哲学生の記録。

大学時代のレポート文章を載せます。

【東洋美術史】范寛の「谿山行旅図」について

范寛の「谿山行旅図」についてレポートする。この作品は北宋時代のもので、絹本墨画淡彩である。大きさは、縦206.3cm、横103.3cmと、なかなか大きい。

 

1.モチーフ

まずぱっと見て何ともインパクトがあるのが、画面中央に堂々と描かれている重量感のある岩山だ。真中がやや膨らんだ形状の岩山が、画面中央から上部にかけてそそり立っている。もしもこの山の表現に、山を構成するエネルギーを見るなら、このエネルギーはひどく偏屈そうななりをしていて、しかし息のつまりそうなまじめさで迫ってくるものである。左右ほぼ対称の安定感のある山が、画面の中央にあることで、とにかくでんとした重みがある。山に眼はないのだが、どことなく見下ろされているような印象を受ける。この山肌の質感は、雨点皴と呼ばれる、垂直方向の短い筆致で描かれている。豪胆な形状の岩山と繊細な筆致があいまって、山に独特の迫力を与えている。

そして山の上部には、濃い墨で木々の緑が描きこまれている。山頂部に植物が集中するのは、范寛の描く画の特徴の一つであるといわれる。しかし、堂々とした岩山の上部のみに植物が集中して群生しているようすは、どことなくイソギンチャクかモヒカンの人の頭部を思い起こさせ、気味の悪い感じの混ざった山の威圧感のなかに、わずかの滑稽さを醸しだしている。

画面の手前には木の生い茂る低地があり、低地と山の間には池があるのだろうか、ぼんやりと白く霞んでいる。その立ちのぼる霞のような表現は、手前の低地と奥の岩山を断絶するくらいの幅を持っていることから、その池は、大きくて静かで深みのある池だと思われる。池からは、画面下部を右から左へ流れているとみられる渓流へと、水がたんたんと注ぎ込んでいる。渓流のわきの山道には、荷物を背負った4頭ほどのロバと、それを追う人が一人いて、渓流のほうへと向かっている。広大な山の自然の前にあっても、人の営みへもきちんと視線は向けられており、それは丹念に描きこまれているのである。この画上ではあと、低地の岩場に茂った木々の向こう側、画面でいうと右手の隅に屋根をいくばくか覗かせている寺院のような建物が、人の存在を示唆している。

 

2.構図

構図は、近景、中景、遠景をそれぞれ巧みに配置したものになっている。遠景は、画面上部を3分の2ほど独占してかまえる岩山であり、中景は池と渓流に挟まれ、森のように木の生い茂った低地である。そして近景は、渓流のさらに手前に配置された大きな岩である。この岩は、范寛がこの画を描くときに足場としていた地面からの続きで、水の流れる渓谷へと突き出しているのだろう。この近景の岩は、まっすぐに立って、当たり前かもしれないが微動だにしない心持ちで構えている遠景の山とは対照的に、右に、それから左にと曲がり、迷うような表情を見せている。渓流を飛び越える一歩手前で逡巡しているかのようだ。遠景が画面の3分の2ほどを占め、さらに残りの6分の2ほどを中景が占め、そして残りの6分の1ほどが近景であるという構図の比率は、手前から奥へと広がる空間の奥行きと、池の深遠さや山の迫力をとても効果的に見せている。

そして気になるのが、山の右手中腹の岩の割れ目から流れおちる一筋の滝だ。この滝はとても細く、周囲に濃い墨を用いて、白さが際立つようにされている。また、流れおちる途中で二股に分かれている様子から、暗くてせまそうな岩の隙間が、実はそこそこの奥行きを持って起伏のある空間だということがわかる。山がエネルギーの塊だとすれば、この岩の隙間は巨大なエネルギーが見方によってはのぞき見せる深い闇なのだろうか。エネルギーの隙間にある闇から流れおちる飛瀑は、上昇するエネルギーの膿、もしくは原液のように思われる。そして飛瀑が注ぎおちる池は、その水面に厚くたちこめる霞によって、不気味さと滑稽さをあわせもちながら押し黙る岩山を、底辺から浄化するように神秘的な白さを見せる。私は、エネルギーとしての岩山の重厚な姿もさることながら、画面右上から左下にかけて、流れるスピードや視覚的に与える印象を段階ごとに全く変化させてみせる水の流れが、この絵全体を統括する魅力の引き金となっていると考える。

 

3.作者

范寛は、北宋初期に活躍した山水画家だ。初めは李成に学んでいたが、「人を師とするより自然そのものを学ばなければ山水画は描けない」として、山中に入り独自の画風を創出したという経歴を持つ。その特徴は、濃い墨を積極的に用いた高遠山水であると言われる。范寛のこの言葉から私は、ドイツの哲学者ショウペンハウエルが「世界に光をもたらす人物、人類を一歩先へと前進させる人物は、世界という本を直接呼んだ人である」と、読書について述べていたことを思い出した。著作も描画も、創るのは人であり表わされるのは世界だという点では同じである。自然のなかに、精神のエネルギーという抽象的なものを解釈されることも多い山水画において、画家が自然の世界そのものと向き合っていた人であることの意義は大きい。

 

参考 『故宮博物館 第1巻 南北朝北宋の絵画』NHK出版