければならない理由は、代表者が自分の属さない文化を把握しているとはいえない点から、それぞれが自分の立場を持っているという前提にも求められるだろう。自国の正義を絶対視してはいけないが、それは対話において自分の立場を置き去りにして地球全体のことを考えろということではない。地球全体のことを考えようとしたところで、自分も地球全体に含まれているのである。ひとりの人間はその人の持っている歴史や生きている文化のなかの視点を離れた考察はできないし、またその人が知っている事情を他の人は知らないということは非常に多いのだからこそ、代表者は相対化された文化の一つとして、自国の正義を主張しなければならない。つまり自国の文化の相対化というのは、対話においては必要不可欠な「聞く姿勢」から始まると考えられるが、聞くだけではなく言わなければ対話は成り立たないのである。ただし、これに関してはこれまでの外交が自己主張のぶつかり合いであったことを考えると、わざわざ促されなくても主張はされるものなのかもしれないが、全体の利益を考えることが推奨される場面では、とりわけ力の弱いものが私利を要求しづらくなることもありうると思われるので「私」も「みんな」の一部であることを強調しておきたい。

 

.1985年、ソ連アメリカ首脳会談での対話

正義の対立する異文化間でおこなわれた対話の一例として、1985年に行われたソ連ゴルバチョフ書記長とアメリカのレーガン大統領との首脳会談は非常に示唆的であると思われる。「最初の会談は両首脳のみで行われたが、両者の見解の相違は大きく、議論は激しく対立したという。しかし15分の予定だった会談は一時間を超え、食事をはさんで午後にも続けられた。結局、両者の歩み寄りはなく「対話は尽きた」(ゴルバチョフ)。しかし両者の間には人間としての感情が通い合うようになった」(11)そうだ。ゴルバチョフは会談のあとで対立したままではあったが「それぞれの直観が、分裂に向かってはならぬ、コンタクトを続けなければならぬ、とそっとささやいた。どこか意識の奥底に合意への希望が生まれた」と言っている。中西によると「相互に立場の違いを認識しつつ、相手の立場に立って考えるという「寛容」の精神によって二人は結ばれたのである」(12)。この一時間の対話が意見の違う相手を自分と同じ人間であると認めることになったからといって、それがどのくらい冷戦終結につながったのかは定かではないが、この事実は正義の対立する異文化間における対話の重要性を表している。

代表者による対話という方法には、押村が指摘するように「国家政府や外交団が国民すべてを代表できるわけがなく、しかも、代表が一部部族や階級の利益しか反映していない例も多く見られる」(13)という問題がある。そしてそれは「国際社会で参加者が異文化教育の機会を得ているかどうかは未知数である」(13)という問題とも関係があるだろう。国内であれ国際社会においてであれ、自分の属する集団の正しさに疑いを持ち、自分と違った正しさを持っている人の言い分を理解しようとする態度を代表者が持ち合わせていなかったときにおこるのが、これらの問題だからである。日常生活の小さな範囲のなかでは、自分と違う意見を真っ向から否定しないことは、たいていの人ができることであると思われるので、課題は小さな範囲で実行できていることを舞台が広がっても同じように考えられるかだ。楽観的ではあるが、国内で教育の機会を得ていなかった場合には、国際社会の対話を通してそれを知れば、国の代表者として出てくる人物がその国内で持つ影響力は比較的大きいものであろうことから、正義を導くための対話から国際社会に異文化教育が広まる可能性もある。

 

5.正義の対立から、寄る辺なき正しさの吟味へ

工藤によると、かつての共同体は、私、家族、地域から国家まで同心円的な重なりだったが、いま私たちは多様な共同体の重なりのなかにいるのであり、共同体の主張する道徳的正しさ同士が対立することも起こりうる。そしてそのような状況が、自分で吟味して判断するという自律の精神を要求する(14)。国境をこえた正義を探ることもまた、それぞれの正義が対立する状況を避けては通れず、それは自分にとって当たり前であった正しさを吟味することにつながるだろう。そのような社会は、差別などの他者の不幸を内包した正義を信じさせられる状態よりは啓かれており善いと言えるが、同時に、何もかもが相対的で信じられるものが見当たらない中で判断を迫られ続けるという不安と向き合う覚悟をもたなければならない。「正義」というものは国際社会で論じる前に、個人内であっても定立するのが難しいものであるように、自問自答し続けることで近づこうとすることしかできない性質のものなのかもしれないからである。

 

<引用文献>

  1. 押村高『国際正義の論理』講談社現代新書、2008年、p.12。
  2. 同上、p.183。
  3. 同上、p.195。
  4. 同上、p.201。
  5. 中西寛『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』中公新書、2003年、p.203。
  6. 押村、前掲書、p.176。
  7. 同上、p.175。
  8. 中西、前掲書、p.106。
  9. 押村、前掲書、p.204。
  10. 同上、p.199。
  11. 中西、前掲書、p.274。
  12. 同上、p.275。
  13. 押村、p.201。
  14. 工藤和男、倫理学概論、2009年9月29日。

 

<参考文献>

遠藤誠治、小川有美編『グローバル対話社会 力の秩序を超えて』明石書店、2007年。

 

国際正義の論理 (講談社現代新書)

国際正義の論理 (講談社現代新書)

 
国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

 

 

 

【倫理学概論】マジョリティの道徳的悪(中島義道『悪について』より)

悪について (岩波新書)

1.カント倫理学は適法行為のうちで道徳的に善い行為を問題とするが、人間は非適法行為を実現する

中島義道は、カント倫理学のなかで、適法的ではあるが道徳的に善くはない領域の「悪」についての言及に注目する。中島によれば「カントの関心は、義務に適った行為のうちで、義務からの行為を限定するにはいかなる条件が必要かというもので」(1)あった。義務に適わない行為というのは、はじめからカントの眼中にはないのである。ちなみに、「「義務に適った行為」とは適法行為であり、「義務に適った行為」のうちで、さらに道徳的に善い行為が「義務からの行為」である」(2)。そして、道徳的に善い行為=義務からの行為は、善意志ないし道徳法則に対する尊敬に基づく動機によって実現された行為のことである。

これを言いかえると、「定言命法に従わないような意志ないし動機が行為をひき起こすとき、それは悪い行為(非適法的行為)か、たとえ適法的でも道徳的に悪い行為である」(3)と言える。問題の「悪」、つまり適法的ではあるが道徳的に善くはない行為は、定言命法に従わない意志や動機が引き起こす適法行為なのである。ただし、何が適法的であり、何が非適法的であるかというと、「その判定は定言命法だけからは少なくとも直接には出てこないのであり、定言命法を時代および社会の通念とカント固有の人間観(価値観)とに重ね合わせて、初めて導くことができるのだ」(4)。カント固有の人間観の理解はともかくとして、時代および社会の通念に左右されるということは、適法性に普遍的妥当性を持った法則を見出すのは不可能だ。そもそもカントの関心は適法行為のうちの道徳的に善い行為とは何かということであって、義務に反した非適法行為は問題にはされない。

道徳的に善い行為を導く定言命法は、以下の二つである。「(1)きみの意志の格律が、同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。(2)きみ自身の人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっして単に手段として使わないように行為せよ。」(5)この二つの法則への尊敬に基づく動機によって実現された行為というのが、カントの言う道徳的に善い行為である。しかし、理性的存在者である人間は、定言命法によって絶対的に道徳的に善い行為を命じられていながらも、なぜかそれに違反して非適法行為を実現してしまう。「道徳的に善い行為とは何かを知っていることと、それを実行することとは異なる」(6)のである。

 

2.カント倫理学の考察対象と、自己愛から生じる適法的ではあるが道徳的に悪い行為「根本悪」

「悪」をひき起こす意志や動機となるものとして、何よりも「自己愛」が強調される。それは、話をわかりやすくしようとすれば、「カントの場合、非適法行為の動機は自己愛しかない」(7)ともいえるくらいものである。自己愛は、自殺者、自分の才能を職業とするもの、社会的功績者から、つつましい生活を送る人のなかにまで、どんな人にでもありふれて生い茂る。その中でも特にカントが倫理学的考察の対象として問題にしたのは「その社会に適合した品行方正な人々」「この世の法律に従い、その枠内で利益を追求し、うまく立ち回っている善良な市民たち、社会において、犯罪者と逆の立場にいる者たち、すなわちその社会におけるまずまずの成功者たち」(8)であったと中島は言う。「彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである」(8)というのがその理由だ。カントの倫理学でテーマとされたものは、犯罪や社会的に悪であると非難されるような行為などではなく、日常においてはびこる、法では咎められず、外形的にはむしろ善いと言われる行為のなかにひそむ悪であったことは確かだろう。このような悪をカントは「根本悪」を呼び、悪ではないがいずれ悪につながる可能性を秘めた動機とした。「根本悪とは卑劣きわまる・血も凍るような・人間業とは思えない極限的悪行のことではない。それは、信用を得るために人を救助するとか、けちと思われたくないから寄付するとか、他人を傷つけたくないために真実を伝えないという些細な行為のうちに巣くっている。それは、我々が(自他の)幸福を求めようとするかぎり、必然的に陥る罠なのであり、あらゆる行為の「根っこ」なのである。」(9)ちなみに、中島は「根本悪」を悪よりも質の悪いくらいの悪であるとするが、それはおそらく中島が、社会的には品行方正な人々の為す、社会的には見えない適法的悪によって与えられる害の大きさを、身をもって味わってきたからであると思われる。

根本悪の代表であるとされる自己愛は、すべての人が持っているものであり、持たなければ生きていけない類のものである。しかし、自己愛のみを動機とした行為は、道徳的にだけではなく、一般的にも善くない行為だとされる。そこでカントが主に批判するような人々は、社会のなかで自分の幸福を得るために、なまの自己愛を覆い隠し、たとえば「他人の信頼という永続的利益を得たいのであれば、彼(女)はむしろなりふり構わず目前の利益に手をのばす態度を避けねばならない」(10)といった賢さを磨き上げるのである。「ほとんどすべての他人に対する親切や同情は、「義務から」ではなく「自己愛から」生ずることをカントは実感として知っていたのだろう」(11)と中島は言う。そして、「カントが心から憎んだこと、それは外形的に善い行為(適法行為=義務に適った行為)を実現しながら、心のうちには動機として道徳法則に対する尊敬ではなく自己愛が渦巻いていることである」(12)。根本悪は、悪とは違い、社会的に非難されることはないものである。

 

3.嘘は道徳法則に反する悪だが、我々は人間愛から嘘をつく

そのようにカントが憎んだ、自己愛から生じる適法的ではあるが道徳的に悪い行為の一例として、嘘の問題がある。カントは『人間愛から嘘をつくという誤った権利について』という論文で、常識で考えると衝撃的なたとえを挙げて嘘の悪さを説明する。人殺しが自分の友人を殺そうと追いかけていて、友人が家に匿ってほしいと助けを求めてきたので、匿うとする。その後、その人殺しが友人を探しにやってきて、その友人が家の中にいるかと自分に尋ねた場合でも、嘘をついてはいけないとカントは言うのである。このような状態で、その友人が自分の家の中にいることを告げれば、その人殺しは家の中を探し、友人を見つけて殺してしまうだろう。しかしカントは、友人の命を助けようとして嘘をつくことは、道徳法則に反するという点で悪だと主張する(13)。その理由は、善意の嘘を認めたら、嘘をつくことの奨励ばかりか真実を語ることへの非難へとつながるおそれがあるからである。「カント倫理学においては、愛よりも道徳法則に対する尊敬を最優先すべきなのだ」(14)。

しかし実際のところを振り返ってみると、これは中島も指摘していることではあるが、カントは友人の生命を守るための嘘でも悪だというが、私たちの日常生活の中にはもっと些細な動機から発せられる嘘にあふれている。日常において発せられる嘘に最も多いものは、他人の気持ちを思いやるという名目でつかれる嘘であるだろう。だが、これも実のところは、他人を不愉快にさせることばを発すると自分も不愉快になるので、それを避けるという自己愛に基づく行為なのである。「われわれは、善良であろうとすればするほど、他人を配慮すればするほど、嘘につぐ嘘の毎日を送らざるをえない」(15)という仕組みになっているのだ。しかし、他人の気持ちを思いやってつく嘘というのは、人間関係を円滑にし、社会に排除されないためには不可欠と思われるものである。「出口はないのだ」と中島は言う。「いかにしても、われわれは道徳的に善くはなれないのである。私にはたえず「道徳的に善い行為をせよ!」という命令だけが聞こえる。しかし、私はみずからそれを実現することができない位置にいることも知っている」(16)。人間が生きている最高善と根本悪とに引き裂かれていることは、カントも指摘していることである。

 

4.適法か非適法かという判定は、時代や社会の観念が作り出す

おそらくカントはその倫理学において、道徳的に善い行為をするべきだといっているのではないのだろう。ただ、法に適しているというだけで非難されない行為についての反省を促したかったのではないかと私は思う。自分の幸せを願うのは、誰にとっても許されることだと考えられている。しかし、幸せというものは各人ばらばらの価値観のもとにあるものであり、ある人が自己愛に基づいて欲する行為は適法的であるのに、ある人の自己愛に基づいて欲する行為は適法的ではないということがじゅうぶんにあり得る。そして非適法的行為は非難され、適法行為は推奨される。適法か非適法かという判定は時代や社会の観念によって異なるということを考えると、普遍的に妥当する法則を求める精神からしてみたら、これはどう考えても正しくないことである。やや感情的なことではあるが、中島は自身の子供時代について「みんな、ぼくに向かって「子供らしくなれ!もっと遊べ、もっと明るくなれ!と叫びつづけるだけだった。ぼくは彼らに向かって「もっと孤独になれ!もっと暗くなれ!」とは言わなかった。ただ、「そっとしておいてくれ」と願うだけだった」(17)。しかしそれすら聞き届けられはしなかったという。なぜなら、その「みんな」というのはマジョリティだからだ。彼らは「たまたま、その思考法や心情や感受性が絶対的な多数であるという大枠のなかに入っている」ので「自分の考えを主張するとひとりでに大多数の人々の考えと一致してしまい、自分の幸福感を表明するといつの間にか大多数の人々の幸福感と一致してしまう」(18)。つまり「彼らは自己中心主義を貫くとそれがそのまま「みんな中心主義」へと変貌するという便利な構造のなかに生息している」(19)のであり、マジョリティからそれてしまう思考法や感受性を持ったものを、弾劾したり説得したりすることをはばからないのである。ただし、何がマジョリティとマイノリティを決めているのかは謎だ。

 

5.社会的マジョリティの価値観にもどうか悩みを

嘘についてのカントのあげた極端なたとえも、このようなマジョリティの考え方を批判するものとしてとらえると、その極端さが理解できる気がする。道徳的善を知ってはいても人間は根本悪から逃れられないことを知っていたカントは、けっして友人の命よりも道徳法則を重んじるべきだといっていたのではなく、友人のためなら嘘をつくことを当然とし、そうしない人を「ひどい」と無批判に非難することを咎めようとしていたのではないだろうか。道徳的善を知っていても、そこに到達することの叶わない人間にせめてできることは中島いわく「道徳的であること」、つまり悩み続けることだからである。

ただ、カントは道徳的であるかどうかを性格のようなものとしてとらえていたということを考えると、自分の価値観がみんなの価値観とほぼ重なるように育ってきた人に、突然道徳的になれといってもそれは、中島の指摘するように「われわれがみずから社会の掟に疑いを抱いたときにこそ、社会の掟を破ったときにこそ、いや社会の掟を呪った時にこそ、我々は最高善を全身で「要求する」」(20)のであるから、社会の掟を破らずに適法行為を積み重ねるという自己愛のなかで安穏とする社会的に品行方正な人々が道徳的善を求めることは、何かしら突飛な出来事によってその人の幸福が社会から非適法行為とみなされるようなことでもない限り、ありえないと思われる。とすると、嘘についての問題で、真実性を他者の幸福ひいては自己愛よりも重んじるようにカントが説いたのは、マイノリティに対して、マジョリティが「みんなの幸福」という名で説くマジョリティにとっての快適さを守るための適法性が絶対ではないことをいうためであったかもしれない。マジョリティによって社会的に適法だと期待されることばではなく、真実というと大げさに感じられるが、自分の思うところを正直に述べたほうが善いということだろう。

中島義道を介して見るカントの倫理学は、善と悪のはざまで適法性を都合よく設定し、価値観を強要する社会的マジョリティを問いただすものであると私は解釈した。

 

<引用文献>

  1. 中島義道『悪について』岩波新書、2005年、p.15。
  2. 同上、p.14。
  3. 同上、p.32。
  4. 同上、p.31。
  5. 同上、p.19。
  6. 同上、p.26。
  7. 同上、p.48。
  8. 同上、p.54。
  9. 同上、p.198。
  10. 同上、p.59。
  11. 同上、p.81。
  12. 同上、p.84。
  13. 同上、p.94。
  14. 同上、p.103。
  15. 同上、p.100。
  16. 同上、202。
  17. 中島義道『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ』講談社、2002年、p.159。
  18. 同上、p.147。
  19. 同上、p.148。
  20. 中島義道『悪について』、p.208。

 

 

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

 

 

<参考文献>

  1. 和田秀樹『〈自己愛〉の構造 「他者」を失った若者たち』、講談社選書メチエ、1999年。
  2. ギュンター・アンダース著、岩淵達治訳『われらはみな、アイヒマンの息子』晶文社、2007年。

【ゼミ】自同性の一線 〜レヴィナス「逃走論」より〜

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

1.前近代の西洋哲学は存在の自足せる安逸を前提としており、自我から出られない

西洋哲学は、自我から出られない全体性にすべてを包み込む危険をはらんでいると、レヴィナスは指摘する。というのも、平和と均衡を理想としている西洋哲学は、存在の自足せる安逸を前提としているからである。自我を自足した安逸と考えているものの例として、レヴィナスブルジョア精神とその哲学を挙げて「自我について自足した安逸という考えを持っているブルジョアは、いかなる内面的分裂を打ち明けることもないし、自己への信頼を欠いていることを恥じている」(145)と説明する。自足した安逸としての自我とは、すべてがそのなかに定立されるところのものであり、すべては自我にとって存在しているところのものであると考えられる。また、何よりも明日の確実性・現在の保証を望む「ブルジョアの所有本能は統合本能であり、その帝国主義は安全性の追求である」(145)とあるように、自我を自足した安逸としてとらえると、自我は自我と対立した世界を自己自身へと統合し、そうして自我のうちを平安に保とうとする。「こうして未来は過去へと統合される」というのも、自足した安逸としての自我は、未来として現れる不確定で予測不可能な要素を、安逸して定まっていてよく知られたものと信じられている自己自身へと統合するからである。

 

2.主体は存在から逃走することができないという二十世紀の問題

近代以前の哲学はこのように存在の自足せる安逸を前提としていたことから、主体と世界を調和し、平安と均衡を保つことを理想としていた。それゆえに、「人間の条件の不充足が、存在に課せられたひとつの制限として以外の仕方で理解されたことは一度としてなかった」(146)のであり、その場合にはいかにこの制限を超越し、制限のない無限な存在と合一するかのみが問題とされた。しかし二十世紀の感性によって、存在のうちにある制限以上に深刻で本性的な欠陥が見てとられた。それは「制限という観念が存在するものの実在・実存に適用されうるものではなく、単にその本性にのみ適応されるということ」が確信されたことから始まる。

存在するものの本性とは、「主体を引き裂き、人間の内部で自我を非‐自我と対峙させるような闘争を超えたところに、主体は単純なものとして存在する」(144)といったときの非‐自我と対峙する自我ではなく、単純に存在する主体そのものであるととらえることができる。単純に存在する主体というのは、自我と非‐自我という対立を超えたところにいる主体のことであり、自己のうちにあるすべてのものをして自我と非‐自我とに分けている働きを担っている主体のことである。そして、現代文学があらわにした不安、レヴィナスが「逃走論」で論じている「逃走」という現象は、この主体が自己自身から逃れようとすることである。非‐自我と対立してある自我が自己自身から逃れようとするならば、自己自身に含まれる要素を非‐自我に移すことや、非‐自我であったものを自我とすることによって部分的には可能であるが、主体が自我や非‐自我を対峙させている当の主体自身から逃れることや、主体が自我を定立する働きをまったくやめることは不可能に思われる。つまり存在から逃走することはできないのである。

 

3.逃走は「存在の自同性」によって阻まれる

ところで、存在から逃走することはできないということが問題となるのは、主体が存在から逃走したいという欲求をもったときだが、主体はなぜ存在から逃げたいと思うのだろうか。言い換えると、逃走の欲求はいかにして生まれるのだろうか。これにこたえるのが、「存在の自同性」という性質である。存在の自同性は「存在は存在する」ということだ。そして「存在は存在する」という事実の肯定は自足している。「存在するという事実のあからさまな肯定は絶対的に自足していて、他の何ものにも準拠してはいない」のであり「ある存在に関してその実在だけを考えるかぎり、存在は存在するという肯定につけ加えるべきものは何もない」(146)という、存在と存在することについてのこのような関係が「存在の自同性」と言われるものである。「自同性は、存在するという事実の自足せる安逸の表現であって、誰も、その絶対的で決定的な性格を疑問に付することはできないように思われる」(146)というのが、従来の西洋哲学における考え方であった。しかし、ここに世紀の病として存在からの「逃走」の欲求が生まれたときに、存在は存在しないことはできないという事実は逃走の欲求をもった自我の前に不可能性として立ちはだかることになる。

レヴィナスは「実存は、他の何ものにも準拠せずに自己を肯定するような絶対者である」(151)と言う。つまり自我においては、参照するものと参照されるものが同じものなのであり、そこには自同性がある。そして、「自我の自同性において、存在の同一性が束縛という性質を持っており、その性質が苦悩のかたちを持つので、そこから逃げたくなる」のである。レヴィナスによると「逃走」は「自我が自己自身であるという事実を断とうとする欲求」(151)であるが、自我は自己自身にしか準拠せずに自己を肯定するものであることから、自我が自己自身であるという事実を断ちつつ自己を肯定することは不可能なのである。ここに自我の自同性が逃走を阻むものとしてあることがわかる。

「非‐自我の存在は我々の自由と衝突しはするが、まさにそれによって自由の行使を強調するものだった」(148)というのは、非‐自我は自我の思い通りにならないものではあるものの、自我は非‐自我との境界上でもって非‐自我の自我への統合をなしえたからである。従来は自我と非自我を対立させていたが、非自我を定立させている単純な主体にとっては、非自我も存在しているものであるので、自我と非自我の対立はそのような事実への反抗とはならないのだろう。

「逃走は存在そのもの、「自己自身」から逃れるのであって、存在に課せられた制約から逃れるのではない。逃走において自我は、自分がそうではなく、また、決してそうはならないだろうもの、すなわち無限として、自己から逃れるのではなく、自分がそうであり、そうなるであろうものそれ自体と対立するものとして、自己から逃れる」(152)のであって、自我と非‐自我とを対立させる主体としての自我は、その働きがあるかぎりでは自己自身から逃れることができないと考えられる。心理学では「欲求」というと、何か自分には足りないものがあり、それを欲しがって求める気持ちを持つことであるが、逃走の欲求はおそらくそのような「今ここにない何かが存在していて欲しい」と望むことではなく「どこかに行きたい」と望むことでもなく、「存在しているすべてのものから離れたい」というような欲求である。「人間は生来自分が望みもしなかったし選びもしなかった実存のなかに巻き込まれているという月並みな確認は、有限たる人間の場合にのみ限定されてはならない。この確認は、存在それ自体の構造を言い表しているのだ」(172)とレヴィナスは言う。不老不死に生まれたかったと望むことは、その存在それ自体の肯定でもある。しかし、存在したくなかったと望んだところで人間は自ら望んで存在し始めるわけではないし、存在したくなかったと望んでいることがすなわち現在において自己が存在しているという事実を現わしている。「実存への参入は意志に反してなされたものではない。もしそうなら、この意志それ自体の実存が当の実存に先立つことになるからだ」(172)というように、意志は実存がはじまるとともにはじまる。たとえそれが自己自身から逃れたいという欲求であっても、欲求があるという時点で逃れたいと意志している自我は実存してしまっているのである。

ベルクソンの示したように「無を思考すること、それは抹消された存在を思考すること」(173)であり、これによって思考は存在以外のものを捉えることはできないのだといえる。

「思考は実在するか、実在するとみなされたものだけしか思考できないし感じることもできない」(175)というのも、ここでいう「存在」とは一般的に言われる五感で確かめられる客観性を持ったものではないからだ。「無それ自体でさえ、思考がそれと出会うかぎりでは、実在をまとわされるからで、われわれは無条件に、「非‐存在は存在する」とパルメニデスに抗して言明するように強いられている」(175)のであって、思考される対象としてあるものを「存在する」というのならすべての観念は存在しているものとなりうる。ここからも、存在している自我がいかにも存在と分かち難い構造になっているのがわかる。

 

4.世紀の病としての「逃走」という現象

「存在するものは存在する」という事実から逃れることは可能なのかというのが問題であったが、存在するものは存在しているという事実から逃れることはできないという不可能性よりも、存在するものが存在から逃れようとする欲求をもって存在するということに、私は注目したい。存在から逃れんと欲する存在者が存在しはじめたことは、世紀の病としての「逃走」という現象であった。十九世紀までは超えられることのなかった一線を近代の感性が超えたことについて、「戦争と戦後がわれわれに知らしめた自我の存在」とレヴィナスは言うが、戦争と戦後はいったい我々に何を知らしめたのだろうか。安逸に自足していた自我から、逃走を欲求する自我への転換はどのようにして起こったのか。レヴィナスによると、「逃走」という病が姿を現すような「こうした状況は、生活の余白がだれにも残されず、誰も自分自身と距離をとる力を持てないような時代に造り出される」(147)のであるが、生活の余白や自分自身と距離をとる力はなぜ失われてしまったのかも、それを取り戻すことは可能なのかもわからない。

 

 

<参考文献>

エマニュエル・レヴィナス「逃走論」『レヴィナスコレクション』ちくま学芸文庫、1999年。()内は引用ページ数。

 

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

 

 

【ゼミ】レヴィナス『逃走論』Ⅲの発表原稿

 

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

Ⅲ章では、欲求の構造を説明する。

 

心理学的な欲求の説明

欲求→満足の追求

   人間存在の制約としての欠如(不充足)のために他のものを求める

   欲求を全体に拡散させる不快感も、この存在の有限性をあらわすものである。

 満足の快楽=自然な充溢の回復

  ↑

欲求の不充足を、存在の不充足として解釈している。

心理学は実存と実存者を区別していない。

 

欲求の特徴である苦痛の特殊な様相

・・・不快感

   とどまることの拒否・耐えがたい状況から脱出するための努力

どこへ行くのか知らないけど脱出しようとする企てであり、脱出する先の目標は未決定。

 

欲求を満足させうる特定の対象についての意識を欠いた欲求がある。

→満足よりも解放によって克服される不快感

 

欲求⇔満足させうる対象←外来の経験と教え(勉強と教育)

・問題:欲求はこのような対象で満たされるのか?

    欲求の充足は不快感にこたえるものなのか?

 

欲求ゆえの苦痛←満たされるべき欠如を示さない。

 欲求が満足したかの確認は外部からもたらされる。

欲求=現在への絶望

 

欲求の満足は欲求を破壊しない。 欲求の再生/満足→失望

満足は欲求を鎮めるが、欲求の最初の要請である不快感は、鎮まるという平安の理想とは異なる状況を要請している。

存在の奥底にある一種の自重は、欲求の満足によって放擲されない。

 

人間における満足と欲求の不一致

 断食者の苦行⇒逃走の欲求

欲求の満足→満足が応えうる不充足とは、別の不充足を欲求に授ける。

 

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

 

 

【ゼミ】レヴィナス『逃走論』Ⅰ前半の発表原稿

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

 

段落1  存在の観念に対する伝統的哲学の反抗

→人間的自由と存在という事実が不和だったから。

伝統的哲学においては、人間は世界と対立することはあっても、人間自身と対立することはない。主体の内部での自我と非自我を対峙させるような、自我の統一性を破壊する闘争を超えたところで、人間の主体は単純なものとして存在する。自我は自我の内の人間的でないものを一掃して自己自身と和解している。

 

段落2  18、19世紀のロマン主義

自我の自己自身との和解という理想を手放すことはなかった。闘いは、個人のヒロイズムや自分自身の現実を開花させるために、異質なものに対して挑まれる。

 

段落3  自足した安逸

伝統的哲学やロマン主義は、自我を自足した安逸と考えており、これはブルジョア精神とその哲学の特徴である。ブルジョアは内面的分裂を打ち明けない。

彼に所有を保証している現在の均衡を破るかもしれない現実と未来を憂慮しており、現在に確実な保証を求める。

ブルジョア=不安な保守主義

事業や学問への関心・・・事物ならびに事物に秘められた予見不能性への防御

所有本能は統合本能であり、帝国主義は安全性の追求である。

 

段落4  存在の自同性

自足せる安逸という範疇(categorie多義的な存在の構造を表す述語?)は、諸事物の存在がモデルになっている。

諸事物は存在する。

存在は存在する。存在するという事実の肯定は自足している。この事実を肯定するために付け加えなければならないことは何もない。

→存在の自同性(存在するという事実が自足していることの表現)

 

段落5  西洋哲学

存在主義との戦いの目的:人間と世界の調和、われわれの存在の完成

  ↑

平和と均衡という西洋哲学の理想は、存在の自足せる安逸を前提としている。

「人間の条件の不充足は存在に課せられたひとつの制限でしかない」

いかにこの制限を超越し、無限な存在と合一するかのみに関心がもたれた。

 

段落6  しかし近代の感性は!

制限はexistenceではなくnatureにのみ適応される。

→存在のうちに、制限以上に深刻な欠陥を看取した。

「逃走」(現代文学)・・・近代の感性による存在の哲学に対する糾弾。

 

段落7  逃走=世紀の病い

<逃走が姿を現す近代の生活状況>

生活の余白が誰にも残されず、誰も自分自身と距離をとる力を持たない。

万物の秩序の不可解な歯車装置に挾まれているのは、自分のことを考える自立した人格。

自分が獲得した堅固な地盤に立脚しながらも、あらゆる意味で動員可能(mobilisable)なものと自分を感じている。

この堅固な地盤が問いただされるとき→自分は究極の現実を犠牲にするように強いられていたのであり、はかない実存が絶対的なものだと自覚する。

生活における快適な遊びは、遊びを断つことができない、遊ばないではいられない、遊びに釘づけにされているという意味で、遊びとしての性格を失う。

事物が遊具としての無用性を持っていた幼年期は終わり、われわれは現実に存在しており、その存在には必ず終わりがある。

 

 

自己についての自足した安逸という考え方は、日本にもあるか?

自立した人格として歯車装置に挟まれているのは、当人にとって辛いことか?

 

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

 

 

【ゼミ】『方法序説』第四部の発表原稿

方法序説 (岩波文庫)

方法序説』第四部(p.53 5行目~) 

神と魂の存在は、身体や天体や地球の存在よりも確かである。

夢に現れる実際とは違う身体・天体・地球も、他の思考と同様に生き生きと鮮明であり、夢の思考が他よりも偽であると分かるのは神がいるためだとしか考えられないから。

 

先の規則「われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真である」も、明晰かつ判明である観念や概念は神に由来するものとして真であることから保証される。

完全な存在者である神が存在する → われわれの内にあるすべては神に由来する → われわれの観念や概念は(明晰かつ判明である限り)実在であり、神に由来する → 真である

虚偽や不完全性は、われわれが完全ではないために、その点において無を分有しているからである。

 真理・完全性  神に由来する

 虚偽・不完全性  無に由来する

実在・真であるものが完全で無限な存在者(神)に由来することを知らないと、どんなに明晰かつ判明である観念も真であるとは保証できない。

 

この規則「われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真である」によって、夢の中でも思考することが、覚醒時の思考の真理性を疑う理由にはならないことが分かる。夢の中であっても判明な観念は真であるかもしれないし、感覚が誤りうるのは夢の中だけではなく現実でもだ。

つまり、睡眠・覚醒時にかかわらず、理性の明証性以外によってものごとを信じてはならない。想像力や感覚によるものは、どんなに明晰・判明であったとしても、理性はそれを真だとは教えない。

 

神が完全かつ真であるゆえに、われわれの観念や概念は何か真理の基礎を持っているはずだ。そしてわれわれの推論は、覚醒時のほうが睡眠時よりも比較的明証的で完全に近いため、思考の真理性は、夢のなかよりも目覚めているときの思考のほうで見出されるはずだ。

と、理性は教える。

 

考え(思考)と観念

理性は誤らないのか?

明晰判明な観念が真であることと神の存在との間に循環があるという批判

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)