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【西洋近世哲学史】カント『純粋理性批判』におけるカテゴリーの客観的妥当性について

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

1.哲学することと、哲学を研究すること

哲学することは自己探求することであり、対自的に思惟することである。哲学を研究することと哲学することの間には大きな隔たりがある。というのも、哲学することは自らの身をもってそのように生きることだからである。しかし、先の人たちが問題に立ち向かった軌跡を見ることは、自分の探究のための参考になるのである。

 

2.形而上学の確立を課題とする純粋理性批判』の探求方法

カントは、学としての形而上学を確立することを課題として『純粋理性批判』を著した。形而上学はメタ・タ・フィジカの訳語であり、「自然学を超えて」という意味である。神や世界、霊などの、言葉としては存在するが、実験や感覚や経験によってはその存在を確かめることができないものを扱う。

証明においてカントは、普遍妥当性を求めた。普遍妥当性というのは、経験に左右されない先験的認識が持つ特徴である。認識は、一切の経験にかかわりなく成立するア・プリオリ純粋認識と、経験によってのみ可能なア・ポステリオリな経験的認識の二種に分けられ、この二つを区別する目印となるのが、必然性と普遍妥当性である。ア・プリオリな認識はこの二つの特徴を備えており、ア・ポステリオリな認識にはこの特徴は見られない。たとえば数学の定理であるピタゴラスの定理は、それを知らない人にも当てはまることから、普遍妥当性を持つと言える。カントの探究方法は、集めたサンプルから蓋然的な結論を引き出す経験主義的な帰納法の対極に位置づけられる。

また、カントは認識の仕方にも二種類のものを見出し、これらを分析的判断総合的判断と名づけた。分析的判断はただ概念を分析するのであり、我々の概念を拡張することはないが、総合的判断はその概念においてまったく考えられていなかったものや分析によって引き出してくることのできないものを概念に付け加えるものである。経験はその本性上すべて総合的であるが、ア・プリオリな総合判断も物理や数学の分野では認められ、これこそが学としての形而上学を作るとしてカントが探求したものである。

 

3.思想のコペルニクス的転回(認識と対象の逆転、認識しうるのは現象のみである)

純粋理性批判』の中でカントは、思想のコペルニクス的転回を成した。それまでは客観的な対象が主観の認識を規定していると自明のように信じられていたが、そうではなくて認識のほうが対象を規定しているのだと証明してみせたのである。我々が認識しうるのは物自体としての対象ではなく、感性的直観の対象のあらわれとしての現象だけである。ただし、認識が対象を規定すると言っても、対象を思うがままにできるのではなく、認識の仕方によって対象がどう認識されるかが決まるという意味だ。

 

4.感性と悟性

人間の認識には、感性悟性という二つの根幹がある。感性は対象から受容的に表象を受け取る能力であり、悟性はこの対象を考え概念化する能力である。

日常生活の中では、空間・時間は実在するものと考えられる。しかし、空間・時間は感性の純粋形式であり、主観の内部に作られた尺度だ。空間は、外的対象としては経験的実在性を持つし、物が我々の感性の対象である限りにおいては全ての物に適応されるので、感性の性質を考慮しなければ、先験的観念性を持っているといえる。時間も同様であり、経験的実在性を持つが絶対的先験的実在性は持たない。空間・時間は、経験に限定された実在性、すなわち経験的実在性しか持たないのである。

一方、悟性の規則一般に関する学である論理学から、悟性の純粋概念は12のカテゴリーからなるカテゴリー表にあらわされる。カテゴリーはまず分量、性質、関係、様態の4綱目からなる。そしてそれぞれの綱目ごとに、分量は単一性、数多性、総体性に、性質は実在性、否定性、制限性に、関係は付属性と自存性、原因性と依存性、相互性に、様態は可能/不可能、現実的存在/非存在、必然性/偶然性に分けられ、全部で12となる。

 

5.カテゴリーの客観的妥当性は、カテゴリーによって経験が可能になるため

感性の形式としての空間・時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーは、ともにア・プリオリに対象と関係する概念だが、その関係の仕方は異なっている。空間・時間の概念は、対象が感性の純粋形式である空間・時間を介してのみ我々に現れるので、純粋直観であるし、この直観は現象としての対象を可能にするア・プリオリな条件を含むのだから、この直観における総合は客観的妥当性を持つ。

これに対して悟性のカテゴリーは対象が直観に与えられるための条件とは何の関わりもないので、悟性は対象が現象として現れるためのア・プリオリな条件を含んでいない。たとえば、因果関係というのは人間の主観が勝手に現象と現象とを経験的に結びつけ、原因と結果として見ているにすぎないのである。では、思惟の主観的条件はどうして客観的妥当性を持つのかというと、それはカテゴリーによってのみ経験が可能になるということに基づいている。直観によって与えられた現象を対象一般として思惟するためのア・プリオリな概念があるとすれば、このような概念を前提としなければ何も経験の対象とならないので、対象一般に関する概念はア・プリオリな条件として一切の経験的認識の根底にあることになる。よって、経験の対象は必ずカテゴリーによって思惟され、カテゴリーはア・プリオリに経験を可能にする条件なのである。

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 
純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 
純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)