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【倫理学概論】マジョリティの道徳的悪(中島義道『悪について』より)

悪について (岩波新書)

1.カント倫理学は適法行為のうちで道徳的に善い行為を問題とするが、人間は非適法行為を実現する

中島義道は、カント倫理学のなかで、適法的ではあるが道徳的に善くはない領域の「悪」についての言及に注目する。中島によれば「カントの関心は、義務に適った行為のうちで、義務からの行為を限定するにはいかなる条件が必要かというもので」(1)あった。義務に適わない行為というのは、はじめからカントの眼中にはないのである。ちなみに、「「義務に適った行為」とは適法行為であり、「義務に適った行為」のうちで、さらに道徳的に善い行為が「義務からの行為」である」(2)。そして、道徳的に善い行為=義務からの行為は、善意志ないし道徳法則に対する尊敬に基づく動機によって実現された行為のことである。

これを言いかえると、「定言命法に従わないような意志ないし動機が行為をひき起こすとき、それは悪い行為(非適法的行為)か、たとえ適法的でも道徳的に悪い行為である」(3)と言える。問題の「悪」、つまり適法的ではあるが道徳的に善くはない行為は、定言命法に従わない意志や動機が引き起こす適法行為なのである。ただし、何が適法的であり、何が非適法的であるかというと、「その判定は定言命法だけからは少なくとも直接には出てこないのであり、定言命法を時代および社会の通念とカント固有の人間観(価値観)とに重ね合わせて、初めて導くことができるのだ」(4)。カント固有の人間観の理解はともかくとして、時代および社会の通念に左右されるということは、適法性に普遍的妥当性を持った法則を見出すのは不可能だ。そもそもカントの関心は適法行為のうちの道徳的に善い行為とは何かということであって、義務に反した非適法行為は問題にはされない。

道徳的に善い行為を導く定言命法は、以下の二つである。「(1)きみの意志の格律が、同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。(2)きみ自身の人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっして単に手段として使わないように行為せよ。」(5)この二つの法則への尊敬に基づく動機によって実現された行為というのが、カントの言う道徳的に善い行為である。しかし、理性的存在者である人間は、定言命法によって絶対的に道徳的に善い行為を命じられていながらも、なぜかそれに違反して非適法行為を実現してしまう。「道徳的に善い行為とは何かを知っていることと、それを実行することとは異なる」(6)のである。

 

2.カント倫理学の考察対象と、自己愛から生じる適法的ではあるが道徳的に悪い行為「根本悪」

「悪」をひき起こす意志や動機となるものとして、何よりも「自己愛」が強調される。それは、話をわかりやすくしようとすれば、「カントの場合、非適法行為の動機は自己愛しかない」(7)ともいえるくらいものである。自己愛は、自殺者、自分の才能を職業とするもの、社会的功績者から、つつましい生活を送る人のなかにまで、どんな人にでもありふれて生い茂る。その中でも特にカントが倫理学的考察の対象として問題にしたのは「その社会に適合した品行方正な人々」「この世の法律に従い、その枠内で利益を追求し、うまく立ち回っている善良な市民たち、社会において、犯罪者と逆の立場にいる者たち、すなわちその社会におけるまずまずの成功者たち」(8)であったと中島は言う。「彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである」(8)というのがその理由だ。カントの倫理学でテーマとされたものは、犯罪や社会的に悪であると非難されるような行為などではなく、日常においてはびこる、法では咎められず、外形的にはむしろ善いと言われる行為のなかにひそむ悪であったことは確かだろう。このような悪をカントは「根本悪」を呼び、悪ではないがいずれ悪につながる可能性を秘めた動機とした。「根本悪とは卑劣きわまる・血も凍るような・人間業とは思えない極限的悪行のことではない。それは、信用を得るために人を救助するとか、けちと思われたくないから寄付するとか、他人を傷つけたくないために真実を伝えないという些細な行為のうちに巣くっている。それは、我々が(自他の)幸福を求めようとするかぎり、必然的に陥る罠なのであり、あらゆる行為の「根っこ」なのである。」(9)ちなみに、中島は「根本悪」を悪よりも質の悪いくらいの悪であるとするが、それはおそらく中島が、社会的には品行方正な人々の為す、社会的には見えない適法的悪によって与えられる害の大きさを、身をもって味わってきたからであると思われる。

根本悪の代表であるとされる自己愛は、すべての人が持っているものであり、持たなければ生きていけない類のものである。しかし、自己愛のみを動機とした行為は、道徳的にだけではなく、一般的にも善くない行為だとされる。そこでカントが主に批判するような人々は、社会のなかで自分の幸福を得るために、なまの自己愛を覆い隠し、たとえば「他人の信頼という永続的利益を得たいのであれば、彼(女)はむしろなりふり構わず目前の利益に手をのばす態度を避けねばならない」(10)といった賢さを磨き上げるのである。「ほとんどすべての他人に対する親切や同情は、「義務から」ではなく「自己愛から」生ずることをカントは実感として知っていたのだろう」(11)と中島は言う。そして、「カントが心から憎んだこと、それは外形的に善い行為(適法行為=義務に適った行為)を実現しながら、心のうちには動機として道徳法則に対する尊敬ではなく自己愛が渦巻いていることである」(12)。根本悪は、悪とは違い、社会的に非難されることはないものである。

 

3.嘘は道徳法則に反する悪だが、我々は人間愛から嘘をつく

そのようにカントが憎んだ、自己愛から生じる適法的ではあるが道徳的に悪い行為の一例として、嘘の問題がある。カントは『人間愛から嘘をつくという誤った権利について』という論文で、常識で考えると衝撃的なたとえを挙げて嘘の悪さを説明する。人殺しが自分の友人を殺そうと追いかけていて、友人が家に匿ってほしいと助けを求めてきたので、匿うとする。その後、その人殺しが友人を探しにやってきて、その友人が家の中にいるかと自分に尋ねた場合でも、嘘をついてはいけないとカントは言うのである。このような状態で、その友人が自分の家の中にいることを告げれば、その人殺しは家の中を探し、友人を見つけて殺してしまうだろう。しかしカントは、友人の命を助けようとして嘘をつくことは、道徳法則に反するという点で悪だと主張する(13)。その理由は、善意の嘘を認めたら、嘘をつくことの奨励ばかりか真実を語ることへの非難へとつながるおそれがあるからである。「カント倫理学においては、愛よりも道徳法則に対する尊敬を最優先すべきなのだ」(14)。

しかし実際のところを振り返ってみると、これは中島も指摘していることではあるが、カントは友人の生命を守るための嘘でも悪だというが、私たちの日常生活の中にはもっと些細な動機から発せられる嘘にあふれている。日常において発せられる嘘に最も多いものは、他人の気持ちを思いやるという名目でつかれる嘘であるだろう。だが、これも実のところは、他人を不愉快にさせることばを発すると自分も不愉快になるので、それを避けるという自己愛に基づく行為なのである。「われわれは、善良であろうとすればするほど、他人を配慮すればするほど、嘘につぐ嘘の毎日を送らざるをえない」(15)という仕組みになっているのだ。しかし、他人の気持ちを思いやってつく嘘というのは、人間関係を円滑にし、社会に排除されないためには不可欠と思われるものである。「出口はないのだ」と中島は言う。「いかにしても、われわれは道徳的に善くはなれないのである。私にはたえず「道徳的に善い行為をせよ!」という命令だけが聞こえる。しかし、私はみずからそれを実現することができない位置にいることも知っている」(16)。人間が生きている最高善と根本悪とに引き裂かれていることは、カントも指摘していることである。

 

4.適法か非適法かという判定は、時代や社会の観念が作り出す

おそらくカントはその倫理学において、道徳的に善い行為をするべきだといっているのではないのだろう。ただ、法に適しているというだけで非難されない行為についての反省を促したかったのではないかと私は思う。自分の幸せを願うのは、誰にとっても許されることだと考えられている。しかし、幸せというものは各人ばらばらの価値観のもとにあるものであり、ある人が自己愛に基づいて欲する行為は適法的であるのに、ある人の自己愛に基づいて欲する行為は適法的ではないということがじゅうぶんにあり得る。そして非適法的行為は非難され、適法行為は推奨される。適法か非適法かという判定は時代や社会の観念によって異なるということを考えると、普遍的に妥当する法則を求める精神からしてみたら、これはどう考えても正しくないことである。やや感情的なことではあるが、中島は自身の子供時代について「みんな、ぼくに向かって「子供らしくなれ!もっと遊べ、もっと明るくなれ!と叫びつづけるだけだった。ぼくは彼らに向かって「もっと孤独になれ!もっと暗くなれ!」とは言わなかった。ただ、「そっとしておいてくれ」と願うだけだった」(17)。しかしそれすら聞き届けられはしなかったという。なぜなら、その「みんな」というのはマジョリティだからだ。彼らは「たまたま、その思考法や心情や感受性が絶対的な多数であるという大枠のなかに入っている」ので「自分の考えを主張するとひとりでに大多数の人々の考えと一致してしまい、自分の幸福感を表明するといつの間にか大多数の人々の幸福感と一致してしまう」(18)。つまり「彼らは自己中心主義を貫くとそれがそのまま「みんな中心主義」へと変貌するという便利な構造のなかに生息している」(19)のであり、マジョリティからそれてしまう思考法や感受性を持ったものを、弾劾したり説得したりすることをはばからないのである。ただし、何がマジョリティとマイノリティを決めているのかは謎だ。

 

5.社会的マジョリティの価値観にもどうか悩みを

嘘についてのカントのあげた極端なたとえも、このようなマジョリティの考え方を批判するものとしてとらえると、その極端さが理解できる気がする。道徳的善を知ってはいても人間は根本悪から逃れられないことを知っていたカントは、けっして友人の命よりも道徳法則を重んじるべきだといっていたのではなく、友人のためなら嘘をつくことを当然とし、そうしない人を「ひどい」と無批判に非難することを咎めようとしていたのではないだろうか。道徳的善を知っていても、そこに到達することの叶わない人間にせめてできることは中島いわく「道徳的であること」、つまり悩み続けることだからである。

ただ、カントは道徳的であるかどうかを性格のようなものとしてとらえていたということを考えると、自分の価値観がみんなの価値観とほぼ重なるように育ってきた人に、突然道徳的になれといってもそれは、中島の指摘するように「われわれがみずから社会の掟に疑いを抱いたときにこそ、社会の掟を破ったときにこそ、いや社会の掟を呪った時にこそ、我々は最高善を全身で「要求する」」(20)のであるから、社会の掟を破らずに適法行為を積み重ねるという自己愛のなかで安穏とする社会的に品行方正な人々が道徳的善を求めることは、何かしら突飛な出来事によってその人の幸福が社会から非適法行為とみなされるようなことでもない限り、ありえないと思われる。とすると、嘘についての問題で、真実性を他者の幸福ひいては自己愛よりも重んじるようにカントが説いたのは、マイノリティに対して、マジョリティが「みんなの幸福」という名で説くマジョリティにとっての快適さを守るための適法性が絶対ではないことをいうためであったかもしれない。マジョリティによって社会的に適法だと期待されることばではなく、真実というと大げさに感じられるが、自分の思うところを正直に述べたほうが善いということだろう。

中島義道を介して見るカントの倫理学は、善と悪のはざまで適法性を都合よく設定し、価値観を強要する社会的マジョリティを問いただすものであると私は解釈した。

 

<引用文献>

  1. 中島義道『悪について』岩波新書、2005年、p.15。
  2. 同上、p.14。
  3. 同上、p.32。
  4. 同上、p.31。
  5. 同上、p.19。
  6. 同上、p.26。
  7. 同上、p.48。
  8. 同上、p.54。
  9. 同上、p.198。
  10. 同上、p.59。
  11. 同上、p.81。
  12. 同上、p.84。
  13. 同上、p.94。
  14. 同上、p.103。
  15. 同上、p.100。
  16. 同上、202。
  17. 中島義道『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ』講談社、2002年、p.159。
  18. 同上、p.147。
  19. 同上、p.148。
  20. 中島義道『悪について』、p.208。

 

 

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

 

 

<参考文献>

  1. 和田秀樹『〈自己愛〉の構造 「他者」を失った若者たち』、講談社選書メチエ、1999年。
  2. ギュンター・アンダース著、岩淵達治訳『われらはみな、アイヒマンの息子』晶文社、2007年。