哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【ゼミ】『方法序説』第二部前半の発表原稿

方法序説 (岩波文庫)

p.20「たくさんの部品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない」ことについて考える。

・完成度(低)

古い壁を生かしながら修復につとめた建物

村落が大都市に発展していった古い町

少しずつ不都合に迫られてつくられた法律

書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけで何の証拠もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを増やしてきたような学問

 

・完成度(高)

一人の建築家が請け負って作りあげた建物

一人の技師が設計した城塞都市

一人の賢明な立法者の定めた基本法

一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然になしうる単純な推論

 

→「われわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なものであることは不可能に近い」(p.22)

 

「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ」

「後になって、ほかのもっとよい見解を改めて取り入れ、前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れる」→このやり方によって、はるかによく自分の生を導いていくことに成功するに違いない。

 

しかし、このやり方をほかの人にも勧めるわけではない。

≪かつて信じて受け入れたことをすべて捨て去る決意をするに適さない二種の精神≫

  1. 自分を実際以上に有能だと信じて性急に自分の判断をくださずにはいられず、自分の思考すべてを秩序だてて導いていくだけの忍耐心を持ち得ない人たち。
  2. 真と偽とを区別する能力が他人より劣っていて、自分たちはその人に教えてもらえると判断するだけの理性と慎ましさがあり、もっとすぐれた意見を自らは探求しないで、むしろ、そうした他人の意見に従うことで満足してしまう人たち。

 

デカルトは2の精神に近かったが、人の考え方は様々で、他の人よりもこの人の意見を採るべきだと思われる人を選び出すことができなかったので、自分で自分を慎重に導いていくことにした。(p.26)

 

疑問点:4つ目の例に関して内省の罠があるのではないか。

P.24の「あの騒々しくて落ち着きのない気質の人」というのは誰か。

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 

【ゼミ】『方法序説』はデカルトの思考方法を示す

方法序説 (岩波文庫)

1.方法序説』は、その考え方によって古典的名著となる

方法序説』は『広辞苑』によると、1637年に刊行されたデカルトの主著であり、「スコラ学をしりぞけ、明晰判明を基準として一切を方法的懐疑に付し、自我の存在を確立し、近世哲学の礎となった」(1)ものである。このように『広辞苑』に収録されていることからもわかるように、デカルトの『方法序説』は古典的名著であるといえる。しかし、では、何がこの著作を後代にまで読み継がれるものと為したのかと考えると、私にはそれが「スコラ学をしりぞけ、自我の存在を確立した近代哲学の礎であるから」という理由にはないように思われる。

フォントネルによれば「デカルト氏以前は人びとは気楽にものを考えていた。この人を持たなかった過去の時代は幸せだったと言わねばなるまい……思うに彼こそは新しい思考の方法をもたらした人であり、この方法は、彼が教える規則そのものに照らしてさえ大部分誤りであるか、あるいは極めて不確実である彼の学問そのものよりも、はるかに大きな価値を持っているのである」(2)。フォントネルがこう述べているのは、デカルトの死後わずか38年にしてのことである。これを受けるようにして田中仁彦は「デカルトの名を不朽たらしめたのは、フォントネルの言うとおり、「大部分誤りである」ような彼の学問そのものではなく、その根底をなす「方法」であった。事実、『方法序説』と言えば、今では「方法」について語られているその本文だけのことであり、彼がこの本文に付した『屈折光学』、『気象学』、『幾何学』は、特殊な関心を持つ人以外からは全く読まれなくなってしまっている」(2)と言う。デカルトの学問というのは、残念ながら死後38年にしてデカルトの後継者を自任するフォントネルに「大部分誤りである」と言われるようなものであったのであり、その学問の誤りを指摘するには今日の科学的知識を詳しくは理解しないものにさえも容易であり、彼の研究内容で今日も読まれるものはないのだった。それでは、デカルトの名を不朽たらしめたものである「方法」とは何かというと、それはデカルト自身の精神の歩みである。「「方法」とは結局、彼のこの精神の歩みが示している具体的な思考の過程に他ならない」(3)のである。

「生きることがすなわち考えることであり、考えることがすなわち生きることであった一つの人生を描き出したことによって、『方法序説』はまさに不朽のものとなったのだ。なぜなら、それが教えてくれるのは彼の考えた結果ではなく、考えることそのことなのだからである。そんなすぐれた人間でもその生きた時代に閉じ込められている以上、その中で考えたこと――思想――はその時代とともに過去のものとなってゆかざるを得ない。だが、一つの歴史的状況を激しく生ききった英雄たちの生涯が時代を超えて感動を与えつづけるがごとく、一つの時代の課題を一身に背負い込み格闘した思考の軌跡は、永遠に考えるとは何かを教えつづけるのである」と田中は言う(4)。『方法序説』は現代においても読まれる価値のあるものであり、現代の人間であってもデカルトから学びうることは大いにある。その理由は、「近代精神の確立を告げ、今日の学問の基本的な準拠枠をなす新しい哲学の根本原理と方法が、ここに示され」(5)ているからではない。むしろなぜこの著作が読み継がれ、近代哲学の礎であると言われるのかを考えてみると、それはデカルトが考えた内容やその結果のためではなく、彼の考えた方法の軌跡、考えることに対する姿勢のためであるとしか思えないのだ。

そして、人間の考えることというのは時代を超えてもさほど変わっていないように思われる。もしかしたら変化しているのかもしれないが、言葉を読み取ることができるということ、先の時代を生きていた人々もおそらくは私たちと同じようなことで悩み、生きていたのだと信じられるので、その意味で人間の思考の方法というのはある程度一定の枠の中から出ることはできないのだと考えられる。そして私はそれを、別に悪い意味や限定されているという風に言いたいのではない。人間の思考の軌跡に一定のくせのようなものがあるのだと仮定すると、たとえば『方法序説』というデカルトという人間の考えたことそのことを著した書物は、それを読む私に、私自身が考えるそのことについての反省を促す反射鏡のような役割を担いうるのである。

 

2.思考の軌跡に示されるデカルトの考える方法

デカルトが探求した方法の規則は、四つある。「第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」「第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」「第三は、わたしの思考を順序に従って導くこと」「最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信すること」(6)である。デカルトが思索の段階で、この自らが打ち立てた規則をすべて厳密に遵守できているかどうかは、おそらくは副次的な問題である。わかっていることでも、実際にできるかどうかというとなかなか難しいことは多いからだ。問題は、デカルトが真理を見出すための方法の規則として挙げる四つが、私から見ても、確かにこれを本当にしっかり守って推論を重ねることができたならば、その思考は誤りのないものとなると思われることである。奇しくも、この四つの規則を挙げたあと、デカルトは「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている」(7)という。人間の認識がある共通した同じやり方でつながっているのかということは、どうにも確かめようのないことではあるが、言葉が通じるということや、他者の言葉に納得するといった経験から、そのような一般的な枠組みがあるのだという可能性を推測することはできる。デカルトの見つけた「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という真理はまさに、では「考える」とは何をすることなのかを考えさせるものだ。私とは何かを考えたとき、「どんな身体もなく、どんな世界も、自分のいるどんな場所もないとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただ私が考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる」(8)。私とは何かと考え、それが考えるものであるという答えが発見され、しかもその私というのは考えることをやめるだけで存在するとは信じられなくなるようなものなのであれば、では考えるとは何であるかという問いが生まれるのは当然のことである。だが、デカルトはすでにその問いに答えている。先に田中が言うように、『方法序説』全体がつまり、デカルトの考えることそのことをそのまま表しているからである。方法序説』は、考えるとは何かに答えを与えようとするのではなく、考えて見せることによって、言外にデカルトという一人の考える人間の姿、すなわちそれがリアルな答えとなるところのものを提示して見せているのである。

デカルトにとって考えることとは、ひとりで道のわからない暗闇を歩くようなものであった。「現代のわれわれから見れば、デカルトは機械論的自然観を打ち立てて近代的学問に道を開いた堂々たる近代の創始者である。だがそれは結果であって、デカルト自身はそのようなことを予想していたわけではない。彼は「明晰と確実」のデーモンに取り憑かれて「暗夜を一人行く人のごとく」さまよった末、かろうじてコギトの真理にめぐり合ったにすぎないのである」(9)と田中は言う。若いころ「一人で闇のなかを行く人間のように、きわめてゆっくり進み、あらゆることに周到な注意を払おう。そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気をつけて転ぶことのないように」(10)と、デカルトは心に決めたそうだ。暗闇の中にいることにも気付かない人もいれば、暗闇の中では立ち尽くしてしまう人もいるし、暗闇の中だろうとおかまいなしに走りぬける人もいる。しかしデカルトは、慎重に進む人だった。しかも転ぶことを恐れながらだ。道徳上の規則としてデカルトが上げる三つの格率は、暗闇の中をそろそろと進む彼の姿をよく表していると思われる。そして、先に挙げたフォントネルの指摘によれば、デカルトの思考の方法は、人々の気楽な幸せを奪うような新しさを持ったものであったが、デカルトの思考がそのような性格を持ったのは、田中のいうところの「明晰と確実」のデーモンのためであろう。この「明晰と確実」のデーモンというのは、真理を求めてしまう狂気のようなものだろう。この狂気がおよその人の心に住んでいると断言することは難しいが、デカルトの狂気によって、たとえそれが小さな断片であろうとも自己の内の狂気をまざまざと見せつけられるとしたら、気楽な幸せのなかに浸っていることができなくなるのは必至である。

小林はデカルト哲学の体系の現代的意義として「デカルトは、みずから、新たな認識論と形而上学を設定し、そのうえに、現代につながる諸科学を創設した。しかも、諸科学を創設したうえで、その射程と限界を認識し、それとは異質なものとして具体的な人間論と道徳論を展開した」(6)ことをあげる。しかし、私が思うデカルトの偉大なところは、諸科学を創設し、人間論や道徳論をも展開したというところにはなく、そのような諸科学の創設の仕方や、人間論・道徳論の展開の仕方を開示した点にある。自分の考えたことを人に教える人はいても、自分がものを考える考え方を人に教える人は、そうそういないからである。経済の分野でも、科学技術や工業技術で特許をとった先進国は、その技術を発展途上国にも広めることはするが、技術開発の方法までも発展途上国に広めることはせず、よって利益の格差は存続しつづけるのだという説がある。このことは、言われてみればもっともなことであり、国の発展における教育の重要性を思うばかりだ。教育において重要だと言われるのは、知識をたくさん詰め込むことではなく、知識を自分のものにする方法を身につけさせることである。デカルトが彼自身の思考の軌跡を示して見せたという点において『方法序説』の貴重さは見出される。

 

<引用文献>

(1)『広辞苑 第五版』岩波書店

(2)田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢』岩波書店、1989年、p.xi。

(3)同上、p.xii。

(4)同上、p.xiv。

(5)デカルト著、谷川多佳子訳『方法序説岩波文庫、1997年。

(6)小林道夫編『哲学の歴史 第五巻 デカルト革命』中央公論新社、2007年、p.266。

(7)デカルト著、前掲書、p.29。

(8)同上、p.47。

(9)田中仁彦、前掲書、p.331。

(10)デカルト著、前掲書、p.27。

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 

 

大学のレポートをブログにまとめることについて

どうなんでしょうか。

大学のレポートをブログにまとめることって。

著作権は本人にあるので問題はないそうです。

そもそも書いているのが学生時代の本人なのですから、稚拙な表現、怪しい読解、偏った主張なども見られます。

しかしまぁ、ネット上の情報だって十分に玉石混合。

引用元や参考文献をしっかり書き連ねている点では、学生のレポートの信憑性だって、いち意見としてはネット上に転がしておいても何の問題もないものなのでしょう。

むしろ、そういった意味では、いち意見としてブログにまとめて公表しておくことにもメリットはあるかもしれません。

レポートってどうやって書いたらいいの?と困惑する学生なりたての方なんかには参考になったりするかしら?

でも、学部によって、先生によって、授業によって、指定されるテーマも様々だし、今思えば書く学生によっても書き方なんて自分で決めちゃいなさいなという感じだった。(少なくとも私の通った学科では)

今時は、レポートのコピペを検出するツールなんかもあるそうで?

そしてまぁ、思い返せばくそまじめな学生だった私からすると、自分の意見を考えることを学ぶために学費まで出してんのに、ネット上で拾ったわけのわからん他人の文章をそのままコピペって提出する人なんておるんかいな、と。

参考までに一読、ってのならわかるけど。

誰かの参考になったり、自分の文章が誰かの役に立ったりすることあるかなぁ。

そうやって読んでもらえるなら何にしろとても嬉しいのだけど。

 

でも、今の私にとって、学生時代のレポートをブログにまとめることは、心理的に大きな意味を感じる。

読み返して、タイトルをつけて、他人から見られる状態にしておくこと。

こんなこと書いてたのかぁ。

難しい本読んでたのねぇ。

主張を通したくて解釈曲げてないかなぁ。

あ、誤字発見。

今だったらこんなこと書けないなぁ。

けっこう良いこと書いてるなぁ。

わかる!この表現すてき!

…と、いろんなことを感じながら、データを開いたり、コピーしたり、書体を揃えたり、カテゴリーつけたり、公開したりしています。

何より思うのが、若気の至りも多いにしても、学生時代の自分ってかなり良くやってたんじゃない!?と。

私も捨てたもんじゃないな、と自信につながるような気がします。

同時に、今の自分の不甲斐なさに悔しさも感じるのですが。

 

いつか、私が死んだとしても、ブログはサービスが終了しない限りネットのどこかに浮かんでいる。

そこにある、ということに意味がある。

パソコン捨てたときにデータを保存し直したかどうか覚えていなくて、USBにほんの少し残されたデータを見て、他は失くしたかと一時は思いました。

でも、外付けHDにバッチリ移されていたのを見つけたときの嬉しさ。

フォルダ名「ドキュメント」がわかりづらくて見つけづらかったけれど、中にはバッチリ、年ごと、講義ごとにフォルダ名・ファイル名がしっかり付けられて残っていました。

さっすが真面目で几帳面!昔の私!

 

かつての自分を評価したい。

これから、まだ何かできると信じたくて。

それが、今さら私が大学のレポートをブログにまとめることの意味なのだと思います。

 

思ったより時間かけてしまってめんどくさいけれど。

時間かかってしまうのは、全部読み直しているからだから。

今は2年生まで終わったところで、3・4年生の自分が書いたレポートは、さらに読み解くのに時間がかかるややこしい文章が多い。

それに、3年生の途中でゼミの教授が亡くなられており、それに派生した少々辛いことがあったのも思い出される。

将来も不安で、どうしたらいいのかわからなくて、でも講義を聞いたり、レポートを書くのは割と好きだったりした。

もしもあの時に戻れたら、なんて思ってしまうのは耕野裕子さんの少女漫画を年末年始に読みあさったせいもあるかも…。

戻れませんからね、けっして、それはもう。

戻りたいことばかりでもないし。

だから、いいのです。

今は、今の私にできることをする。

できることの中で、したいことをする!

それでいいのだと思っています。

【社会倫理学】「人間」の動機 -シュトラウス・コジェーヴ論争からー

1.クセノフォンの『ヒエロン』をめぐって

名誉と労働の概念を手掛かりとして、シュトラウスコジェーヴの争点を検討する。

レオ・シュトラウスは、クセノフォンの『ヒエロン』という対話篇を非常に独創的に解釈してみせることによって、現代にも通じる道徳的かつ政治的問題を明らかにした。これを受けてコジェーヴは、「僭主政治と知恵」でシュトラウスを批判する。ちなみにクセノフォンの『ヒエロン』は、僭主政治をおこなうことの利益と不利益をめぐって僭主ヒエロンと賢人シモニデスが議論をくり広げる対話篇である。

 

2.人間の究極の動機は名誉であるか

コジェーヴは「シモニデスはヒエロンに、人間の最高の目的と究極の動機は名誉であるが、名誉についていえば、僭主はほかの誰よりも恵まれているのだから、僭主政治に不満を抱くのは無益なことだ、と説明している」(1)という箇所を問題として取り上げる。ここで「シモニデスは、完全に自覚的に、「異教徒的」ないし「貴族的」でさえあるような実存的態度をとっている」(2)。シモニデスは「名誉とは何か偉大なものであり、そして人間たちは、それを求めながら、あらゆる困難に耐えしのび、あらゆる危険を冒します」というが、これはたんに人間は名誉を動機とするのだという意味ではなく、むしろ名誉こそをその動機として生きる者だけが人間であると考えられていたことを示している。「本当の男は、このように名誉を求めるという点において、他の動物と異なっている」とまでシモニデスは述べており、この言葉から、これは歴史的な社会通念であるのかもしれないが、女性は人間ではなく動物として扱われていたということが明らかであるし、男性は男性でも動物と変わらない「本当ではない男」もいたのだろうということが窺われる。このようなシモニデスの考え方はコジェーヴによると、のちにヘーゲルが≪主人≫の態度と呼ぶことになるものである。一方、栄誉の追求を動機としないのは「奴隷」的本性であり、女性や本当の男性ではない≪奴隷≫は、シモニデスの言うところの「人間」ではないのである。

 

3.労働それ自体の喜びは動機になるか

コジェーヴはこの主張に対して、「わたくしは、「名誉をえたいという欲望」と「名誉から生じる喜び」というそれだけの理由で、人は「あらゆる労働に耐え、あらゆる危険に立ち向かう」とシモニデスに同調して語るのは誤りであろうと思う」と批判する(3)。コジェーヴの考えでは、労働それ自体から生じる喜び、そしてある企てに成功したいという欲望は、それだけで、骨の折れる危険にみちた労働を引き受ける動機となるのである。そして、このような動機に即して仕事に励むことは「労働者」の心情と呼ばれる。仕事の遂行自体を動機とする道徳においては、名誉や栄誉などの追求は入りこまないのである。しかし、人間のあいだに競争が登場すると「名誉をえたいという欲望」や「名誉」から生じる喜びがうごめきはじめ、決定的なものになるという事実は確かにあるので忘れてはいけないということは、コジェーヴの強調するところである。

 

4.人間は最高の人類類型ではないか

以上のコジェーヴの論について、シュトラウスは「クセノフォン『ヒエロン』についての再説」でこれを簡潔に要約してみせたうえで、コジェーヴの『ヒエロン』読解には見過ごされている点があるといって反駁する。それは「クセノフォンによれば、したがってまたクセノフォンの描くシモニデスによれば、人間はけっして最高の人類類型ではない」(4)という点である。シモニデスにとっては≪主人≫を意味する人間存在は、めざされるべき人間類型だとは考えられていないとシュトラウスは『ヒエロン』を読み解く。クセノフォンあるいはシモニデスにとっての最高の人間類型は、賢人なのである。そして名誉を得ることをその目的や動機とする≪主人≫がそうあるべき姿として描かれてはいないのであれば、名誉を動機とするありかたはクセノフォンの説くところではない。よって「クセノフォンあるいはかれが描くシモニデスは、名誉が最高の善であるとは考えなかった、あるいは≪主人≫の道徳を受け入れなかったのであり、だからこそ、≪奴隷≫ないし≪労働者≫の道徳からとられた要素によって、自分たちの教えを補完しなければならない明白な必要性など、ないのである」(5)と言われる。

 

5.「高貴」で「有徳」な労働とは何か

「最も高度な種類の仕事、あるいは真に人間的であるような唯一の仕事は、高貴な活動ないし有徳な活動である、あるいは高貴な労働ないし有徳な労働である」(6)というシュトラウスの見解に同意することはできる。しかしここで問題となるのは「高貴」で「有徳」である労働とは、いかなるものなのかということである。コジェーヴは、名誉を追究することを動機とするのではなく、ひとりでいる子供や孤独な絵描きが自分の企てをうまく遂行することから得る快楽を引き合いに出して、労働それ自体の遂行が喜びとなるようなありかたを説いたが、シュトラウスはこれに対して「自分の企てをうまく遂行して快楽を得ている孤独な金庫破り」というのもありえるだろうということを想定し、その動機さえ純粋であれば何をしても高貴な仕事になるわけではないことを示した。

 

6.なるべく働かないのが最高か

シュトラウスは「最終国家の人間は、コジェーヴがはっきりとマルクスの名をあげて指摘しているように、できるだけ働かないであろう」(7)という。名誉を動機とした労働はもちろんのこと、労働すること自体を喜びとする労働の道徳性すらも怪しいことが判明したところで、なるべく働かないというのが最終国家の人間の姿として構想されるのである。必要がなければなるべく働かない人間の姿は、賢人を理想とするクセノフォンの考え方とも通じるところがあるだろうが、人間は何のために働くのかという問いがここから提起される重要な問いである。そしてこれに答えるには、働くとは何をすることなのかを考えることから始めなければならないと思われる。

 

(引用文献)

1、レオ・シュトラウス著、石崎嘉彦・飯島昇蔵・金田耕一他訳

  『僭主政治について 下』現代思想新社、2007年、p.18。

2、同上。

3、同上、p.19。

4、同上、p.108。

5、同上、p.109。

6、同上、p.110。

7、同上、p.143。

 

僭主政治について〈上〉

僭主政治について〈上〉

 
僭主政治について〈下〉

僭主政治について〈下〉

 

 

【社会倫理学】注意深い古典読解の意義

1.読書の精神

このレポートでは、注意深い古典読解の意義について述べたいと思うが、古典読解の前に、まず読書とは何であるかを考えてみたい。

読書とは、字の如くすれば、本を読むことである。三木清は、「もし読書の精神ということがいえるなら、読書の精神は対話の精神である」(1)という。ここでいう精神というのはつまり、その純粋な形、本質的な在り方という意味で三木は使用しており、読書の本質的なあり方は対話の本質的な在り方だということである。そして「対話の精神はまた哲学の精神であるということができる」(1)。対話と哲学の本質的な在り方である、そのような精神とは何であるかというと、それは「決して終わることのない探究である」(1)。プラトンの著作にみられるソクラテス的対話が代表する対話の本質が、終わることのない探究にあることは確かである。哲学は、問いを持つことから始まる。問いを持ったら、それと同時にその答えを求め始めるのが問いを持つということである。しかし、世の中には決して答えがないことが問いを持った瞬間から直観されるような問いもある。そして哲学的問いだと称される問いは、概してこの類のものである。これはまさに、哲学の本質が決して終わることのない探究であるということだ。問いを抱き、自分なりの答えを探し出し、その答えにもまた問いを投げかけるという吟味は連綿と続けようとすれば続くものである。哲学的であること、哲学するということは、答えのない問いを抱え込んで手放さないこと、答えのない問いを探し出すことですらあるのかもしれないと私は思う。

読書の精神もまた、このような決して終わることのない探究であると三木は言う。

「我々は何よりも著者の言葉を聞き、その意味を理解するために読書するのである。けれども、ただ単に彼の言葉を聞いているのみではその意味を真に理解することができないであろう。我々は問を掛けねばならぬ。この問が勝手なものでない限り、我々が著者に問を掛けることは著者が我々に問を掛けていることである。かように我々に問を掛けてくる本が善い本なのである」(2)。善い本においては、著者はそれを記しながら自問自答し、また我々にも問いを投げかけながらそれに答えるということをしており、我々はそれを読む時に、本に問掛けられその答えを探すうちに著者に問掛け、著者はそれに答えを与えるが我々はそれについて考えざるをえなくなるような、そういう構造を読書は持つようになるのである。善い本の読解という作業は、著作とのコミュニケーションであるということができる。

 

2.古典の読解

古典と言われるものは、古くから読み継がれてきたものであり。これからも読まれるべきだと考えられる著作のことだ。谷川徹三は「古典というものは時代とともに常に新しい面を露呈することによって、それぞれの時代に新しい意義、新しい問題を提供するもの」(3)であるという。「それが今日まで生き続けて来たということは、何百年、何千年という長い年月の間、それぞれの時代にそれぞれの要求に応じて新しい感受、新しい解釈を許してきたということ」(3)なのである。読むたびに、その時々の自分に応じて、何かと思い当たるふしがあり、新しい発見があるものが古典なのだ。ではなぜ、ある種の本は繰り返し読まれるたびに時代に応じた新しい読まれ方をされ、古典と呼ばれて読み継がれていくのに、そうでない本は時代の流れに押し流されて消えていくのだろうかというと、堀秀彦は「古典が源流であるのは、人間の本質が今も昔も大して変わらぬからだ」(4)という。つまり堀によると、古典というものは、今も昔も変わらぬ人間の本質を描いた著作が、そうして読み継がれているのだということになる。ということは、古典を読む目的は、人間の本質を見るためということなのだろう。世界のただなかで生きながら、自分というものを介してしか世界と触れ合うことのできない人間は、どうしても自分を中心に考えざるをえないのであり、自分というものが関心の大部分を占めることになる。そして自分とは何かというと、類推的にそれは人間なのである。よって、哲学的問いの多くは、最終的に突き詰めてしまえば「自分とは何か」「人間とは何か」というものに集約されることになる。ショウペンハウエルは「古典作家という栄誉ある称号を与えられている古人は、一貫して非常に入念に執筆している」(5)という。時代を超えた普遍性を持った人間の本質を、非常に優れた描き方をしているものが古典であるからにして、それを読むことによって得られるものの重要さは言うまでもないだろう。ただし、思考し、本質を見抜き、それを描きだすだけの才能のある人物が念を入れて描いたものなのだから、漫然とした態度で古典に取り組むとその読解は失敗するに違いない。古典の著者とのコミュニケーションは、相手の才能に敬意を払い、時代や文化の違いから生まれるハードルを見過ごしてつまずかないように気をつけたものであるべきである。

 

 

 

学生と読書 (1954年) (河出新書)

学生と読書 (1954年) (河出新書)

 
現代に生きる古典 (1958年)

現代に生きる古典 (1958年)

 
読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

<引用文献>

  1. 三木清「読書論」『学生と読書』河出書房、1956年、p.42。
  2. 同上、p.46。
  3. 谷川徹三「読書について」前掲書、p.73。
  4. 堀秀彦『現代に生きる古典』春陽堂書店、1958年、p.10。
  5. ショウペンハウエル著、赤坂桃子訳『読書について』PHP、2009年、p.134。

【西洋文化史概説】アウトサイダーのスティグマ ―なぜ彼らは迫害されたのか―

歴史のアウトサイダー

 

0.はじめに

 中世ヨーロッパでは、魔女や異端者として、非合理的に迫害された人たちがいた。しかし彼らが迫害されたのには、当時としては正当だと思われた理由があったのであり、そこにはなんらかの社会的、もしくは民衆心理的な動機があったに違いない。それはどのようなものであったのかということを、これから検討したい。

 

1.アウトサイダーは「正常」という規範に対象化される

 ベルント・レックによると、「アウトサイダーとしての状態は、一定の社会構造との関係においてのみ考えることが可能であり、ある特別な規範と対象化されることによって、その状態は可視化する」(p.4)ものである。これは「マージナル化の前提は、改めて何よりも、社会の「正常なこと」、すなわち支配的な道徳規準という引き立て役によって認識することができる」(p.155)ということからもわかるように、まず一定の社会構造やその構造のなかで「正常」とされる秩序が存在していて初めて、そこから外れたアウトサイダーというものが現れうるということである。それゆえに「近代国家の形成はマージナル化の傾向の強化を意味した」(p.13)といわれるように、支配的に中心となる特定の社会がその構造や秩序を確固たるものとしようとしたときには、同時に周辺に属するアウトサイダーは必然的に弾圧や迫害を受けることになる。「宗教性への強い傾斜と国家形成過程との交錯は、当の周辺集団にとっては不運なことであった」(p.14)というのは、この意味である。

 

2.悲惨な時代の原因とされたアウトサイダー

魔女狩りが最もさかんであったのは16世紀から17世紀にかけてのことだ。この時代には造形芸術や文学でも「空虚」や「死」がテーマとして扱われており、生活の暗さをうかがわせる。社会状況の悪化や気候の悪化が、飢饉や疫病や争いを生んだ。そしてこの時代において周辺に属する人々は悪魔化されたのであるが、それというのも同時代人の目にはアウトサイダーはこの悲惨な状況の産物というよりも、むしろその原因であるとうつったからである。アウトサイダーの重要な機能はこの点にあったとベルント・ルックは指摘する。すなわち「彼らは理解できないことが起こる理由を提供し、大災害や細々としたつらいことが起こる原因の説明を可能にし、そうすることによってこれらの災害をより危険のないものと思わせた」(p.19)のである。この結果として、災害やつらいことの原因とされたアウトサイダーたちには、人びとに不幸をもたらした罰としてしかるべき処置が講ぜられた。魔女は火刑に処せられ、ユダヤ人は追放されたり殺害されたが、その理由はあられまじりの雷雨が続くせいで穀物の収穫が不足であることや、ペストが流行したりすることはすべて彼らのせいだと考えられたからであった。魔女や異端者は悪魔の力を借りてこのような危機的事態をつくりだしているとされたのだ。たしかに、現実に天候を変えるのや、ペストの流行を克服するのに比較したら、アウトサイダーをその原因として罰することは容易なことである。ただし、それによって状況が何かしら改善することはなかったであろうが、人々の行き場のないやるせなさがあった時代に、アウトサイダーの迫害がその捌け口となっていたのだと考えられる。

 

3.キリスト教文明の影響

注目したいのは「すべての災いは、日常生活の辛さと同様大きな災害も含めて、なにより人間の罪に対する神の罰であると理解された」(p.18)ことである。このような考え方はおそらく、キリスト教の信仰から生まれてきたものであるだろう。「罪」や「罰」が意味するのは、その道徳的な性格である。神が人間に罰を下すのは神の意向に沿わない罪深さを人間が持っているからなのだととらえると、つらいことや災害といった罰に立ち向かうための一番重要な方法は、神の御旨にかなった生活を送るように努めることである。「神の国は、その純粋さの点で神である周の罰を恐れてはならない。それゆえ、人々は可能な限り汚点となるものや、神の怒りを誘発する可能性のあるものをすべて、市民の団体や臣民の集団から排除しようと努めた。それは文字どおり火と剣でもっておこなわれることがあり、しばしば大災害や疫病や飢饉の体験に対する直接的な反応としておこなわれた」(p.18)。

では、神の純粋さにたいして、汚点となるものや、神の怒りを誘発する可能性のあるものと考えられていたものとは、いったい何だったのだろうか。神に抗するものとしてキリスト教で考えられてきたものは「悪魔」である。そして悪魔と結託しているという容疑は社会の周辺に位置するか、その可能性のある人々にしばしばかけられてきたものだった。具体的に容疑をかけられていた対象としては「たとえば、老人や孤独なひとり者、とくに身体に障害のあるものである。ひげのある女性、斜視で顔にしわがあり眉毛の濃い女性は特に危険にさらされた。ある通俗的な手引書は、「手や、足や、目や、その他の身体の一部を欠いている人びとをだれであれ警戒するように、さらにまた身体障害者ととくにひげのない男性を用心するように」すすめていた」(p.72)と言われる。ここで明らかになることは、悪魔と結託しているかどうかがその可視的な身体的特徴によって判断しうると考えられていたということである。「病気や身体に障害のあることは、近世にあっては、たんに身体に関わるだけの生物学的な問題ではなかった。病気は少なくとも神の罰ではないかと、つねに疑われた」(p.73)というのが、この時代の病人や身体障害者に対する考え方であった。彼らは、何か神の罰を受けるような罪を犯しているがゆえに、そのような完全ではない身体を持っているのだとされた。「醜いもの、不完全なものを悪と同一視することは、粗雑な論理では、人文主義の芸術論にときおり見受けられるような、完全なものを善きもの、神的なものとする見解と相補的な関係にあった」と言われる。「奇形はこの観点からすると、悪の活動の結果であると推測された。つまり奇形は、神学者たちの学説にもかかわらず肯定的な原則と否定的な原則の二元主義によって構造的なまとまりを与えられているとしばしば考えられた世界において、神の領分をおかそうとする悪魔が活動している結果である、と推測されたのである」(p.74)。ただし、ここで使われる「美しい」とか「醜い」もしくは「美しくない」という言葉は、かなり社会的な規定がされているという点に留意が必要である。悪魔と結託しているという容疑をかけられた人々の容姿の特徴は、たとえば「女性の顔はひげがなくしわがなく眉が薄くあるべきである」という限定された理想像をもとに主張されていることがわかる。このように、特定の文化が推奨した男性としての理想像や女性としてのあるべき容姿が、アウトサイダーの弾圧内容からは明らかになるのである。ここでは、若く、完全な身体が神の御旨に沿うものとして想定されているが、それはヨーロッパのキリスト教文明の流れをくむものであると考えられる。

 

4.アウトサイダースティグマ

そして、特定されたアウトサイダーたちはスティグマを付与されることになる。まずスティグマには「表象、立場、属性の分配であり、とりわけ単純化と一般化を伴った特別なステレオタイプ化」としての意味があり、この意味では特定の人々や集団に通例この種の人々に認められるとされる否定的な特性でもってレッテルが貼られることになる。ステレオタイプ化の代表的なものとしては「ユダヤ人はけちだ」「老女は意地悪い」「ジプシーは盗みを働く」といったものがある。1517年にハンス・フォン・ゲルスドルフという外科医によって著された『軍医のための外科教本』にみられる「ハンセン病者は、怒りっぽく、けちで、無常である」「彼らは貪欲で、みだらな傾向がある。また、眠りが浅く、その時、「ぞっとする恐るべき事柄」に苦しめられる。さらに原因となる悪徳として暴飲暴食が加わる」(p.80)という記述もステレオタイプ化のひとつであり、病気が悪徳のために起こると考えられていたことの証拠でもある。

また、アウトサイダーの文字どおりの可視化として、実際に目につくしるしをつけることで峻別を可能にすることが近世ではよくおこなわれた。例としては「刑法でよくある犯罪者への焼き印がそうであり、むちで打ったり頭髪を刈るといった類のあらゆる不名誉な刑がそうである。また乞食や、ユダヤ人、売春婦、刑吏に、そうであるとはっきり分かるように特別な目印をつけさせたり、衣服を着せることもある。そう言った目印に関しては、ユダヤ人帽から板金製の貧民のしるしに至るまで、あるいは娼婦の赤い帽子から刑吏の斑の服にいたるまで、資料が多くの具体例を伝えている」(p.6)。このようにアウトサイダーたちをぱっと見ただけでそうとわかるようにしるしをつけておくことには、彼らと近づき出会うといった危険を避けることを可能にするという機能があるとともに、ハルトゥングによって中世後期と近世のヨーロッパ社会に見られる「社会的威信を外見によって表わそうとする強い衝動」との関連が指摘されている。それは、社会秩序のヒエラルヒーをイメージとして創出することがこの時代には問題とされていたことによって、現代とは異なって「見かけ上の外観ははるかに高い程度において物事の本質を表わしていたし、現実の特質を明らかにしていた」ということである。支配的な中心文化が思い描いていた秩序づけられた社会のイメージに沿うように、アウトサイダーの外見は操作されていたのである。

アウトサイダーたちは、キリスト教的世界観を中心とした社会のなかで、どうしようもない天災を神の罰として理由づけるために、贖罪の山羊としていけにえにされた集団であったと言える。そして彼らがその容姿によって選別されたり可視的なスティグマを付与されたのは、その社会が外見の表わすものを意味があるとして重視していたからに他ならない。

 

<参考文献>

ベルント・ルック著、中谷博幸・山中淑江訳『歴史のアウトサイダー昭和堂、2001年。

※本文中()内は引用ページ数。

 

歴史のアウトサイダー

歴史のアウトサイダー

 

 

【西洋文化史概説】ミシェル・フーコー『狂気の歴史』の概要と書評

狂気の歴史―古典主義時代における

≪選択テーマ≫

文化史の発展、あるいはそれに貢献した諸研究の書評。

 

≪書名≫

ミシェル・フーコー著、田村俶訳、『狂気の歴史―古典主義時代における』新潮社、1975年。

 

≪概要と構成≫

1.『狂気の歴史』とは何か

『狂気の歴史』の主張とフーコーがこれを著した動機は、冒頭のパスカルからの引用が、もっとも端的によく表していると思われる。「人間が狂気じみているのは必然であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう」とパスカルは言う。狂気というのは、とらえ方次第ではすべての人間が該当するものであり、一般の人から区別されるような狂人というのは人間が歴史的につくった概念なのだ。

『狂気の歴史』は、ミシェル・フーコーの初期の著作であり、もともとは博士論文として書かれた研究であった。フーコーが狂気に関心を抱いたきっかけとしては、フーコー自身が青年期に直面していた精神的混乱や鬱などの要因と、1950年代半ばにパリのサン‐タンヌ病院の精神科で心理学研究を行っていたという経験に影響されていたと考えられている。特に、フーコー自身も証言しているように、実際に目の当たりにした監禁という現実は、彼に強い衝撃を与えたのであった。そこでは、監禁する側も監禁される側も、それがあたかも当然のことであるかのように過ごしていた。しかし、この行為は極めて異常な事態であり、「監禁」という実践や「狂気」という精神病理上の対象は、ある歴史的な産物にすぎないのではないだろうかとフーコーは考えた。とすれば、現在の精神病院の姿はその結果である。このような「理性」の側に身を置く医師と「狂気」の側に置かれた患者の間の線引きは、いつごろから、どのような歴史的背景を持って成立したのだろうか。歴史をさかのぼって具体的事例を比較検討し、これを考察した研究の結果が『狂気の歴史』なのである。

 

2.<一般施療院>が象徴する社会的感受性

副題に「古典主義時代における」とあるように、フーコー古典主義時代に注目する。それは、この時代が「狂気と理性のやりとりが言語活動を変化させる、しかも根本的に変化させる時期をまさしく包括している」(p.13)からである。狂気の歴史におけるこの変質を特徴づける事件として、1657年の<一般施療院>の創設と貧民の大規模な監禁、および1794年のビセトール収容施設に鎖で繋がれている人々の釈放という出来事に、フーコーは注目した。特異で対照的なこの二つの事件によって、現在に至るまでの西欧世界における狂気の扱われ方の変遷を、歴史的に考察したのである。

では、<一般施療院>が創設される以前には、狂気はどのように考えられ、扱われていたのかというと14世紀から16世紀にかけての西洋は、ルネサンス期である。フーコーによれば、この時代には、狂気は無秩序のあかしではあるが、それゆえ文化を担う積極的な原動力でもあった。狂気は理性のおこなう仕事の、過酷だが本質な契機であると考えられていたのだ。狂人たちは今よりもはるかに社会に溶け込み、受け入れられていた。

ところが、1656年パリに<一般施療院>という施設が設立される頃になると、狂人たちを取り囲む社会的環境は一変し、彼らは閉じ込められることになる。「そこでは、事物や人間に取り囲まれて、狂気は、真と空想の目印を混ぜかえす徴表であり、大いなる悲劇的な威嚇の思い出をほとんど残していない」(p.59)のである。阿呆船は、もはや見られなくなる。古典主義時代は狂人を船で輸送することはなく、<施療院>という広大な監禁施設に閉じ込めた。この施設は、失業解消と物価の取り締まりという役割を期待されてつくられた制度であったので、狂人はここで労働に従事することもあったが、この目的は失敗に終わった。

フーコーがここで指摘するのは、時代の社会的感受性の変化である。この感受性は、その時代に特有なものであるので、古典主義時代の感受性はわれわれにとっては区別されないが、古典主義時代の人間には明確に識別される知覚のようなものである。つまり、この時代の人間は、狂人とそうでない人を見分け、狂人を監禁していたわけだが、狂気とみなされた一群にどのような特徴があったのかというと、時代を超えた我々にはそれは識別できない違いなのだ。

では、<一般施療院>が象徴するこの感受性の変化というのがどのようなものであったのかというと「文芸復興までは、狂気に対する感受性は、想像上のさまざまの超越的なものの現存と関係があったけれども、古典主義時代よりのちには、しかも初めて狂気は、怠惰にたいする倫理上の非難を通して。また労働中心の共同体によって守られている社会に内在する性格のなかで知覚されるようになる」(p.90)。中世において、狂気はある種の神聖なものとして扱われていた。狂人の悲惨さは、別世界からやってきたものとしてもてなされていた。しかし、狂人を閉じ込める古典主義時代は、労働中心の共同体によって守られている社会なのであり、そこでの狂気は貧乏と無為とみなされ、狂人を貧乏人、あわれな人、放浪者などのこの世界の悲惨な人の仲間としてしまうのである。

 

3.非理性的なものを排除する社会

このような感受性の変化は、哲学におけるデカルトの理性の考え方にも表れていると考えられる。デカルトの少し以前のモンテーニュは、自分が夢を見ているのではないか、あるいは自分が気違いなのではないかという問いには確信を持って答えることはできないとしたが、デカルトは、理性的主体が狂気のうちにあるということはそもそも可能ではないとした。狂人たりえない不可能さは思考する主体の本質であり、人は、自分が狂人であると思考によって規定することはできないのである。これはまさに、自己を理性的存在として考えることであり、主体の概念のなかから狂気を排除したという点で、街のなかから狂人を隔離した古典主義時代の人々の主体観を象徴しているといえるだろう。この感受性においは、自らを理性の側に置き、ある一線を画し、狂気を選択、追放することによって、理性による狂気の支配が行われた。

イギリスやドイツにおいても、「感化院」と呼ばれる同様の施設の強化・再編成がおこなわれ、18世紀末にはヨーロッパ中で監禁が実践される。監禁施設は、古典主義時代に固有の独特な感受性を表す空間であると考えられる。つまり、非理性を一つの社会空間に閉じ込めようとした感受性である。

狂気だけでなく、妖術、魔術、占い、錬金術なども裁かれ社会から排除されたが、その裁かれる理由というのは、以前考えられていたように恐ろしい魔力を持っているからではなく、狂気の場合と同じく、非理性的であるからという理由になった。この「非理性的であるかどうか」というのがどのように判断されていたかというと、社会規範に対するある種の距離によってであった。阿呆船に乗り込まされる狂人は、普遍的な形式における悪についての意識に基づいて指名されていて、抽象的な人間類型に分けることができたが、監禁される狂人は、社会的一領域にある具体的な人間だった。非理性的な実在というのは、確かに偶発的には病気または犯罪に達する場合もあるが、元来はそのどちらにも属していないのであり、つまり彼らは、ただその可能性があるというだけの理由で社会から疎外されたのだ。

 

≪評論≫

狂気というのは、ある意味すべての人間が該当するものである。理性と狂気が相反するものであるというまさにその理由から、二項の対立は双極が存在するのが不可欠の条件であるので、理性がある以上狂気が考えられなければならないのである。一般の人から区別されるような狂人というのは人間が歴史的につくった概念なのだということであり、フーコーの分析を見ると、狂気という概念はまったくといっていいほど、歴史的には恣意的に捉えられてきたように見える。

『狂気の歴史』が、さもそれが当然であるかのように、狂人を監獄に閉じ込めるというふうに非人間的に扱うことがおこなわれている事態に疑問を抱いたことに端を発する研究であったことを思えば、結果としてこの研究によって「狂人」の概念の枠組みが固定的であるかのように扱う神話を揺らがせることには十分成功していると言えるだろう。

恐ろしいのは、「狂人」という枠組みに入れた人々を社会から排除する、社会を構成する普通の人々の無意識さである。フーコーは「正常人というのは一つの創作物」(p.152)であると言っている。狂気のとらえられ方が歴史によって変化してきたことから見るに、正常人というのも歴史的恣意性を持った概念であることは疑われないだろう。しかし、狂気に近づいた理性が「正常」という概念に疑問を抱かざるを得ないのと同じくらい確かに、自分が「正常」だと信じて疑わない人々は「正常とは何か」などとは決して考えないように思われる。古典主義時代に監禁される対象となった「非理性」は、社会規範からの距離によって判定されていたというが、社会規範というのがつまるところ、非常に歴史的恣意性に流されやすいものなのである。

『狂気の歴史』は、理論的にもしっかりしていて、歴史的に流れを順に追いながら具体的事例を豊富に挙げて、はっきりとテーマのわかる問題が検討されている。具体的事例は証拠として非常に参考になるが、これを抽象的な理論とフーコーがどのように結びつけて展開しているのかを読み解くのはなかなか難しいことである。しかし、この問題は現代にもじゅうぶんに結びつくものだ。狂気は、現代の心理学では心の異常さや問題行動として定義されているが、では問題行動とは何かと問うと、これはその特徴として見られやすいものをいくつかあげることでしか答えられないのであり、やはりそこには流動性が問題として残る。心理学では事例性といって、たとえばひとりのクライエントが異常な行動をしたとされる場合、まずはそのクライエントの行動を異常と判断したのはいつ、どこで、誰によってであり、どのような状況であったのかが吟味される。クライエントの行動を異常と判断した者のほうが、精神科医から客観的にみた場合には異常な価値観にとらわれているとみなされる場合もあるからである。しかしここでも下される判断に精神科医の個人的な主観が全く反映されないと言えば嘘になるので、正常か異常かという判断は原理的には不可能とも思われる。

善い本というのは、それを読んだ人に、読んだ人自身に関連のある問題を思い起こさせ、それについて真剣に考えることを迫る本であると、私は考えている。この本は、社会規範の歴史的恣意性の問題を、狂気と監禁という古典主義時代に実際になされていた事実への考察から証明するものであった。そこから私が考えなければならないと感じたのは、たとえば自分や誰かの考えることや行動がおかしい、もしくは以上であると私が思ったときに、それをそう考える私の思考の枠組みのなかに、現代日本の「社会的常識」という怪しげなものがどれほど入り込んでいるのかということである。正常か異常かという問題に間違いのない答えがありえなかったとしても、その文化的恣意性を自覚しているかどうかというのは何よりも大事なことだと思う。

 

 

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における