哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【西洋倫理学史】カントとニーチェの到達点(普遍的な善の存在)

 

カントは、感性でとらえられる世界と英知によってとらえられる世界、もしくは現象の世界と仮想の世界の二つの世界があるのだとして世界を区別した二世界論をその認識論の主な軸とした。そして、そのような二世界論を人間にも当てはめることによって、カントはその倫理学を展開する。

カントの二世界論を人間に当てはめると、人間は感性的に行動する存在者としての側面と、理性的に行動する存在者としての側面の二つを持っていることになる。そして、感性的に行動する存在者としての人間は欲望を目指し、理性的に行動する存在者としての人間は善を目指す。

欲望は個々人の利益、または快楽を求めようとする心の動きであり、感性的に行動する存在者としての人間がこれに従うならば、結果としてその人の周りにいるほかの人が、その人が自分の利益・快楽だけを追い求めたために、害を被ることになる可能性や、不愉快な思いをする可能性が十分に考えられる。

だからカントは、個々人が欲望ではなく善にしたがうことこそが、すべてまるく収まる秘訣であると考えた。善とは何かというと、カントはこれを道徳法則と呼び、自律的に道徳法則にしたがうことを、善をなすことであるというのだが、早い話が、小学校の頃などに先生からよく聞かされた「人にされて嫌なことは自分もしてはいけません」という文句にその意味は集約されている。道徳法則の普遍性の方式では「汝の意志の格律が同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」と言われるが、これはまさに自分が人にしてもらいたいと思うように、自分も人に対して行動しなさいという意味であり、先に述べた「人にされて嫌なことは自分もしてはいけません」という文句の裏の意味そのものである。また、目的自体の方式といわれる「汝自身の人格および他の全ての人の人格に例外なく存するところの人間性を、単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」という方式を見ても、この方式の中には、あなたはあなた自身がほかの人から人間として思いやられることなく、ただ単なる手段として利用されることを好ましいとは思わないでしょう、という前提が含まれている。もちろん、そんな風に扱われることを好ましく思う人はいないだろうし、だからあなたもほかの人を単なる手段として扱うことはせずに、ほかの人もあなたと同じ人間なのだということをいつも肝に銘じておきなさい、ということだ。

そして「理性的存在者としての人間が自己立法した普遍的法則に従って成立する、理性的存在者の体系的統合としての「国」では、各々の成員が等しく道徳法則に従って諸目的を規定するため、すべての目的(目的自体としての理性的存在者と、各々の個人的な目的)は、各人の個人的差異や個人的目的が含むさまざまな内容が捨象されて、体系的に結合する」(1)。このように、すべての人が普遍的に道徳法則を守ることによって成立する理想郷としてカントが抱いた「目的の国」のビジョンと、ニーチェをはじめとする生の哲学が持つ、性は単に個人の特殊なせいであるにとどまらず、これを包括するより一般的な生、端的にいえば宇宙的生でもあるとする、生の汎神論的性格とあいだには不思議にも類似性を見ることができる。

「個々の生は、大きな生き生きとした全体の中に自分が溶け込むのを感じ、他のすべての生との一体感を持つ、包括的な生は、我々に全体の中で庇護されているという悦ばしい根本気分をもたらすが、同時に底の知れない神秘的で謎めいたものでもある」(2)というふうに生をとらえることを生の哲学の汎神論的性格という。

カントのいう道徳法則を守るためには、個々人が自分の利益・快楽を追求してはならないと述べた。これはつまり、個々人の利益・快楽を超えたところにある善というものを為すことを喜びとするということだ。「個々の生は、大きな生き生きとした全体の中に自分が溶け込むのを感じ、他のすべての生と一体感を持つ」という記述と、あまりにも似ているのではないだろうか。

この類似性が何とも不思議なのは、ニーチェをはじめとする生の哲学者たちはその根源に、社会的に受け継がれてきた道徳的要求に対する反抗があるからである。外的な強制力を持った道徳的規範は、個々人における生の自由な発展を妨げ、生を弱体化させる制約であるとみなされた。

とりわけニーチェは、キリスト教に基づく西洋の伝統的価値観を痛烈に批判している。しかもその批判は、キリスト教が二世界論であるところを突いて行われる。ニーチェは、「ゴシック的現世否定の観念において示されるように、キリスト教は肉体を軽蔑し、大地から身をそむけて天空の内に真理を求めてきた。そこでは虚構された彼岸が真の世界とみなされ、我々が生きている現実の世界がかえって仮象の世界とされる。しかし、真の世界としての彼岸は、本当のところは無に他ならず、この無が神として崇められているにすぎない。無を神と化し、無への意思に基づいて無意味に生きることこそ、キリスト教にとって意味ある生き方なのである」(3)と言って、キリスト教を批判する。

つまり、キリスト教は現実の世界を楽しく生き生きと生きることのできない人たちによってたてられた宗教であり、そこで神の国として想定される世界は、現実の世界から目をそむけたいと考えているそのような人たちが、われわれが生きている現実の世界のほうが逆に仮象の世界なのだと思うためにあるのだというのである。

このような、キリスト教が現実世界のほかに理想の世界を描いていることに対するニーチェの批判は、カントの世界認識に対しても当てはめられるように思う。カントは、感性的に行動し欲望を満たそうとする存在者としての人間と、理性的に行動し善を為そうとする存在者としての人間を区別して考えるとき、それぞれの存在者としての人間が属するような二つの世界を想定していた。

感性的に行動する存在者としての人間が所属する世界は、主観的な感覚でとらえることのできる現象が普遍的であるような経験のある現象界である。そして、感性によってとらえられた経験があるということはその対象を現象・表象として私たちの心に与えたものがあるはずであり、理性的に行動する存在者としての人間が所属するのは、その対象を現象・表象として私たちの心に与えるものがある世界で、想像することは可能だが直接認識することは不可能な英知の世界である。

英知の世界は直接の認識が不可能であるということと、それに対する現象の世界は主観的な経験であるということ。そして、カントはその倫理学において、英知の世界の住人である理性的に行動する存在者としての人間が為そうとする善こそが、なすべきことであると考えていたこと。この二つを合わせて考えれば、ニーチェキリスト教の二世界論への批判は、カントの倫理学が立てられる土台となった二世界論に対しても十分有効であると思われる。

にもかかわらず、カントとニーチェの思い描く理想の世界は、すべての人間がすべての人間と一体感を持ち、他の人間の子とも自分のことのように思い描いて生きる世界である。基礎となった世界のとらえ方がほとんど正反対と言ってもよいほど真逆を向いているにもかかわらず、最終的に目指すべきだという結論に至った状態は同じようなものとなっている。

カントが、すべての人に普遍的であるような道徳法則は存在するのだと言い切ったことが思い出される。二世界論に基づいてたてられたカントの倫理学と、二世界論を否定することからはじまったニーチェ倫理学が、そのたどり着いた点を同じくすること。私はここに、まさしく普遍的な善の存在を感じる。

 

 

(引用文献)

  1. 川島秀一編『近代倫理思想の世界』晃洋書房、1998年、p.70。
  2. 同上、p.148。
  3. 同上、p.134。