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【社会倫理学】「人間」の動機 -シュトラウス・コジェーヴ論争からー

1.クセノフォンの『ヒエロン』をめぐって

名誉と労働の概念を手掛かりとして、シュトラウスコジェーヴの争点を検討する。

レオ・シュトラウスは、クセノフォンの『ヒエロン』という対話篇を非常に独創的に解釈してみせることによって、現代にも通じる道徳的かつ政治的問題を明らかにした。これを受けてコジェーヴは、「僭主政治と知恵」でシュトラウスを批判する。ちなみにクセノフォンの『ヒエロン』は、僭主政治をおこなうことの利益と不利益をめぐって僭主ヒエロンと賢人シモニデスが議論をくり広げる対話篇である。

 

2.人間の究極の動機は名誉であるか

コジェーヴは「シモニデスはヒエロンに、人間の最高の目的と究極の動機は名誉であるが、名誉についていえば、僭主はほかの誰よりも恵まれているのだから、僭主政治に不満を抱くのは無益なことだ、と説明している」(1)という箇所を問題として取り上げる。ここで「シモニデスは、完全に自覚的に、「異教徒的」ないし「貴族的」でさえあるような実存的態度をとっている」(2)。シモニデスは「名誉とは何か偉大なものであり、そして人間たちは、それを求めながら、あらゆる困難に耐えしのび、あらゆる危険を冒します」というが、これはたんに人間は名誉を動機とするのだという意味ではなく、むしろ名誉こそをその動機として生きる者だけが人間であると考えられていたことを示している。「本当の男は、このように名誉を求めるという点において、他の動物と異なっている」とまでシモニデスは述べており、この言葉から、これは歴史的な社会通念であるのかもしれないが、女性は人間ではなく動物として扱われていたということが明らかであるし、男性は男性でも動物と変わらない「本当ではない男」もいたのだろうということが窺われる。このようなシモニデスの考え方はコジェーヴによると、のちにヘーゲルが≪主人≫の態度と呼ぶことになるものである。一方、栄誉の追求を動機としないのは「奴隷」的本性であり、女性や本当の男性ではない≪奴隷≫は、シモニデスの言うところの「人間」ではないのである。

 

3.労働それ自体の喜びは動機になるか

コジェーヴはこの主張に対して、「わたくしは、「名誉をえたいという欲望」と「名誉から生じる喜び」というそれだけの理由で、人は「あらゆる労働に耐え、あらゆる危険に立ち向かう」とシモニデスに同調して語るのは誤りであろうと思う」と批判する(3)。コジェーヴの考えでは、労働それ自体から生じる喜び、そしてある企てに成功したいという欲望は、それだけで、骨の折れる危険にみちた労働を引き受ける動機となるのである。そして、このような動機に即して仕事に励むことは「労働者」の心情と呼ばれる。仕事の遂行自体を動機とする道徳においては、名誉や栄誉などの追求は入りこまないのである。しかし、人間のあいだに競争が登場すると「名誉をえたいという欲望」や「名誉」から生じる喜びがうごめきはじめ、決定的なものになるという事実は確かにあるので忘れてはいけないということは、コジェーヴの強調するところである。

 

4.人間は最高の人類類型ではないか

以上のコジェーヴの論について、シュトラウスは「クセノフォン『ヒエロン』についての再説」でこれを簡潔に要約してみせたうえで、コジェーヴの『ヒエロン』読解には見過ごされている点があるといって反駁する。それは「クセノフォンによれば、したがってまたクセノフォンの描くシモニデスによれば、人間はけっして最高の人類類型ではない」(4)という点である。シモニデスにとっては≪主人≫を意味する人間存在は、めざされるべき人間類型だとは考えられていないとシュトラウスは『ヒエロン』を読み解く。クセノフォンあるいはシモニデスにとっての最高の人間類型は、賢人なのである。そして名誉を得ることをその目的や動機とする≪主人≫がそうあるべき姿として描かれてはいないのであれば、名誉を動機とするありかたはクセノフォンの説くところではない。よって「クセノフォンあるいはかれが描くシモニデスは、名誉が最高の善であるとは考えなかった、あるいは≪主人≫の道徳を受け入れなかったのであり、だからこそ、≪奴隷≫ないし≪労働者≫の道徳からとられた要素によって、自分たちの教えを補完しなければならない明白な必要性など、ないのである」(5)と言われる。

 

5.「高貴」で「有徳」な労働とは何か

「最も高度な種類の仕事、あるいは真に人間的であるような唯一の仕事は、高貴な活動ないし有徳な活動である、あるいは高貴な労働ないし有徳な労働である」(6)というシュトラウスの見解に同意することはできる。しかしここで問題となるのは「高貴」で「有徳」である労働とは、いかなるものなのかということである。コジェーヴは、名誉を追究することを動機とするのではなく、ひとりでいる子供や孤独な絵描きが自分の企てをうまく遂行することから得る快楽を引き合いに出して、労働それ自体の遂行が喜びとなるようなありかたを説いたが、シュトラウスはこれに対して「自分の企てをうまく遂行して快楽を得ている孤独な金庫破り」というのもありえるだろうということを想定し、その動機さえ純粋であれば何をしても高貴な仕事になるわけではないことを示した。

 

6.なるべく働かないのが最高か

シュトラウスは「最終国家の人間は、コジェーヴがはっきりとマルクスの名をあげて指摘しているように、できるだけ働かないであろう」(7)という。名誉を動機とした労働はもちろんのこと、労働すること自体を喜びとする労働の道徳性すらも怪しいことが判明したところで、なるべく働かないというのが最終国家の人間の姿として構想されるのである。必要がなければなるべく働かない人間の姿は、賢人を理想とするクセノフォンの考え方とも通じるところがあるだろうが、人間は何のために働くのかという問いがここから提起される重要な問いである。そしてこれに答えるには、働くとは何をすることなのかを考えることから始めなければならないと思われる。

 

(引用文献)

1、レオ・シュトラウス著、石崎嘉彦・飯島昇蔵・金田耕一他訳

  『僭主政治について 下』現代思想新社、2007年、p.18。

2、同上。

3、同上、p.19。

4、同上、p.108。

5、同上、p.109。

6、同上、p.110。

7、同上、p.143。

 

僭主政治について〈上〉

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僭主政治について〈下〉

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