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【英書講読】芸術作品に対する感受性は教育を必要とするか

1.感受するとはどういうことか

芸術作品に対する感受性は教育を必要とするのか。感受性とは『広辞苑(第五版)』によると「外界の印象を受け入れる能力。ものを感じ取る力。感性」のことである。なので、芸術作品に対する感受性というのは、芸術作品に接したときにそこから何らかの印象を受け取る能力のことであるといってよいだろう。ここで感じる印象は、悲しみ、怒り、懐かしさ、安らぎなど、好ましい感じであっても嫌な感じであってもかまわない。養老孟司いわく、ある人を嫌いだと思うことも、その人のことを好きだということとその人のことが気になっているという点では同じであり、その人をどうでもよいと感じることとはまったく異なっているのだ。人を対象とした印象の場合は、それが直接その後のその人に対する自分の態度へと直結することが多いので、好悪の感情を一緒くたにして考えることはできない。養老氏は「どうでもよいと思う人よりも嫌いだった人を好きになる可能性の方が高い」といってつなげていたように覚えているが、ことの対象が芸術作品であり、問題となるのが感受性である場合には、印象の種類はわきに置いておいて、ただその印象の強さの度合いのみをかんがみるべきであると思う。人に対する感情でいうと、一人の人をとても嫌いだと感じることととても好きだと感じることを同じであるとしては違和感があるが、芸術作品に対するときには、一枚の絵画を見て強い怒りを感じることと大きな安らぎを感じることとは、感受性という点からみれば同じである。そもそも感受性という言葉が「感じを受ける」と書き示されているものでもあり、どれくらいの感じを受けるかということのみが問題となり、その感じの種類などは気にされないのだ。これは数学でいうところの絶対値のようなものと考えることができる。「0」を興味がない、どうでもよい、感受がない地点とし、あとはプラスであろうがマイナスであろうが0からの距離、すなわち印象の強さの程度だけを見ることになる。

 

2.教育を受けることなく芸術作品から何らかの印象を受けることは可能なのか

さて、芸術作品に対する感受性は教育を必要とするのか、という問いであるが、この問いは二つの意味を含んでいるように思われる。一つ目は教育を受けることなく芸術作品に対して感受性を持つことができるのかという問いであり、二つ目は教育によって芸術作品に対する感受性を高めることができるのかという問いである。先ほど、芸術作品に対する感受性というのは、芸術作品に接したときにそこから何らかの印象を受け取る能力のことであるとした。このことから一つ目の意味での問いは、教育を受けることなく芸術作品から何らかの印象を受けることは可能なのかという問いに言いかえることができ、また二つ目の意味での問いは、教育によって芸術作品に接したときに受け取る印象を強くすることは可能なのかという問いに言いかえることができる。

 

3.印象というものの性質

初めに、印象というものの性質について言えることは、印象とは主観がなんらかの対象に対してもつものであるということである。特定の主観が特定の対象に持つものが印象であり、主観の状態が変わった場合や、対象が同じものでない場合には、まったく同じ印象を持つということはあり得ない。その意味で、たとえどんなに完璧に保存された絵画、文字として残された文学、録音された音楽であろうが、主観の立場に立った者としての人間が瞬間ごとで決して同じ状態にはないということを考えると、いかなる印象を持った場合もその印象との出会いはまさに、一期一会である。

以上のような意味での印象であれば、これを持つために教育が必ずしも必要ではないことは経験的直感からも明らかだ。何も教えられていない赤ん坊であっても、たとえば母親に対して好ましい印象を抱いたりする。印象を持つという行為は、おおかたの人にとっては生来的に備わっている能力でもってなすことができ、そこに教育の介入がなければ何ものに対しても印象を持つことができないということはないだろう。ただし、ここで厄介なのは、いま問題としているのが一般的な印象ではなく、芸術作品に対する印象に限られているということだ。芸術作品に対して何らかの印象を持つことは、たとえば人に対して印象を持つことや、自然に存在するものに対して「今日の空はきれいだ」などの印象を持つこととは異なっているように思われる。このことは、人が芸術作品に対して何の印象も抱けないときに「この作品は難しすぎて理解できない」と言ったりすることから確かめることもできる。もしある人が道端の花を見て何の印象も抱かなかったならば、その人はまさになんとも思わなかったからという理由でもって、自分がその花に対して何の印象も抱かなかったということに、気が付きもせずただ行き過ぎるだけだろう。芸術作品というのは、その存在の前提として、見る人に何らかの印象を与えるものであるはずだということがあって、だからそこで何の印象も持てなかった人は、「難しすぎて理解できない」という結論に至るのだ。

 

4.美であるか否かを判別する「趣味判断」(カント)

カントは、趣味には個々人が快適さに関してもつ「感官的趣味」と美に関する「反省的趣味」があるといい、「美を判定する能力」を「趣味」という言葉で表し、あるものが美であるか否かを判別する判断を「趣味判断」と称した。つまり、カントのいう趣味が「良い印象を持つこと」と対応していると考えると、個々人が日常の中で感じる快・不快の印象と芸術作品を鑑賞する際に受ける印象は異なっているのだという分類をカントもおこなっているのだと捉えられる。もちろん美がイコール芸術作品だというのではない。私たちは自然に存在するものからも美を感じることが度々あるからだ。しかし芸術作品の中に美がないかといえば、まったくそんなことはありえないので、ここではカントのいうところのあるものが美であるか否かを判別する「趣味判断」の中で、さらに対象を芸術作品のみに限った判断についてみていくことになる。

ただしカントは、「自然が美と判定されるのは、それが単に自然のままであることによるのではなく、それが私たちの期待するある種の合目的性、すなわち「目的なき合目的性」をおびていることによって、芸術とみなされる時である。また逆に、私たちがある作品を美と判定するのは、その作品が何らかの意図や目的に従って作られていることによるのではなく、それがやはり「目的なき合目的性」をおびることによって、人工物であると同時に自然とみなされる時である。自然美も芸術美も、ともに「目的なき合目的性」をおびることによって美たりえるのである」として自然の中の美と芸術作品の中の美を関係づけていると高峰一愚は記している(『カント講義』)。芸術作品がその存在の前提として、見る人に何らかの印象を与えるものであるはずだということがあるのだとしても、この前提はあくまでも鑑賞者の側が勝手においているものにすぎず、芸術作品の作成者の側がただ自分が鑑賞者に与えたいと思っていることのみを作品中で主張し、作品が人工物であると同時に自然とみなされるような「目的なき合目的性」を持たなかったとしたならば、その作品は芸術作品ではなくデモのときに使われるプラカードと同じような意味しかもたない。