哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

大学のレポートをブログにまとめることについて

どうなんでしょうか。

大学のレポートをブログにまとめることって。

著作権は本人にあるので問題はないそうです。

そもそも書いているのが学生時代の本人なのですから、稚拙な表現、怪しい読解、偏った主張なども見られます。

しかしまぁ、ネット上の情報だって十分に玉石混合。

引用元や参考文献をしっかり書き連ねている点では、学生のレポートの信憑性だって、いち意見としてはネット上に転がしておいても何の問題もないものなのでしょう。

むしろ、そういった意味では、いち意見としてブログにまとめて公表しておくことにもメリットはあるかもしれません。

レポートってどうやって書いたらいいの?と困惑する学生なりたての方なんかには参考になったりするかしら?

でも、学部によって、先生によって、授業によって、指定されるテーマも様々だし、今思えば書く学生によっても書き方なんて自分で決めちゃいなさいなという感じだった。(少なくとも私の通った学科では)

今時は、レポートのコピペを検出するツールなんかもあるそうで?

そしてまぁ、思い返せばくそまじめな学生だった私からすると、自分の意見を考えることを学ぶために学費まで出してんのに、ネット上で拾ったわけのわからん他人の文章をそのままコピペって提出する人なんておるんかいな、と。

参考までに一読、ってのならわかるけど。

誰かの参考になったり、自分の文章が誰かの役に立ったりすることあるかなぁ。

そうやって読んでもらえるなら何にしろとても嬉しいのだけど。

 

でも、今の私にとって、学生時代のレポートをブログにまとめることは、心理的に大きな意味を感じる。

読み返して、タイトルをつけて、他人から見られる状態にしておくこと。

こんなこと書いてたのかぁ。

難しい本読んでたのねぇ。

主張を通したくて解釈曲げてないかなぁ。

あ、誤字発見。

今だったらこんなこと書けないなぁ。

けっこう良いこと書いてるなぁ。

わかる!この表現すてき!

…と、いろんなことを感じながら、データを開いたり、コピーしたり、書体を揃えたり、カテゴリーつけたり、公開したりしています。

何より思うのが、若気の至りも多いにしても、学生時代の自分ってかなり良くやってたんじゃない!?と。

私も捨てたもんじゃないな、と自信につながるような気がします。

同時に、今の自分の不甲斐なさに悔しさも感じるのですが。

 

いつか、私が死んだとしても、ブログはサービスが終了しない限りネットのどこかに浮かんでいる。

そこにある、ということに意味がある。

パソコン捨てたときにデータを保存し直したかどうか覚えていなくて、USBにほんの少し残されたデータを見て、他は失くしたかと一時は思いました。

でも、外付けHDにバッチリ移されていたのを見つけたときの嬉しさ。

フォルダ名「ドキュメント」がわかりづらくて見つけづらかったけれど、中にはバッチリ、年ごと、講義ごとにフォルダ名・ファイル名がしっかり付けられて残っていました。

さっすが真面目で几帳面!昔の私!

 

かつての自分を評価したい。

これから、まだ何かできると信じたくて。

それが、今さら私が大学のレポートをブログにまとめることの意味なのだと思います。

 

思ったより時間かけてしまってめんどくさいけれど。

時間かかってしまうのは、全部読み直しているからだから。

今は2年生まで終わったところで、3・4年生の自分が書いたレポートは、さらに読み解くのに時間がかかるややこしい文章が多い。

それに、3年生の途中でゼミの教授が亡くなられており、それに派生した少々辛いことがあったのも思い出される。

将来も不安で、どうしたらいいのかわからなくて、でも講義を聞いたり、レポートを書くのは割と好きだったりした。

もしもあの時に戻れたら、なんて思ってしまうのは耕野裕子さんの少女漫画を年末年始に読みあさったせいもあるかも…。

戻れませんからね、けっして、それはもう。

戻りたいことばかりでもないし。

だから、いいのです。

今は、今の私にできることをする。

できることの中で、したいことをする!

それでいいのだと思っています。