哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【宗教哲学】カント『純粋理性批判』(挑戦の軌跡)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

1.はじめに言い訳(よくわからなかったけど、がんばって解釈してまとめてみたよ)

私は、カントの『純粋理性批判』についてレポートを書く。とはいえ『純粋理性批判』を読んでみてわかったことは、この著作は私の歯がそう簡単に立つような代物ではなかったということだ。初め読み始めて挫折し、『道徳形而上学原論』を先に読んだ。『道徳形而上学原論』は『純粋理性批判』をかなりかみ砕いたような内容だと聞いたからである。結局『純粋理性批判』は、岩波文庫の(上)の途中までしか読めていないが、はじめて読んですらっと意味がとれる類のものではないと思われるので、とりあえず私の解釈をできるだけまとめてみる。

 

2.カント純粋理性批判』(こんな感じで理性と形而上学について書いてあるような気がします)

人間の理性は斥けることも答えることもできない問題に悩まされる運命にある。人間の理性は、経験の経過において必ず使用せねばならず、また経験によってその使用が実証されている原則から出発する。そして、この原則から条件の系列をいつまでも遡っていくがきりがないため、理性は一切の可能的な経験的使用を越えるにもかかわらず常識と一致するようにすら見える原則に逃避する。このような原則は間違っているのではないかと理性は推量するが、この原則は経験の限界を超えているため、もはや経験で吟味することはかなわない。この混迷と矛盾を解決しようとする場が、形而上学と名付けられているものである。

カントはここで、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般を批判する。純粋理性は一つの完全な統一態をなすものだから、もし理性の原理が理性自身の自然的本性によって理性に課せられたあらゆる問題のうちのただ一つだけでも解決するに不十分であるとしたら、我々はかかる原理をかまわずに捨て去って差し支えない。よって、およそ形而上学の課題にして、この批判で解決されなかったものは一つもないはずである。ただしこう言うことを不遜に思わないでほしい。カントは理性そのものと理性の純粋思惟とだけを問題にする、従って理性に関する周到な知識は広く自分の周囲に探し求められることはなく、まったく自分の内に見出されるのである。

また、確実と明晰という認識の形式に関する二つの特性は、純粋理性批判を企てる際に当然課せられる本質的要求である。確実という点では、いやしくもア・プリオリに確立されるほどの認識ならば、絶対に必然と認められることを欲するので、この種の考察において臆見を立てることは許されない。明晰という点では、読者は概念による論証的明晰と実例あるいは具体的説明による直観的明晰を要求する権利を持っている。カントがここにその概念を与えようとしているところの形而上学は、我々自身が純粋理性によって我々に与えたところの一切の所有物を体系的に整頓した完全な財産目録である。

論理学は学としての確実な道を歩んできた。というのも論理学は、認識の一切の対象とその差別とを度外視する権限を持ち、そうすることが義務付けられているからである。だから論理学において悟性が問題とするのは、悟性自身と悟性の形式だけであるが、理性となると理性だけでなくその対象も究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは困難である。

新たに知識を獲得する学はすべて理性を含んでおり、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。そして理性認識には、対象に関係する二つの仕方がある。それは、対象とその概念を規定するだけである理論的認識と、対象を実現する実践的認識である。たとえば数学はその対象をまったく純粋にア・プリオリに規定せねばならない理論認識であり、物理学は少なくとも部分的に対象をア・プリオリに規定せねばならない理論認識である。ところが形而上学となると、これはほかからまったく孤立した思弁的な理性認識である。この形而上学は、今までのところ学としての確実な道が見出されていない。そこでカントは、数学と自然科学が考え方の革新によって学としてなったということから、形而上学においても考え方を革新してみたら学としての確かな道が開けるのではないかと考えた。カントが提示する考え方の転換は、以下のようなものである。われわれはこれまでわれわれの認識はすべて対象にしたがって規定されねばならぬと考えていた。これを、対象がわれわれの認識に従って規定せられねばならぬというふうに想定してみるのである。この想定は、形而上学で要求されているア・プリオリな認識、つまり対象がわれわれに与えられる前に対象について何ごとかを決定するような認識の可能とも一致している。この転換はコペルニクス的転回と呼ばれているものである。感官の対象としての対象である表象はまた、これが対象によっているのかそれとも、対象がこれらの概念に従って規定されるのかという二択がここで現れるが、対象は経験としてのみ認識されるのだから、つまり経験そのものが認識の仕方なのであり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は対象がまだ私に与えられない前に私自身のうちにア・プリオリに前提しなければならず、悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現せられるものであることから、経験の一切の対象がこのような悟性概念に従って規定されるとすると、問題は解決するのである。

形而上学ア・プリオリな概念を論究するものであるが、これらの概念に対応する対象は、経験によってのみ与えられるものなので、可能的経験の限界を超えることこそが形而上学の最も本質的な課題であるにもかかわらず、ア・プリオリな認識能力によってはどうしても可能的経験の限界を超えられないという問題がある。理性認識は物自体をとらえることができない。しかし理性認識は物自体を設定して、条件付のものに条件を与える無条件者を要求する。この無条件者なるものは、我々に認識されうる限りのものには見出せないが、我々の知識の限界外にある物自体には見出されるに違いないと考えることができる。ただし、このような超感覚的な領域において思弁的理性は何もできないので、このような事実が理性の実践的認識にあるかどうかを検討する。

この本の中では、思弁的理性を持って経験の限界を超えることはあえてしないが、それは消極的な理由からではない。自分の限界を超出しようとするときに理性が用いる原理はもともと感性に属するものなので、限界を超えることで理性使用は逆に狭められ、感性の限界を拡張することになる。要するに、思弁的理性から経験を超越して認識するという越権を奪い取ることで、神や自由や不死などを、実践的理性使用のために想定することが可能になるのである。

我々が認識しうるのは、物自体としての対象ではなく、感性的直感の対象としての現象としての物だけであるが、たとえ物自体として認識できないにしても、同じ対象を物自体として考えることはできるということは忘れてはいけない。現象としての客観と物自体として客観の二通りの客観を使い分けることで解消される矛盾がある。

我々の認識はすべて経験をもって始まるが、認識のすべてが経験から生じるわけではなく、我々が感覚的印象によって受け取るものと我々の認識能力が自身から取り出した悟性概念との合成が、認識になるのだろう。認識は、一切の経験にかかわりなく成立するア・プリオリな認識(純粋認識)と、経験によってのみ可能なア・ポステリオリな認識(経験的認識)の二種に分けられる。この二つを区別しうる目印となるのは、必然性と普遍性である。ア・プリオリな認識はこの二つの特徴を備えており、ア・ポステリオリな認識にはこの特徴は見られない。たとえば、因果律のもととなる原因の概念は、習慣からは成り立たず、これは我々の頭の中にア・プリオリに存在する純粋原則の一例である。また、ある対象について持っている経験的概念から、経験によって付与された一切の性質を除き去っても、それによってその対象を実体として考えるところの性質はなくならないので、実体という概念が人間の認識能力のうちに先天的に備わっていることも、認められる。

カントは認識の仕方にも二種類のものを見出し、これらを分析的判断と総合的判断と名づけた。分析的判断はただ概念を分析するのであり、我々の概念を拡張することはない。総合的判断はその概念においてまったく考えられていなかったものや分析によって引き出してくることのできないものを概念に付け加えるものである。経験はその本性上すべて総合的であるが、ア・プリオリな総合判断も認められ、これこそが形而上学を作る。

 

3.まとめの感想(あ〜難しかった!)

私が『純粋理性批判』を読んでつくづく感心したのは、その内容の濃さである。ごく簡単に要点だと思われるところを抜き出しただけで、まだ一章にも入っていないのにレポートの目安文字数を超えてしまったし、読みながらも、なかなか理解できず何度も読み返した後、よくもこんなことを思いつくものだと驚くことが多かった。しかし理解しづらいわりに、言われてみれば全てが確かにそうだと納得できることだった。自分が今までまったく考えたことのない事柄についても納得ができる、これがア・プリオリな認識なのだと実感することができた。この『純粋理性批判』についてのレポートには、ほとんど私の意見は入っていない。というよりも、入れることができなかったというほうが正しいかもしれない。新しいことを多く知ったが、それについての自分の考え方を育てるに至るにはまだまだこれから時間がかかりそうだ。レポートというよりはまとめと感想のようになってしまって申し訳ないが、原書を読むことの困難さを自分なりに味わえたと思う。

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 
純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 
純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)