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【西洋倫理学史】内なる神のための合理論(デカルトとスピノザ)

合理論とは、経験・感覚を超えたものを存在するとみなす能力、すなわち「理性」に、認識の源泉を求める考え方である。私は、デカルトスピノザの二人が経験・感覚を超えたものを存在するとみなす能力「理性」に知識の源泉を求めたのは、そもそも二人が経験・感覚を超えたもの(たとえば神のようなもの)のイメージをあらかじめかなり明確に持っていたからではないかと考える。

「あらかじめ持っていたイメージに振り回されたのではないか」というようなこの言い方は、確実な真理の認識のためにあらゆる知識を疑ってかかり疑わしいものはすべて切り捨てる、という方法的懐疑という仕方で哲学を根本から組み立てなおそうとしたデカルトという人には、ひどく失礼な話かもしれない。しかし私の言い分としては、方法的懐疑によってすべてのものを疑ったとしても疑っている私は確かに存在しているのだという結論を導き出したデカルトが、そうは言っても人間の精神というものは自分の存在を自分で生み出すわけではなく存在することに他のものを必要とする上に、今・この疑っている瞬間の自分の存在に気づくことしかできないという意味で人間に精神は不完全な有限実体であると言ったこと、そしてそんな不完全な精神が自らを不完全だと自覚しうるのは完全で無限な実体のイメージを持っているからだというところから、完全者について考えうる、だから完全者(神)は存在するのだという論理的飛躍を行ってしまったことに、それ以外の説明の仕方はあるだろうか。人間は想像力でもって空想の生き物を生み出すこともできるので、観念をもっているからといってそれが存在するとは限らないと言いたいのではない。私は少し好意的に解釈して、デカルトが神は存在すると断言したことは決して「神」が延長という属性をもった物体として存在するということを意味しないととる。とはいえ、物体の存在証明のところで真にして誠実な神が私たちを騙すわけはないので私たちの知覚する物体は存在しているのだなんて言われると、ちょっとどうか。誠実だとか騙すだとか、少し神を擬人化しすぎているように思う。

スピノザにおいても、「神はすべての個物の原因でありすべての個物は神なしでは存在できない」「神はすべての個物をいかしており神はすべての個物の中に生きている」、すなわち神は自然そのものであるなんて言っているうちはまだ分かる。この人はそういう観念に「神」という名をつけたのだ。だがそれが、神を認識することがイコール努力であるとともに努力を阻害するものでもある欲望という感情を理性によって支配することだという循環論法的な倫理思想へとつながるのは、名前を付けたことによりそのような神というものが確固として存在するかのような錯覚を抱いたためだろう。

デカルトスピノザは神の観念をはっきりと持ちすぎていたために、経験・感覚を超えたものを存在するとみなす能力である「理性」を重視したのだろう。そもそも「神」を証明するために合理論という方法をとったのではないかとさえ思える。