哲学生の記録。

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【倫理学概論】対話でつくる国際正義

 1.不可欠、だが困難な、国際正義の定立

グローバル化により異なった文化的背景をもつ人間の接触機会が増大したいま、文化横断的な正義や地球的な共存倫理を定立することなしに、他者との良好な関係を維持することは不可能なのである」(1)と、押村高はいう。産業化に押されるように、世界を行き来する人や金や情報の交通は増え、事件が及ぼす影響の範囲も広がった。今や、テロや犯罪組織、エネルギー資源や環境、貧困・飢餓・食料、金融危機の問題など、世界規模で取り組まなければならない問題が多くおこっている。このような国境を越える問題を考えるときには、文化による違いのない正義や地球全体を慮る倫理が必要となるのである。しかし、いくら必要とされても、グローバルなレベルで共通の規範というのは定めるのが非常に困難なものだ。

複雑な国際社会における正義の定立をむずかしいものにしているのは、まずそれぞれの文化が異なる価値観や正義観をもっているということである。「コミュニタリアンと呼ばれる人びとは、善や正しさの観念がその社会に固有のものであり、共通にそれを正しいと信じている人びとの範囲でしか正義の履行は期待できないと考えた」(2)ように、文化による価値観の多様性ゆえに、定めるのが困難どころか、国際社会に共通の正しさはあるのかどうかもわからないという考えもある。しかし、価値観が違うからといってそれが直接文化をまたぐ正義はありえないという結論に至ることはないだろう。世界の三大宗教を比較して共通の正しさを見つけることもできるし、わけもなく人を殺すことを正しいとする文化はないからである。価値観の違いは多々あるにしても、最低限のところに国際社会の平和のために守るべき秩序を求めることはできるだろう。

 

2.文明を横断した「対話」で、国際正義を導き出す

そして、異なる文化をまたいだ正義を探るときに重要になるのが「対話」である。押村は「文明を横断する正義を導くのに、抽象的な推論にも類似性の模索にも限界があることが明らかとなった。それでは、差異に配慮しつつおこなわれる「文明間の対話」にそのような役割を果たすよう期待することはできないか」(3)と考える。いくつかの民族、文化、言語などからなる国家内において、よりよく共存するためのルールやコンセンサスを生み出すさいに異文化対話が実践されていることから、国際社会の正義を導くためにも対話は有効な手段となると推測されるのである。

ただし、これまで異文化対話である国家間での外交の際に論じられるのは各国の利益であって、国際社会全体のあるべき姿へと進む道ではなかった。押村は「伝統的な外交は、第一義的には国益の増進を測る手段とみなされている」(4)という。中西は地球的統治にとって問題となる国家エゴは国際政治の構造そのものに由来するものであり「国家の代表にとって国際会議の現場で自国の利益を守り、伸張することはそれ自身公的な責務である。彼らは人類全体を代表すべきいかなる政治的義務も負っていない。彼らが地球全体の利益も考えて行動することは許されているが、それは自国の利益と一致する範囲内においてであり、自国の利益に反する決定を支持することは彼らにとっては義務違反となるのである」(5)と分析するが、押村はそのような国家エゴは伝統的な外交に特有のものであり、国際正義を論じるときにも欠くことができないものであるとは考えていないのである。「ロールズは正義の「多元性」や「個性」を確保するためにも、社会正義を国境外に適用しないほうが無難だと考える」(6)が、これは国際的な正義に各国の同意を求める行為が「勢力の非対象にもとづく強者、つまり数でいえば開発国、富でいえば先進国による正義の強要をもたらすかもしれないし、それによって、各国の正義あるいは善文化が破壊されるかもしれない」(7)と心配したからである。「国際社会では、自らの意志を他者に押しつけ、また逆に他者から意志を押しつけられないための役割を軍事力は果たしてきた」(8)というのも、自国の利益だけを考えた外交のあり方のひとつだろう。しかし現在において国家が自国のことだけを考えるのは、結果の影響の及ぶ範囲の広さからして隣国や未来に対する無責任であると思われる。経済活動は国境を超え、環境問題において国境などありはしないのである。

では、国際社会の正義を導くための対話とはどのようなものであるか。「理論的に言うと、文明間対話の成否は、代表者がどのようにして自己の立場へのこだわりを脱することができるか、つまり国際公民の自覚を持てるかによって決まる」(9)と押村は言う。つまり自国の利益ではなく、地球全体のことを考えた発言によってなされる対話が、国際正義を導くのである。また「文明内の正義の常識は外界では通用しないという意識を持てば、自己の正義を押しとおすことなく、共通の正義を探し求めるという姿勢を育み、対話による正義の達成という理念に近づく」(10)という押村の見解は、まったくその通りであると私は思う。自国の正義を絶対的なものだと思っていては、ちがう文明を生きる他者の意見を否定することしかできないが、対話というのは自らの意志を押しつけるだけのものではないのだ。自らの正義を相対化する対話を成立されられれば、正義の食い違いがひき起こす紛争はその根拠を失うことになる。

 

3.ひとりの考察には限界があるが、「私」の意見も大切

相対化の効果に加えて、国際正義を導くのが地球全体のことを考えたひとつの理性の思考ではなぜいけないのかということを説明しようとすると、多文化を包括する正義を導くための方法が対話でなければならない理由は、代表者が自分の属さない文化を把握しているとはいえない点から、それぞれが自分の立場を持っているという前提にも求められるだろう。自国の正義を絶対視してはいけないが、それは対話において自分の立場を置き去りにして地球全体のことを考えろということではない。地球全体のことを考えようとしたところで、自分も地球全体に含まれているのである。ひとりの人間はその人の持っている歴史や生きている文化のなかの視点を離れた考察はできないし、またその人が知っている事情を他の人は知らないということは非常に多いのだからこそ、代表者は相対化された文化の一つとして、自国の正義を主張しなければならない。つまり自国の文化の相対化というのは、対話においては必要不可欠な「聞く姿勢」から始まると考えられるが、聞くだけではなく言わなければ対話は成り立たないのである。ただし、これに関してはこれまでの外交が自己主張のぶつかり合いであったことを考えると、わざわざ促されなくても主張はされるものなのかもしれないが、全体の利益を考えることが推奨される場面では、とりわけ力の弱いものが私利を要求しづらくなることもありうると思われるので「私」も「みんな」の一部であることを強調しておきたい。

 

.1985年、ソ連アメリカ首脳会談での対話

正義の対立する異文化間でおこなわれた対話の一例として、1985年に行われたソ連ゴルバチョフ書記長とアメリカのレーガン大統領との首脳会談は非常に示唆的であると思われる。「最初の会談は両首脳のみで行われたが、両者の見解の相違は大きく、議論は激しく対立したという。しかし15分の予定だった会談は一時間を超え、食事をはさんで午後にも続けられた。結局、両者の歩み寄りはなく「対話は尽きた」(ゴルバチョフ)。しかし両者の間には人間としての感情が通い合うようになった」(11)そうだ。ゴルバチョフは会談のあとで対立したままではあったが「それぞれの直観が、分裂に向かってはならぬ、コンタクトを続けなければならぬ、とそっとささやいた。どこか意識の奥底に合意への希望が生まれた」と言っている。中西によると「相互に立場の違いを認識しつつ、相手の立場に立って考えるという「寛容」の精神によって二人は結ばれたのである」(12)。この一時間の対話が意見の違う相手を自分と同じ人間であると認めることになったからといって、それがどのくらい冷戦終結につながったのかは定かではないが、この事実は正義の対立する異文化間における対話の重要性を表している。

代表者による対話という方法には、押村が指摘するように「国家政府や外交団が国民すべてを代表できるわけがなく、しかも、代表が一部部族や階級の利益しか反映していない例も多く見られる」(13)という問題がある。そしてそれは「国際社会で参加者が異文化教育の機会を得ているかどうかは未知数である」(13)という問題とも関係があるだろう。国内であれ国際社会においてであれ、自分の属する集団の正しさに疑いを持ち、自分と違った正しさを持っている人の言い分を理解しようとする態度を代表者が持ち合わせていなかったときにおこるのが、これらの問題だからである。日常生活の小さな範囲のなかでは、自分と違う意見を真っ向から否定しないことは、たいていの人ができることであると思われるので、課題は小さな範囲で実行できていることを舞台が広がっても同じように考えられるかだ。楽観的ではあるが、国内で教育の機会を得ていなかった場合には、国際社会の対話を通してそれを知れば、国の代表者として出てくる人物がその国内で持つ影響力は比較的大きいものであろうことから、正義を導くための対話から国際社会に異文化教育が広まる可能性もある。

 

5.正義の対立から、寄る辺なき正しさの吟味へ

工藤によると、かつての共同体は、私、家族、地域から国家まで同心円的な重なりだったが、いま私たちは多様な共同体の重なりのなかにいるのであり、共同体の主張する道徳的正しさ同士が対立することも起こりうる。そしてそのような状況が、自分で吟味して判断するという自律の精神を要求する(14)。国境をこえた正義を探ることもまた、それぞれの正義が対立する状況を避けては通れず、それは自分にとって当たり前であった正しさを吟味することにつながるだろう。そのような社会は、差別などの他者の不幸を内包した正義を信じさせられる状態よりは啓かれており善いと言えるが、同時に、何もかもが相対的で信じられるものが見当たらない中で判断を迫られ続けるという不安と向き合う覚悟をもたなければならない。「正義」というものは国際社会で論じる前に、個人内であっても定立するのが難しいものであるように、自問自答し続けることで近づこうとすることしかできない性質のものなのかもしれないからである。

 

<引用文献>

  1. 押村高『国際正義の論理』講談社現代新書、2008年、p.12。
  2. 同上、p.183。
  3. 同上、p.195。
  4. 同上、p.201。
  5. 中西寛『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』中公新書、2003年、p.203。
  6. 押村、前掲書、p.176。
  7. 同上、p.175。
  8. 中西、前掲書、p.106。
  9. 押村、前掲書、p.204。
  10. 同上、p.199。
  11. 中西、前掲書、p.274。
  12. 同上、p.275。
  13. 押村、p.201。
  14. 工藤和男、倫理学概論、2009年9月29日。

 

<参考文献>

遠藤誠治、小川有美編『グローバル対話社会 力の秩序を超えて』明石書店、2007年。

 

国際正義の論理 (講談社現代新書)

国際正義の論理 (講談社現代新書)

 
国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)