哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【社会倫理学】「人間」の動機 -シュトラウス・コジェーヴ論争からー

1.クセノフォンの『ヒエロン』をめぐって

名誉と労働の概念を手掛かりとして、シュトラウスコジェーヴの争点を検討する。

レオ・シュトラウスは、クセノフォンの『ヒエロン』という対話篇を非常に独創的に解釈してみせることによって、現代にも通じる道徳的かつ政治的問題を明らかにした。これを受けてコジェーヴは、「僭主政治と知恵」でシュトラウスを批判する。ちなみにクセノフォンの『ヒエロン』は、僭主政治をおこなうことの利益と不利益をめぐって僭主ヒエロンと賢人シモニデスが議論をくり広げる対話篇である。

 

2.人間の究極の動機は名誉であるか

コジェーヴは「シモニデスはヒエロンに、人間の最高の目的と究極の動機は名誉であるが、名誉についていえば、僭主はほかの誰よりも恵まれているのだから、僭主政治に不満を抱くのは無益なことだ、と説明している」(1)という箇所を問題として取り上げる。ここで「シモニデスは、完全に自覚的に、「異教徒的」ないし「貴族的」でさえあるような実存的態度をとっている」(2)。シモニデスは「名誉とは何か偉大なものであり、そして人間たちは、それを求めながら、あらゆる困難に耐えしのび、あらゆる危険を冒します」というが、これはたんに人間は名誉を動機とするのだという意味ではなく、むしろ名誉こそをその動機として生きる者だけが人間であると考えられていたことを示している。「本当の男は、このように名誉を求めるという点において、他の動物と異なっている」とまでシモニデスは述べており、この言葉から、これは歴史的な社会通念であるのかもしれないが、女性は人間ではなく動物として扱われていたということが明らかであるし、男性は男性でも動物と変わらない「本当ではない男」もいたのだろうということが窺われる。このようなシモニデスの考え方はコジェーヴによると、のちにヘーゲルが≪主人≫の態度と呼ぶことになるものである。一方、栄誉の追求を動機としないのは「奴隷」的本性であり、女性や本当の男性ではない≪奴隷≫は、シモニデスの言うところの「人間」ではないのである。

 

3.労働それ自体の喜びは動機になるか

コジェーヴはこの主張に対して、「わたくしは、「名誉をえたいという欲望」と「名誉から生じる喜び」というそれだけの理由で、人は「あらゆる労働に耐え、あらゆる危険に立ち向かう」とシモニデスに同調して語るのは誤りであろうと思う」と批判する(3)。コジェーヴの考えでは、労働それ自体から生じる喜び、そしてある企てに成功したいという欲望は、それだけで、骨の折れる危険にみちた労働を引き受ける動機となるのである。そして、このような動機に即して仕事に励むことは「労働者」の心情と呼ばれる。仕事の遂行自体を動機とする道徳においては、名誉や栄誉などの追求は入りこまないのである。しかし、人間のあいだに競争が登場すると「名誉をえたいという欲望」や「名誉」から生じる喜びがうごめきはじめ、決定的なものになるという事実は確かにあるので忘れてはいけないということは、コジェーヴの強調するところである。

 

4.人間は最高の人類類型ではないか

以上のコジェーヴの論について、シュトラウスは「クセノフォン『ヒエロン』についての再説」でこれを簡潔に要約してみせたうえで、コジェーヴの『ヒエロン』読解には見過ごされている点があるといって反駁する。それは「クセノフォンによれば、したがってまたクセノフォンの描くシモニデスによれば、人間はけっして最高の人類類型ではない」(4)という点である。シモニデスにとっては≪主人≫を意味する人間存在は、めざされるべき人間類型だとは考えられていないとシュトラウスは『ヒエロン』を読み解く。クセノフォンあるいはシモニデスにとっての最高の人間類型は、賢人なのである。そして名誉を得ることをその目的や動機とする≪主人≫がそうあるべき姿として描かれてはいないのであれば、名誉を動機とするありかたはクセノフォンの説くところではない。よって「クセノフォンあるいはかれが描くシモニデスは、名誉が最高の善であるとは考えなかった、あるいは≪主人≫の道徳を受け入れなかったのであり、だからこそ、≪奴隷≫ないし≪労働者≫の道徳からとられた要素によって、自分たちの教えを補完しなければならない明白な必要性など、ないのである」(5)と言われる。

 

5.「高貴」で「有徳」な労働とは何か

「最も高度な種類の仕事、あるいは真に人間的であるような唯一の仕事は、高貴な活動ないし有徳な活動である、あるいは高貴な労働ないし有徳な労働である」(6)というシュトラウスの見解に同意することはできる。しかしここで問題となるのは「高貴」で「有徳」である労働とは、いかなるものなのかということである。コジェーヴは、名誉を追究することを動機とするのではなく、ひとりでいる子供や孤独な絵描きが自分の企てをうまく遂行することから得る快楽を引き合いに出して、労働それ自体の遂行が喜びとなるようなありかたを説いたが、シュトラウスはこれに対して「自分の企てをうまく遂行して快楽を得ている孤独な金庫破り」というのもありえるだろうということを想定し、その動機さえ純粋であれば何をしても高貴な仕事になるわけではないことを示した。

 

6.なるべく働かないのが最高か

シュトラウスは「最終国家の人間は、コジェーヴがはっきりとマルクスの名をあげて指摘しているように、できるだけ働かないであろう」(7)という。名誉を動機とした労働はもちろんのこと、労働すること自体を喜びとする労働の道徳性すらも怪しいことが判明したところで、なるべく働かないというのが最終国家の人間の姿として構想されるのである。必要がなければなるべく働かない人間の姿は、賢人を理想とするクセノフォンの考え方とも通じるところがあるだろうが、人間は何のために働くのかという問いがここから提起される重要な問いである。そしてこれに答えるには、働くとは何をすることなのかを考えることから始めなければならないと思われる。

 

(引用文献)

1、レオ・シュトラウス著、石崎嘉彦・飯島昇蔵・金田耕一他訳

  『僭主政治について 下』現代思想新社、2007年、p.18。

2、同上。

3、同上、p.19。

4、同上、p.108。

5、同上、p.109。

6、同上、p.110。

7、同上、p.143。

 

僭主政治について〈上〉

僭主政治について〈上〉

 
僭主政治について〈下〉

僭主政治について〈下〉

 

 

【社会倫理学】注意深い古典読解の意義

1.読書の精神

このレポートでは、注意深い古典読解の意義について述べたいと思うが、古典読解の前に、まず読書とは何であるかを考えてみたい。

読書とは、字の如くすれば、本を読むことである。三木清は、「もし読書の精神ということがいえるなら、読書の精神は対話の精神である」(1)という。ここでいう精神というのはつまり、その純粋な形、本質的な在り方という意味で三木は使用しており、読書の本質的なあり方は対話の本質的な在り方だということである。そして「対話の精神はまた哲学の精神であるということができる」(1)。対話と哲学の本質的な在り方である、そのような精神とは何であるかというと、それは「決して終わることのない探究である」(1)。プラトンの著作にみられるソクラテス的対話が代表する対話の本質が、終わることのない探究にあることは確かである。哲学は、問いを持つことから始まる。問いを持ったら、それと同時にその答えを求め始めるのが問いを持つということである。しかし、世の中には決して答えがないことが問いを持った瞬間から直観されるような問いもある。そして哲学的問いだと称される問いは、概してこの類のものである。これはまさに、哲学の本質が決して終わることのない探究であるということだ。問いを抱き、自分なりの答えを探し出し、その答えにもまた問いを投げかけるという吟味は連綿と続けようとすれば続くものである。哲学的であること、哲学するということは、答えのない問いを抱え込んで手放さないこと、答えのない問いを探し出すことですらあるのかもしれないと私は思う。

読書の精神もまた、このような決して終わることのない探究であると三木は言う。

「我々は何よりも著者の言葉を聞き、その意味を理解するために読書するのである。けれども、ただ単に彼の言葉を聞いているのみではその意味を真に理解することができないであろう。我々は問を掛けねばならぬ。この問が勝手なものでない限り、我々が著者に問を掛けることは著者が我々に問を掛けていることである。かように我々に問を掛けてくる本が善い本なのである」(2)。善い本においては、著者はそれを記しながら自問自答し、また我々にも問いを投げかけながらそれに答えるということをしており、我々はそれを読む時に、本に問掛けられその答えを探すうちに著者に問掛け、著者はそれに答えを与えるが我々はそれについて考えざるをえなくなるような、そういう構造を読書は持つようになるのである。善い本の読解という作業は、著作とのコミュニケーションであるということができる。

 

2.古典の読解

古典と言われるものは、古くから読み継がれてきたものであり。これからも読まれるべきだと考えられる著作のことだ。谷川徹三は「古典というものは時代とともに常に新しい面を露呈することによって、それぞれの時代に新しい意義、新しい問題を提供するもの」(3)であるという。「それが今日まで生き続けて来たということは、何百年、何千年という長い年月の間、それぞれの時代にそれぞれの要求に応じて新しい感受、新しい解釈を許してきたということ」(3)なのである。読むたびに、その時々の自分に応じて、何かと思い当たるふしがあり、新しい発見があるものが古典なのだ。ではなぜ、ある種の本は繰り返し読まれるたびに時代に応じた新しい読まれ方をされ、古典と呼ばれて読み継がれていくのに、そうでない本は時代の流れに押し流されて消えていくのだろうかというと、堀秀彦は「古典が源流であるのは、人間の本質が今も昔も大して変わらぬからだ」(4)という。つまり堀によると、古典というものは、今も昔も変わらぬ人間の本質を描いた著作が、そうして読み継がれているのだということになる。ということは、古典を読む目的は、人間の本質を見るためということなのだろう。世界のただなかで生きながら、自分というものを介してしか世界と触れ合うことのできない人間は、どうしても自分を中心に考えざるをえないのであり、自分というものが関心の大部分を占めることになる。そして自分とは何かというと、類推的にそれは人間なのである。よって、哲学的問いの多くは、最終的に突き詰めてしまえば「自分とは何か」「人間とは何か」というものに集約されることになる。ショウペンハウエルは「古典作家という栄誉ある称号を与えられている古人は、一貫して非常に入念に執筆している」(5)という。時代を超えた普遍性を持った人間の本質を、非常に優れた描き方をしているものが古典であるからにして、それを読むことによって得られるものの重要さは言うまでもないだろう。ただし、思考し、本質を見抜き、それを描きだすだけの才能のある人物が念を入れて描いたものなのだから、漫然とした態度で古典に取り組むとその読解は失敗するに違いない。古典の著者とのコミュニケーションは、相手の才能に敬意を払い、時代や文化の違いから生まれるハードルを見過ごしてつまずかないように気をつけたものであるべきである。

 

 

 

学生と読書 (1954年) (河出新書)

学生と読書 (1954年) (河出新書)

 
現代に生きる古典 (1958年)

現代に生きる古典 (1958年)

 
読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

<引用文献>

  1. 三木清「読書論」『学生と読書』河出書房、1956年、p.42。
  2. 同上、p.46。
  3. 谷川徹三「読書について」前掲書、p.73。
  4. 堀秀彦『現代に生きる古典』春陽堂書店、1958年、p.10。
  5. ショウペンハウエル著、赤坂桃子訳『読書について』PHP、2009年、p.134。

【西洋文化史概説】アウトサイダーのスティグマ ―なぜ彼らは迫害されたのか―

歴史のアウトサイダー

 

0.はじめに

 中世ヨーロッパでは、魔女や異端者として、非合理的に迫害された人たちがいた。しかし彼らが迫害されたのには、当時としては正当だと思われた理由があったのであり、そこにはなんらかの社会的、もしくは民衆心理的な動機があったに違いない。それはどのようなものであったのかということを、これから検討したい。

 

1.アウトサイダーは「正常」という規範に対象化される

 ベルント・レックによると、「アウトサイダーとしての状態は、一定の社会構造との関係においてのみ考えることが可能であり、ある特別な規範と対象化されることによって、その状態は可視化する」(p.4)ものである。これは「マージナル化の前提は、改めて何よりも、社会の「正常なこと」、すなわち支配的な道徳規準という引き立て役によって認識することができる」(p.155)ということからもわかるように、まず一定の社会構造やその構造のなかで「正常」とされる秩序が存在していて初めて、そこから外れたアウトサイダーというものが現れうるということである。それゆえに「近代国家の形成はマージナル化の傾向の強化を意味した」(p.13)といわれるように、支配的に中心となる特定の社会がその構造や秩序を確固たるものとしようとしたときには、同時に周辺に属するアウトサイダーは必然的に弾圧や迫害を受けることになる。「宗教性への強い傾斜と国家形成過程との交錯は、当の周辺集団にとっては不運なことであった」(p.14)というのは、この意味である。

 

2.悲惨な時代の原因とされたアウトサイダー

魔女狩りが最もさかんであったのは16世紀から17世紀にかけてのことだ。この時代には造形芸術や文学でも「空虚」や「死」がテーマとして扱われており、生活の暗さをうかがわせる。社会状況の悪化や気候の悪化が、飢饉や疫病や争いを生んだ。そしてこの時代において周辺に属する人々は悪魔化されたのであるが、それというのも同時代人の目にはアウトサイダーはこの悲惨な状況の産物というよりも、むしろその原因であるとうつったからである。アウトサイダーの重要な機能はこの点にあったとベルント・ルックは指摘する。すなわち「彼らは理解できないことが起こる理由を提供し、大災害や細々としたつらいことが起こる原因の説明を可能にし、そうすることによってこれらの災害をより危険のないものと思わせた」(p.19)のである。この結果として、災害やつらいことの原因とされたアウトサイダーたちには、人びとに不幸をもたらした罰としてしかるべき処置が講ぜられた。魔女は火刑に処せられ、ユダヤ人は追放されたり殺害されたが、その理由はあられまじりの雷雨が続くせいで穀物の収穫が不足であることや、ペストが流行したりすることはすべて彼らのせいだと考えられたからであった。魔女や異端者は悪魔の力を借りてこのような危機的事態をつくりだしているとされたのだ。たしかに、現実に天候を変えるのや、ペストの流行を克服するのに比較したら、アウトサイダーをその原因として罰することは容易なことである。ただし、それによって状況が何かしら改善することはなかったであろうが、人々の行き場のないやるせなさがあった時代に、アウトサイダーの迫害がその捌け口となっていたのだと考えられる。

 

3.キリスト教文明の影響

注目したいのは「すべての災いは、日常生活の辛さと同様大きな災害も含めて、なにより人間の罪に対する神の罰であると理解された」(p.18)ことである。このような考え方はおそらく、キリスト教の信仰から生まれてきたものであるだろう。「罪」や「罰」が意味するのは、その道徳的な性格である。神が人間に罰を下すのは神の意向に沿わない罪深さを人間が持っているからなのだととらえると、つらいことや災害といった罰に立ち向かうための一番重要な方法は、神の御旨にかなった生活を送るように努めることである。「神の国は、その純粋さの点で神である周の罰を恐れてはならない。それゆえ、人々は可能な限り汚点となるものや、神の怒りを誘発する可能性のあるものをすべて、市民の団体や臣民の集団から排除しようと努めた。それは文字どおり火と剣でもっておこなわれることがあり、しばしば大災害や疫病や飢饉の体験に対する直接的な反応としておこなわれた」(p.18)。

では、神の純粋さにたいして、汚点となるものや、神の怒りを誘発する可能性のあるものと考えられていたものとは、いったい何だったのだろうか。神に抗するものとしてキリスト教で考えられてきたものは「悪魔」である。そして悪魔と結託しているという容疑は社会の周辺に位置するか、その可能性のある人々にしばしばかけられてきたものだった。具体的に容疑をかけられていた対象としては「たとえば、老人や孤独なひとり者、とくに身体に障害のあるものである。ひげのある女性、斜視で顔にしわがあり眉毛の濃い女性は特に危険にさらされた。ある通俗的な手引書は、「手や、足や、目や、その他の身体の一部を欠いている人びとをだれであれ警戒するように、さらにまた身体障害者ととくにひげのない男性を用心するように」すすめていた」(p.72)と言われる。ここで明らかになることは、悪魔と結託しているかどうかがその可視的な身体的特徴によって判断しうると考えられていたということである。「病気や身体に障害のあることは、近世にあっては、たんに身体に関わるだけの生物学的な問題ではなかった。病気は少なくとも神の罰ではないかと、つねに疑われた」(p.73)というのが、この時代の病人や身体障害者に対する考え方であった。彼らは、何か神の罰を受けるような罪を犯しているがゆえに、そのような完全ではない身体を持っているのだとされた。「醜いもの、不完全なものを悪と同一視することは、粗雑な論理では、人文主義の芸術論にときおり見受けられるような、完全なものを善きもの、神的なものとする見解と相補的な関係にあった」と言われる。「奇形はこの観点からすると、悪の活動の結果であると推測された。つまり奇形は、神学者たちの学説にもかかわらず肯定的な原則と否定的な原則の二元主義によって構造的なまとまりを与えられているとしばしば考えられた世界において、神の領分をおかそうとする悪魔が活動している結果である、と推測されたのである」(p.74)。ただし、ここで使われる「美しい」とか「醜い」もしくは「美しくない」という言葉は、かなり社会的な規定がされているという点に留意が必要である。悪魔と結託しているという容疑をかけられた人々の容姿の特徴は、たとえば「女性の顔はひげがなくしわがなく眉が薄くあるべきである」という限定された理想像をもとに主張されていることがわかる。このように、特定の文化が推奨した男性としての理想像や女性としてのあるべき容姿が、アウトサイダーの弾圧内容からは明らかになるのである。ここでは、若く、完全な身体が神の御旨に沿うものとして想定されているが、それはヨーロッパのキリスト教文明の流れをくむものであると考えられる。

 

4.アウトサイダースティグマ

そして、特定されたアウトサイダーたちはスティグマを付与されることになる。まずスティグマには「表象、立場、属性の分配であり、とりわけ単純化と一般化を伴った特別なステレオタイプ化」としての意味があり、この意味では特定の人々や集団に通例この種の人々に認められるとされる否定的な特性でもってレッテルが貼られることになる。ステレオタイプ化の代表的なものとしては「ユダヤ人はけちだ」「老女は意地悪い」「ジプシーは盗みを働く」といったものがある。1517年にハンス・フォン・ゲルスドルフという外科医によって著された『軍医のための外科教本』にみられる「ハンセン病者は、怒りっぽく、けちで、無常である」「彼らは貪欲で、みだらな傾向がある。また、眠りが浅く、その時、「ぞっとする恐るべき事柄」に苦しめられる。さらに原因となる悪徳として暴飲暴食が加わる」(p.80)という記述もステレオタイプ化のひとつであり、病気が悪徳のために起こると考えられていたことの証拠でもある。

また、アウトサイダーの文字どおりの可視化として、実際に目につくしるしをつけることで峻別を可能にすることが近世ではよくおこなわれた。例としては「刑法でよくある犯罪者への焼き印がそうであり、むちで打ったり頭髪を刈るといった類のあらゆる不名誉な刑がそうである。また乞食や、ユダヤ人、売春婦、刑吏に、そうであるとはっきり分かるように特別な目印をつけさせたり、衣服を着せることもある。そう言った目印に関しては、ユダヤ人帽から板金製の貧民のしるしに至るまで、あるいは娼婦の赤い帽子から刑吏の斑の服にいたるまで、資料が多くの具体例を伝えている」(p.6)。このようにアウトサイダーたちをぱっと見ただけでそうとわかるようにしるしをつけておくことには、彼らと近づき出会うといった危険を避けることを可能にするという機能があるとともに、ハルトゥングによって中世後期と近世のヨーロッパ社会に見られる「社会的威信を外見によって表わそうとする強い衝動」との関連が指摘されている。それは、社会秩序のヒエラルヒーをイメージとして創出することがこの時代には問題とされていたことによって、現代とは異なって「見かけ上の外観ははるかに高い程度において物事の本質を表わしていたし、現実の特質を明らかにしていた」ということである。支配的な中心文化が思い描いていた秩序づけられた社会のイメージに沿うように、アウトサイダーの外見は操作されていたのである。

アウトサイダーたちは、キリスト教的世界観を中心とした社会のなかで、どうしようもない天災を神の罰として理由づけるために、贖罪の山羊としていけにえにされた集団であったと言える。そして彼らがその容姿によって選別されたり可視的なスティグマを付与されたのは、その社会が外見の表わすものを意味があるとして重視していたからに他ならない。

 

<参考文献>

ベルント・ルック著、中谷博幸・山中淑江訳『歴史のアウトサイダー昭和堂、2001年。

※本文中()内は引用ページ数。

 

歴史のアウトサイダー

歴史のアウトサイダー

 

 

【西洋文化史概説】ミシェル・フーコー『狂気の歴史』の概要と書評

狂気の歴史―古典主義時代における

≪選択テーマ≫

文化史の発展、あるいはそれに貢献した諸研究の書評。

 

≪書名≫

ミシェル・フーコー著、田村俶訳、『狂気の歴史―古典主義時代における』新潮社、1975年。

 

≪概要と構成≫

1.『狂気の歴史』とは何か

『狂気の歴史』の主張とフーコーがこれを著した動機は、冒頭のパスカルからの引用が、もっとも端的によく表していると思われる。「人間が狂気じみているのは必然であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう」とパスカルは言う。狂気というのは、とらえ方次第ではすべての人間が該当するものであり、一般の人から区別されるような狂人というのは人間が歴史的につくった概念なのだ。

『狂気の歴史』は、ミシェル・フーコーの初期の著作であり、もともとは博士論文として書かれた研究であった。フーコーが狂気に関心を抱いたきっかけとしては、フーコー自身が青年期に直面していた精神的混乱や鬱などの要因と、1950年代半ばにパリのサン‐タンヌ病院の精神科で心理学研究を行っていたという経験に影響されていたと考えられている。特に、フーコー自身も証言しているように、実際に目の当たりにした監禁という現実は、彼に強い衝撃を与えたのであった。そこでは、監禁する側も監禁される側も、それがあたかも当然のことであるかのように過ごしていた。しかし、この行為は極めて異常な事態であり、「監禁」という実践や「狂気」という精神病理上の対象は、ある歴史的な産物にすぎないのではないだろうかとフーコーは考えた。とすれば、現在の精神病院の姿はその結果である。このような「理性」の側に身を置く医師と「狂気」の側に置かれた患者の間の線引きは、いつごろから、どのような歴史的背景を持って成立したのだろうか。歴史をさかのぼって具体的事例を比較検討し、これを考察した研究の結果が『狂気の歴史』なのである。

 

2.<一般施療院>が象徴する社会的感受性

副題に「古典主義時代における」とあるように、フーコー古典主義時代に注目する。それは、この時代が「狂気と理性のやりとりが言語活動を変化させる、しかも根本的に変化させる時期をまさしく包括している」(p.13)からである。狂気の歴史におけるこの変質を特徴づける事件として、1657年の<一般施療院>の創設と貧民の大規模な監禁、および1794年のビセトール収容施設に鎖で繋がれている人々の釈放という出来事に、フーコーは注目した。特異で対照的なこの二つの事件によって、現在に至るまでの西欧世界における狂気の扱われ方の変遷を、歴史的に考察したのである。

では、<一般施療院>が創設される以前には、狂気はどのように考えられ、扱われていたのかというと14世紀から16世紀にかけての西洋は、ルネサンス期である。フーコーによれば、この時代には、狂気は無秩序のあかしではあるが、それゆえ文化を担う積極的な原動力でもあった。狂気は理性のおこなう仕事の、過酷だが本質な契機であると考えられていたのだ。狂人たちは今よりもはるかに社会に溶け込み、受け入れられていた。

ところが、1656年パリに<一般施療院>という施設が設立される頃になると、狂人たちを取り囲む社会的環境は一変し、彼らは閉じ込められることになる。「そこでは、事物や人間に取り囲まれて、狂気は、真と空想の目印を混ぜかえす徴表であり、大いなる悲劇的な威嚇の思い出をほとんど残していない」(p.59)のである。阿呆船は、もはや見られなくなる。古典主義時代は狂人を船で輸送することはなく、<施療院>という広大な監禁施設に閉じ込めた。この施設は、失業解消と物価の取り締まりという役割を期待されてつくられた制度であったので、狂人はここで労働に従事することもあったが、この目的は失敗に終わった。

フーコーがここで指摘するのは、時代の社会的感受性の変化である。この感受性は、その時代に特有なものであるので、古典主義時代の感受性はわれわれにとっては区別されないが、古典主義時代の人間には明確に識別される知覚のようなものである。つまり、この時代の人間は、狂人とそうでない人を見分け、狂人を監禁していたわけだが、狂気とみなされた一群にどのような特徴があったのかというと、時代を超えた我々にはそれは識別できない違いなのだ。

では、<一般施療院>が象徴するこの感受性の変化というのがどのようなものであったのかというと「文芸復興までは、狂気に対する感受性は、想像上のさまざまの超越的なものの現存と関係があったけれども、古典主義時代よりのちには、しかも初めて狂気は、怠惰にたいする倫理上の非難を通して。また労働中心の共同体によって守られている社会に内在する性格のなかで知覚されるようになる」(p.90)。中世において、狂気はある種の神聖なものとして扱われていた。狂人の悲惨さは、別世界からやってきたものとしてもてなされていた。しかし、狂人を閉じ込める古典主義時代は、労働中心の共同体によって守られている社会なのであり、そこでの狂気は貧乏と無為とみなされ、狂人を貧乏人、あわれな人、放浪者などのこの世界の悲惨な人の仲間としてしまうのである。

 

3.非理性的なものを排除する社会

このような感受性の変化は、哲学におけるデカルトの理性の考え方にも表れていると考えられる。デカルトの少し以前のモンテーニュは、自分が夢を見ているのではないか、あるいは自分が気違いなのではないかという問いには確信を持って答えることはできないとしたが、デカルトは、理性的主体が狂気のうちにあるということはそもそも可能ではないとした。狂人たりえない不可能さは思考する主体の本質であり、人は、自分が狂人であると思考によって規定することはできないのである。これはまさに、自己を理性的存在として考えることであり、主体の概念のなかから狂気を排除したという点で、街のなかから狂人を隔離した古典主義時代の人々の主体観を象徴しているといえるだろう。この感受性においは、自らを理性の側に置き、ある一線を画し、狂気を選択、追放することによって、理性による狂気の支配が行われた。

イギリスやドイツにおいても、「感化院」と呼ばれる同様の施設の強化・再編成がおこなわれ、18世紀末にはヨーロッパ中で監禁が実践される。監禁施設は、古典主義時代に固有の独特な感受性を表す空間であると考えられる。つまり、非理性を一つの社会空間に閉じ込めようとした感受性である。

狂気だけでなく、妖術、魔術、占い、錬金術なども裁かれ社会から排除されたが、その裁かれる理由というのは、以前考えられていたように恐ろしい魔力を持っているからではなく、狂気の場合と同じく、非理性的であるからという理由になった。この「非理性的であるかどうか」というのがどのように判断されていたかというと、社会規範に対するある種の距離によってであった。阿呆船に乗り込まされる狂人は、普遍的な形式における悪についての意識に基づいて指名されていて、抽象的な人間類型に分けることができたが、監禁される狂人は、社会的一領域にある具体的な人間だった。非理性的な実在というのは、確かに偶発的には病気または犯罪に達する場合もあるが、元来はそのどちらにも属していないのであり、つまり彼らは、ただその可能性があるというだけの理由で社会から疎外されたのだ。

 

≪評論≫

狂気というのは、ある意味すべての人間が該当するものである。理性と狂気が相反するものであるというまさにその理由から、二項の対立は双極が存在するのが不可欠の条件であるので、理性がある以上狂気が考えられなければならないのである。一般の人から区別されるような狂人というのは人間が歴史的につくった概念なのだということであり、フーコーの分析を見ると、狂気という概念はまったくといっていいほど、歴史的には恣意的に捉えられてきたように見える。

『狂気の歴史』が、さもそれが当然であるかのように、狂人を監獄に閉じ込めるというふうに非人間的に扱うことがおこなわれている事態に疑問を抱いたことに端を発する研究であったことを思えば、結果としてこの研究によって「狂人」の概念の枠組みが固定的であるかのように扱う神話を揺らがせることには十分成功していると言えるだろう。

恐ろしいのは、「狂人」という枠組みに入れた人々を社会から排除する、社会を構成する普通の人々の無意識さである。フーコーは「正常人というのは一つの創作物」(p.152)であると言っている。狂気のとらえられ方が歴史によって変化してきたことから見るに、正常人というのも歴史的恣意性を持った概念であることは疑われないだろう。しかし、狂気に近づいた理性が「正常」という概念に疑問を抱かざるを得ないのと同じくらい確かに、自分が「正常」だと信じて疑わない人々は「正常とは何か」などとは決して考えないように思われる。古典主義時代に監禁される対象となった「非理性」は、社会規範からの距離によって判定されていたというが、社会規範というのがつまるところ、非常に歴史的恣意性に流されやすいものなのである。

『狂気の歴史』は、理論的にもしっかりしていて、歴史的に流れを順に追いながら具体的事例を豊富に挙げて、はっきりとテーマのわかる問題が検討されている。具体的事例は証拠として非常に参考になるが、これを抽象的な理論とフーコーがどのように結びつけて展開しているのかを読み解くのはなかなか難しいことである。しかし、この問題は現代にもじゅうぶんに結びつくものだ。狂気は、現代の心理学では心の異常さや問題行動として定義されているが、では問題行動とは何かと問うと、これはその特徴として見られやすいものをいくつかあげることでしか答えられないのであり、やはりそこには流動性が問題として残る。心理学では事例性といって、たとえばひとりのクライエントが異常な行動をしたとされる場合、まずはそのクライエントの行動を異常と判断したのはいつ、どこで、誰によってであり、どのような状況であったのかが吟味される。クライエントの行動を異常と判断した者のほうが、精神科医から客観的にみた場合には異常な価値観にとらわれているとみなされる場合もあるからである。しかしここでも下される判断に精神科医の個人的な主観が全く反映されないと言えば嘘になるので、正常か異常かという判断は原理的には不可能とも思われる。

善い本というのは、それを読んだ人に、読んだ人自身に関連のある問題を思い起こさせ、それについて真剣に考えることを迫る本であると、私は考えている。この本は、社会規範の歴史的恣意性の問題を、狂気と監禁という古典主義時代に実際になされていた事実への考察から証明するものであった。そこから私が考えなければならないと感じたのは、たとえば自分や誰かの考えることや行動がおかしい、もしくは以上であると私が思ったときに、それをそう考える私の思考の枠組みのなかに、現代日本の「社会的常識」という怪しげなものがどれほど入り込んでいるのかということである。正常か異常かという問題に間違いのない答えがありえなかったとしても、その文化的恣意性を自覚しているかどうかというのは何よりも大事なことだと思う。

 

 

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 

【東洋美術史】北宋と南宋の山水画

1.北宋山水画 〜大地を正面から描く〜

北宋南宋山水画を比較すると、北宋山水画には山や大地が主題として描かれていると言える。そしてその特徴は、正面性の強い構図だ。たとえば范寛の「谿山行旅図」では、かなり存在感を持った山が画面の中央に堂々とそびえたっており、上から下までで画面全体の三分の二は占めようというその風貌は、遥かな高みから見る者を圧倒する。中国では、大地の気の流れを「龍脈」と言うそうだが、まさにそのような目に見えない気の流れが大地の底にあるのを描いたのが北宋山水画であり、山は気の噴き出すさまであると考えられる。巨然の「層巌叢樹図」や郭煕の「早春図」もまた、画面の中央に大きく象徴的な形の山を配している。大きく場所をとって描かれるということは、そこに画家が描こうとしているものがあるということに違いない。郭煕の「早春図」では、山は皇帝の権威と繁栄を象徴するように描かれているともとれるが、それもまた見えない力を山に喩えていたのだということができる。寒林平遠と言われる伝李成の「喬松平遠図」では、山は描かれないが、やはり画面の半分以上は荒涼と広がる大地によって占められている。北宋山水画は土からなる地形をテーマとして重視していたのだろう。

 

2.南宋山水画 〜辺角に景を配す〜

一方、南宋山水画で主題とされるのは、大地というよりは空間であるように思われる。南宋院体山水画では、対角線の構図法がよく取られる。これは辺角の景といって画面の隅のほうに景物を置く構図であり、残された余白の多さが目につくようになっている。南宋院体山水画の目指したものは、洗練された形式美と詩的な情趣の追求であると言われるが、その余白には無限の空間が暗示されており、形式的に簡略化された景観や画中の人物は、その空間の向こうへと鑑賞者の想像力を促すものなのである。蕭照の「山腰楼観図」はまさに辺角に景を配した構図をとっている作品だ。この画の中には左下部に置かれた山の下のほうに人物が二名立っており、この二人が右上部の山の向こうに広がる空間を見ながら話をしているようであり、そのうち一人がその方を指差していることで、それを見た者は「向こうに広がる空間には何かがあるに違いない」と思いをめぐらせてしまう仕組みになっている。同じように地平と空間が広がっていたとしても、寒々とした大地の広がりを感じさせた北宋の「喬松平遠図」とは違い、南宋山水画では大地の上で、宇宙までも続くような無限の空間が強調されている。

 

3.形式美の比較

形式美という点では、南宋山水画には山水表現の写実性が薄れるという特徴がある。北宋の終わりから南宋にわたって活躍した画家として李唐がいるが、李唐が北宋後期に描いたとされる「万壡松風図」は、大きな山を中央に配するという北宋の特徴と、斧劈皴という皴法で側筆を用いて斧で削り取られたような岩肌を表しているということで、山の描かれ方が装飾的な形式美を意識しているという南宋の特徴を併せ持っている。李唐が南宋期に描いたとされる「江山小景図」では、同じく斧劈皴を用いて山は描かれているが、その構図は南宋を代表する対角線の構図を用いており、山を辺角に置き、余白が水面として残されている。李唐の後継者といわれ、南宋を代表する山水画家である夏珪の「渓山清遠図」にも斧劈皴が用いられているということで、この岩肌の描き方は南宋山水画を特徴づけるものであるといえる。

また、北宋では画面の上下に天地を合わせる構図で山は見上げられるように配されていたが、南宋ではそのような構図がとられることはなく、やや鳥瞰的で現実から半歩引いたような目線から全体を把握して見ているものと思われる。形式的な表現になった山は、もはや湧きあがる大地からのエネルギ-としてではなく、広がる空間の下を彩る装飾としての役割を担っているのかもしれない。それは北宋山水画のように眼に見えないエネルギーを自然物に象徴させて描くのではなく、目に見えないものは描かないことにして、想像で思い描かせるという手法だったのではないだろうか。

形式美を追求する表現となっているのは山だけではなく、水の表現もまた、形式的な美を追求しているようである。馬遠の「十二水図」では、水面の波の様子がデザイン的な要素を持って十二通りに表現されており、このようなパターン化された水の表現は「江山小景図」においても見られる。

 

4.山水画の中の人為

最後に、山水画において山水の描かれ方のほかに注目すべきは、人間の営みの描かれ方であるだろう。中国人は自然が好きだが、それは手付かずの自然ではなく、人為の入りこんだ自然なのだそうであり、山水画の中にもしばしば人間の暮らす様子が、人物、家、道、橋、船などによって小さいながらも丁寧に描かれている。この人の営みの描かれ方が、北宋では精神性が高かく劇的であったが、南宋では生活感があふれる物語を感じさせるものとなっているように見える。

 

<参考文献>

故宮博物館 第1巻 南北朝北宋の絵画』NHK出版、1997年。

故宮博物館 第2巻 南宋の絵画』NHK出版、1998年。

【東洋美術史】范寛の「谿山行旅図」について

范寛の「谿山行旅図」についてレポートする。この作品は北宋時代のもので、絹本墨画淡彩である。大きさは、縦206.3cm、横103.3cmと、なかなか大きい。

 

1.モチーフ

まずぱっと見て何ともインパクトがあるのが、画面中央に堂々と描かれている重量感のある岩山だ。真中がやや膨らんだ形状の岩山が、画面中央から上部にかけてそそり立っている。もしもこの山の表現に、山を構成するエネルギーを見るなら、このエネルギーはひどく偏屈そうななりをしていて、しかし息のつまりそうなまじめさで迫ってくるものである。左右ほぼ対称の安定感のある山が、画面の中央にあることで、とにかくでんとした重みがある。山に眼はないのだが、どことなく見下ろされているような印象を受ける。この山肌の質感は、雨点皴と呼ばれる、垂直方向の短い筆致で描かれている。豪胆な形状の岩山と繊細な筆致があいまって、山に独特の迫力を与えている。

そして山の上部には、濃い墨で木々の緑が描きこまれている。山頂部に植物が集中するのは、范寛の描く画の特徴の一つであるといわれる。しかし、堂々とした岩山の上部のみに植物が集中して群生しているようすは、どことなくイソギンチャクかモヒカンの人の頭部を思い起こさせ、気味の悪い感じの混ざった山の威圧感のなかに、わずかの滑稽さを醸しだしている。

画面の手前には木の生い茂る低地があり、低地と山の間には池があるのだろうか、ぼんやりと白く霞んでいる。その立ちのぼる霞のような表現は、手前の低地と奥の岩山を断絶するくらいの幅を持っていることから、その池は、大きくて静かで深みのある池だと思われる。池からは、画面下部を右から左へ流れているとみられる渓流へと、水がたんたんと注ぎ込んでいる。渓流のわきの山道には、荷物を背負った4頭ほどのロバと、それを追う人が一人いて、渓流のほうへと向かっている。広大な山の自然の前にあっても、人の営みへもきちんと視線は向けられており、それは丹念に描きこまれているのである。この画上ではあと、低地の岩場に茂った木々の向こう側、画面でいうと右手の隅に屋根をいくばくか覗かせている寺院のような建物が、人の存在を示唆している。

 

2.構図

構図は、近景、中景、遠景をそれぞれ巧みに配置したものになっている。遠景は、画面上部を3分の2ほど独占してかまえる岩山であり、中景は池と渓流に挟まれ、森のように木の生い茂った低地である。そして近景は、渓流のさらに手前に配置された大きな岩である。この岩は、范寛がこの画を描くときに足場としていた地面からの続きで、水の流れる渓谷へと突き出しているのだろう。この近景の岩は、まっすぐに立って、当たり前かもしれないが微動だにしない心持ちで構えている遠景の山とは対照的に、右に、それから左にと曲がり、迷うような表情を見せている。渓流を飛び越える一歩手前で逡巡しているかのようだ。遠景が画面の3分の2ほどを占め、さらに残りの6分の2ほどを中景が占め、そして残りの6分の1ほどが近景であるという構図の比率は、手前から奥へと広がる空間の奥行きと、池の深遠さや山の迫力をとても効果的に見せている。

そして気になるのが、山の右手中腹の岩の割れ目から流れおちる一筋の滝だ。この滝はとても細く、周囲に濃い墨を用いて、白さが際立つようにされている。また、流れおちる途中で二股に分かれている様子から、暗くてせまそうな岩の隙間が、実はそこそこの奥行きを持って起伏のある空間だということがわかる。山がエネルギーの塊だとすれば、この岩の隙間は巨大なエネルギーが見方によってはのぞき見せる深い闇なのだろうか。エネルギーの隙間にある闇から流れおちる飛瀑は、上昇するエネルギーの膿、もしくは原液のように思われる。そして飛瀑が注ぎおちる池は、その水面に厚くたちこめる霞によって、不気味さと滑稽さをあわせもちながら押し黙る岩山を、底辺から浄化するように神秘的な白さを見せる。私は、エネルギーとしての岩山の重厚な姿もさることながら、画面右上から左下にかけて、流れるスピードや視覚的に与える印象を段階ごとに全く変化させてみせる水の流れが、この絵全体を統括する魅力の引き金となっていると考える。

 

3.作者

范寛は、北宋初期に活躍した山水画家だ。初めは李成に学んでいたが、「人を師とするより自然そのものを学ばなければ山水画は描けない」として、山中に入り独自の画風を創出したという経歴を持つ。その特徴は、濃い墨を積極的に用いた高遠山水であると言われる。范寛のこの言葉から私は、ドイツの哲学者ショウペンハウエルが「世界に光をもたらす人物、人類を一歩先へと前進させる人物は、世界という本を直接呼んだ人である」と、読書について述べていたことを思い出した。著作も描画も、創るのは人であり表わされるのは世界だという点では同じである。自然のなかに、精神のエネルギーという抽象的なものを解釈されることも多い山水画において、画家が自然の世界そのものと向き合っていた人であることの意義は大きい。

 

参考 『故宮博物館 第1巻 南北朝北宋の絵画』NHK出版

【臨床心理学実習】ロールシャッハレポート

テスト参加者は、22歳の大学生(女性)R.N.であった。検査者は21歳の大学生(女性)であり、テスト参加者との関係は、大学の学生寮で同じ階に住んでいる友人である。

反応総数Rは30なので、被験者は比較的検査に協力的で関心を持ち、検査者に対してあまり防衛的ではないと考えられる。反応拒否Rej.は見られなかった。

∑F+%は96.2%と高い値を示していることから、被験者はプロットの形態的特徴をしっかりとつかんでいる。観念活動が活発で想像力に富み、情緒的には安定し、極端な抑鬱や軽躁状態にはなく、生活に対しては意欲的、積極的で努力を惜しまない人であるといえる。

サイコグラムを見ると、F値は12とほどほどに高く、しかし高すぎたり、M反応や∑Cの値が少な過ぎはしないところから、杓子定規であったり、内的な空虚さや感受性の制限はないことがわかる。M:∑Cは3:7となっており、サイコグラムでは右側に偏りが見られる外拡的体験型である。これは、プロットに運動や奥行きを感じるというよりは、色彩や濃淡などのプロットの客観的属性を用いて反応しているということであり、R.N.は外的現実に依存して行動する傾向のある人格であると推察される。外的現実を自己流に再構成することは少なく、それらを受け入れ、それに自分を適合させる傾向がある。外拡的体験型の特徴としては、比較的紋切り型の知性、模倣的な能力、不安定な情緒性、活発な運動性があげられる。初発反応時間の平均が、無色彩図版では11.8秒、色彩図版では15秒と色彩図版のほうが長めになっていることからは色彩ショックの影響があると思われ、色彩図版のなかでもカード提示順に初発反応時間が短くなっていることは色彩への慣れを表しているのだろう。二色以上の色彩を使った初めての図版である第Ⅷ図版において、カード提示直後に「カラフル」だという感想をもらしていることからも、被験者がプロットにおいて運動よりも色彩に注目するタイプであることがわかる。

しかし、(FM+m):(Fc+c+C’)は3:1となっており、これは、被験者自身によっては完全に認知されていないような潜在的な内向的傾向があることを示している。内向的傾向というのは、より分化した知能、創造的な能力、豊かな内面的生活、安定した情緒性や運動性、現実に対する順応の弱さなどを特徴とする。M:∑Cが外拡的傾向を示したのにものであったのに対し、潜在的には内向的傾向が示されるということは、R.N.の内部においては、これらの傾向の間に矛盾と葛藤が存在していると思われる。Ⅷ+Ⅸ+Ⅹ/Rが36.7%であったことは、外的な環境からの情緒刺激に対する行動的あるいは観念的な反応性の高さをあらわしており、この結果はM<∑Cの外拡的傾向と矛盾しない。

次に、知能的側面を評価する。形態質(∑F+%)の高さからは、現実吟味能力や、判断の公共性あるいは適切さを持っていることがうかがわれる。M反応の量はそれほど多くないが少な過ぎるわけではなく、反応の形態水準が悪くないことからも、平均あるいはそれ以上の知能の持ち主であることは確かだ。W反応の56.7%という値も、知能が高い可能性を示唆している。内容の多様性の点では、A%が40%であり、紋切り型の思考しかできない人ではないことがわかる。Content Varietyが9+(2)とrichの水準に達していることからも、じゅうぶんに変化と多様性に富んだ反応内容であるので、知識豊かで知的に優れた人であると思われる。反応内容に文学作品を絡めたものが2つ見られることにも、被験者の知的性格は表れている。また、アニメや映画のタイトルを、キャラクターやイメージの比喩として挙げている反応内容が5つあったことから、文化的教養はかなり高いとも鑑みられる。些細な言葉の使い方にも、社会的知的さは表れている。

知的側面と関連を持つW:Mの比は17:3となった。この比は、要求水準すなわち目標とするところと内的素質の差を示すと考えられており、17:3というと、なかなかに自分の知的能力以上のことを試みようとする野心家であると言える。(H+A):(Hd+Ad)は13:8であるので、外的事象を把握する統合力は高い。

情緒的側面をKlopfer et al.(1954)に従って、外的統御、内的統御、圧縮的あるいは抑圧的統御の三つに分けて考察すると、まず、外的統御についてはFC:(CF+C)=7:3なので、情緒的表現は社会的に洗練されていることがわかる。内的統御については、M反応は3であり、外面行動を調整するのに十分なだけ行為を統制し、情緒刺激への適切な対処を可能にする内的な資質はそこそこあると言えるが、非現実的な内容を持つ(H)や動物反応がやや優位となっていることから、内閉的で引っ込み思案な傾向も見られる。内的な創造活動や外的な刺激に対する反応性を抑え、自我を制限して現実に適応しようとする統御である圧縮的・抑圧的統御は、F%が43.4%であることより、現実を冷静かつ客観的に把握する能力を適度に持ちつつ、感情を表現したり自由な空想を楽しむこともある。

(FC+C+FC):(Fc+c+C’)=1:10より、被験者はテスト時に不安で、黒や灰色によって示されるような抑うつ的な気分にあったことが推測される。これは提出期限の近いレポートが書きあがらないといっていたのと関連があるのかもしれない。ただし、CF反応の内容からは、自由で快的な感情表現が見られる。この両方向性は、体験型において、外拡傾向と潜在的な内向傾向の葛藤があったことと一致する。被験者が、Most Like Cardとしてカードを選んだ際に、その理由を「楽しそう」であることや「この絵から物語を想起することができる」ことや「詩的な、神秘的で穏やかな世界が見える」ことに依ったのも、その内面的豊かさや文学的で知的な想像力を示唆しているようであるし、それに比べて、Self Cardを選ぶ際の「周りに点とかがなくて黒一色」で「あまり幅をとっていない感じ」を理由としてあげたことからは、自己に対してはシンプルなイメージを抱いているように思われる。