哲学生の記録。

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【西洋近世哲学史】デカルトの方法的懐疑から(思惟の傾向と存在への希望)

1.何もかもが疑わしい(日常生活は別として)

デカルトの方法的懐疑は、疑えないものを見つけるためにあらゆるものを疑ってかかるという姿勢だ。デカルトがしたかったことは疑えないものを見つけることであったために、少しでも疑わしいことは、すべて虚偽として捨て去ることにした。ただし、その姿勢を日常でも貫いたとしたら、生活が困難であるばかりか精神病院に入れられてしまったり、火あぶりになる恐れもあったため、日常生活では慣習にしたがうことに決めた。あらゆるものを疑ってかかり、少しでも疑わしいものを虚偽として捨て去るのは、真理探究のときにおいてだけである。

感覚はまず、100%正しいとはいえない。幾何学においての論証・推理も疑わしい。夢さえも、現実は時と場所が確定されていて、他の人もいるし、何かをすれば結果が出るので夢とは違う、といわれるが、夢の中では夢の中なりに時と場所は確定されており、他の人もいるし、たとえそれが現実では考えられないようなものであったとしても、何かをすれば何らかの結果は出るので、夢の中ではそれが夢であることはわからないのである。夢が夢だったということは夢から覚めたときにわかるしかないのであって、もちろんその夢から覚めたことが夢でないかどうかも、夢から覚めないことにはわからない。人類をだましている悪霊がいるかもしれないし、この人生の舞台となっている天地全体そのものや、舞台をながめる視点を持っている自分の身体さえも、感覚を虚偽として捨て去るならば、疑わしいものでしかない。

 

2.ただ「考える故に我あり」

デカルトは、感覚や思惟の対象となる客観的なものだけではなく、主観である自分自身をも疑った。主観の背後に何があるのか、それを見ようとすること、すなわち内省である。自分は存在するのだろうかと疑っているとき、疑っている自分は存在するのだろうか。そしてまた、そのように疑う自分は存在するのだろうか……。疑う我を疑う我を疑う我を疑う我を疑う…というふうに、この試みは無限に循環し続ける。自己という主観は、あるのか、それともないのか。もしも、たとえば方法的懐疑をしているデカルトの主観がなかったとしたら、方法的懐疑もないことになる。もしも自己という主観がなかったとしたならば、「自己という主観はない」と考えているものは何なのか。たとえ「なにもない」という結論にたどり着いたとしても、「なにもない」と考えているのは何なのか。デカルトは、このものは確かに存在しているものだ、ということを発見し、これをコギトと呼んだ。コギトは思惟する実体のことなのである。デカルトは、コギトが存在することは不可疑で確実で明晰判明なので、証明はいらないとした。なにも存在しないとしても、何も存在しないと思っている何かはあらなければ、何も存在しないと考えることすらできないはずだからである。この世のすべてが嘘だったとしても、思いはあるのだ。ベッドの中で眠りながら草原を歩いている夢を見たとすると、草原を歩いていたというのは虚偽である。でも、草原を歩いていたという思いはある。もしこの現実が、悪魔によって作り出された偽物でしかなかったとしても、何ものでもないものをだますことはできないのだから、だまされている何かは確実に存在している。有名な「考える故に我あり」という言葉は、このようなコギトのことを言い表したものである。ガッサンディがこれに対して、「我歩く故に我あり」ではなぜいけないのかと主張した。しかし、この批判は的を射ていない。「我歩く故に我あり」というとき、感覚・天地・身体を虚偽として捨て去ったデカルトの前では、「歩く」ということがすでに疑わしいのだ。だから「我歩く故に我あり」は「我歩くと思う故に我あり」になり、結局は「考える故に我あり」なのである。

 

3.「考える」や「思う」だけが循環構造におちいる(思惟の対自性)

デカルトの方法的懐疑の大きな収穫の一つに、「考える」や「思う」という行為の特殊性に気がついたことがあげられるだろう。先に、自分自身という主観を疑ったときに、疑う我を疑う我を疑う…という循環構造におちいるということを述べたが、このような循環構造へのおちいりは他の動詞ではあり得ない。たとえば、耳は声や音を聞くことができるが、聞いていることを聞くことはできない。お昼ごはんを食べることはできるが、食べることを食べることはできない。同様に、歩くを歩くことはできないし、見るを見ることもできないのである。ところが何とも不思議なことに、自分が何かを思っているときに「何かを思っているなぁ」と思うことはできるし、何かを考えている自分について考えることもできる。「思う」や「考える」という行為は、その他の行為とは別格だということだ。そしてこの特徴は、思惟の対自性だということができる。思惟のみが思惟に向き合うことができる。自己作用、自己関係性を持つのである。

 

4.私という思惟する実体は、外界が存在するという信念を持っている

さて、デカルトは方法的懐疑を突きつめていくことによって、コギトを見いだした。私もその論理を追ってゆくことにより、なるほど確かに考える私は存在すると思った。しかし釈然としないのは、デカルトが思惟する実体といい、「我」と言ったコギトは、何も意味していないような気がするからだ。考える故に我ありと言ったときに、私が何を考えているのかはそこではまったく問題にされていない。むしろ、問題にすべきではないものとして扱われている。私が考え思っている内容は、まったく疑いうるものばかりだからである。私が何を考えていようとも、そこで問題になるのは、ただ考えているというそのことのみである。何か考えがあるから、それを考えているものがある。私は、確かに考えているものが存在しているとは思うが、それが私だとは思えない。私が私だと思っているものは、たとえそれが虚偽であったとしても過去という経験の積み重ねを持っているし、今という感覚を持っている。もしも感覚やこの生の舞台のすべてが虚偽だったとしても、そこにはすべてが虚偽だと思っているものがいるというのは、確かにそうだ。でもそれは考える実体、コギトであって、それはどう考えても私ではない。私が知りたいのは何なのだろう。自分の今までの経験を分析したいのとは絶対に違うし、かといって経験や感覚からまったく切り離されたただの考える実体なんて、あるといわれればあるのだろうけれども、それ以上のものではない。思惟する実体は思惟する実体が存在するというだけのことには興味を持たない。少なくとも私という思惟するものはそうだ。私という思惟するものは、この思惟するものと経験や感覚といった虚偽かもしれないものたちがどうやって結びついているのかを知りたい。これはデカルトがおこなった方法的懐疑と違って、内省とは呼べないかもしれない。主観の背後に何があるのかを見てはいない。主観という視点とその周りの外部との関係に目を向けている。でも、私という思惟する実体は、外界が存在するという信念を持っている。この意味では、主観の内部に外界はあるとも言える。確実に存在しているコギトと、存在が疑わしいそれ以外のすべてのもの。存在が疑わしいと思われる外界のすべてを捨て去った思惟する実体は、存在したいとは考えないと思う。思惟する実体は、思惟される対象があるから存在するのである。その対象が虚偽であろうがなかろうが、そんなものはどちらでもかまわない。繰り返すが、少なくとも私という思惟する実体はそう考えている。

 

5.思惟する実体は存在することを望む

こうして私は、外界は存在するということにした。論理的に疑いえること信じるのは誤っている可能性があるのは重々承知の上だ。思惟する実体は思惟する対象が存在することを望んでいる。示威する対象がなければ思惟する実態は思惟することができず、ゆえに思惟する実体は思惟する実体ではなくなり、その存在はなくなるからだ。悪霊にだまされていたとしてもけっこうだ。だましてくれる悪霊もいないよりは、だまされていた方がだまされているところのものが存在するので、そちらの方が良い。思惟する実体は存在することを望む傾向があるようだ。

私が私だと思っているものは、私という思惟する実体が思惟しているところのものの集大成であるようだ。感覚は虚偽かもしれないといって、虚偽かもしれないと思う人と、何を言っているのかわからない人がいる。思惟する実体が何を思惟するのか。この傾向が私であり、これは経験や感覚から作られるものでもあるかもしれないが、経験や感覚を作るものでもある。