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【社会倫理学】注意深い古典読解の意義

1.読書の精神

このレポートでは、注意深い古典読解の意義について述べたいと思うが、古典読解の前に、まず読書とは何であるかを考えてみたい。

読書とは、字の如くすれば、本を読むことである。三木清は、「もし読書の精神ということがいえるなら、読書の精神は対話の精神である」(1)という。ここでいう精神というのはつまり、その純粋な形、本質的な在り方という意味で三木は使用しており、読書の本質的なあり方は対話の本質的な在り方だということである。そして「対話の精神はまた哲学の精神であるということができる」(1)。対話と哲学の本質的な在り方である、そのような精神とは何であるかというと、それは「決して終わることのない探究である」(1)。プラトンの著作にみられるソクラテス的対話が代表する対話の本質が、終わることのない探究にあることは確かである。哲学は、問いを持つことから始まる。問いを持ったら、それと同時にその答えを求め始めるのが問いを持つということである。しかし、世の中には決して答えがないことが問いを持った瞬間から直観されるような問いもある。そして哲学的問いだと称される問いは、概してこの類のものである。これはまさに、哲学の本質が決して終わることのない探究であるということだ。問いを抱き、自分なりの答えを探し出し、その答えにもまた問いを投げかけるという吟味は連綿と続けようとすれば続くものである。哲学的であること、哲学するということは、答えのない問いを抱え込んで手放さないこと、答えのない問いを探し出すことですらあるのかもしれないと私は思う。

読書の精神もまた、このような決して終わることのない探究であると三木は言う。

「我々は何よりも著者の言葉を聞き、その意味を理解するために読書するのである。けれども、ただ単に彼の言葉を聞いているのみではその意味を真に理解することができないであろう。我々は問を掛けねばならぬ。この問が勝手なものでない限り、我々が著者に問を掛けることは著者が我々に問を掛けていることである。かように我々に問を掛けてくる本が善い本なのである」(2)。善い本においては、著者はそれを記しながら自問自答し、また我々にも問いを投げかけながらそれに答えるということをしており、我々はそれを読む時に、本に問掛けられその答えを探すうちに著者に問掛け、著者はそれに答えを与えるが我々はそれについて考えざるをえなくなるような、そういう構造を読書は持つようになるのである。善い本の読解という作業は、著作とのコミュニケーションであるということができる。

 

2.古典の読解

古典と言われるものは、古くから読み継がれてきたものであり。これからも読まれるべきだと考えられる著作のことだ。谷川徹三は「古典というものは時代とともに常に新しい面を露呈することによって、それぞれの時代に新しい意義、新しい問題を提供するもの」(3)であるという。「それが今日まで生き続けて来たということは、何百年、何千年という長い年月の間、それぞれの時代にそれぞれの要求に応じて新しい感受、新しい解釈を許してきたということ」(3)なのである。読むたびに、その時々の自分に応じて、何かと思い当たるふしがあり、新しい発見があるものが古典なのだ。ではなぜ、ある種の本は繰り返し読まれるたびに時代に応じた新しい読まれ方をされ、古典と呼ばれて読み継がれていくのに、そうでない本は時代の流れに押し流されて消えていくのだろうかというと、堀秀彦は「古典が源流であるのは、人間の本質が今も昔も大して変わらぬからだ」(4)という。つまり堀によると、古典というものは、今も昔も変わらぬ人間の本質を描いた著作が、そうして読み継がれているのだということになる。ということは、古典を読む目的は、人間の本質を見るためということなのだろう。世界のただなかで生きながら、自分というものを介してしか世界と触れ合うことのできない人間は、どうしても自分を中心に考えざるをえないのであり、自分というものが関心の大部分を占めることになる。そして自分とは何かというと、類推的にそれは人間なのである。よって、哲学的問いの多くは、最終的に突き詰めてしまえば「自分とは何か」「人間とは何か」というものに集約されることになる。ショウペンハウエルは「古典作家という栄誉ある称号を与えられている古人は、一貫して非常に入念に執筆している」(5)という。時代を超えた普遍性を持った人間の本質を、非常に優れた描き方をしているものが古典であるからにして、それを読むことによって得られるものの重要さは言うまでもないだろう。ただし、思考し、本質を見抜き、それを描きだすだけの才能のある人物が念を入れて描いたものなのだから、漫然とした態度で古典に取り組むとその読解は失敗するに違いない。古典の著者とのコミュニケーションは、相手の才能に敬意を払い、時代や文化の違いから生まれるハードルを見過ごしてつまずかないように気をつけたものであるべきである。

 

 

<引用文献>

  1. 三木清「読書論」『学生と読書』河出書房、1956年、p.42。
  2. 同上、p.46。
  3. 谷川徹三「読書について」前掲書、p.73。
  4. 堀秀彦『現代に生きる古典』春陽堂書店、1958年、p.10。
  5. ショウペンハウエル著、赤坂桃子訳『読書について』PHP、2009年、p.134。