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【人文演習】学校に行かない選択肢(隠れたカリキュラムの負の面)

1.「学校」の存在意義

小浜逸郎は、複数の未熟者が集まり、その共通の未熟性を克服するために過去から伝えられてきた共同体の文化を一緒に学びとる場としての「学校」的なるものの存在する意義は、究極的には「その集団的な修練の過程を通して、「自分」が、この社会の多様で普遍的なあり方に対してどういう適応力を持ち、どういう人生を送る可能性をもった存在であるかということを自覚してゆくところ」(1)にあるという。そして、そのような「学校」的なるものが必要不可欠なわけは、「社会的な人格の完成とは、ただ抽象的な個としての成長の発達を意味するのではなく、他者と関係するものとしての「自分」の中に、それにふさわしいだけの具体的な規範感覚や視野の広さをさまざまな他者との交流を通して内包されることを意味するから」(2)であり、「子どもという未熟な実存にとって、その未熟性を克服してゆくことが、重要な生きる課題の一つであるかぎり、彼に、自分がどの程度の社会的成熟段階に達したのか、また、自分の社会的成熟とはどんな具体的方向において果たされるべきなのか、という実感と指針を与えるためにこそ、一般様式としての「学校空間」的なものは必要」(3)なのだという。

 

2.なぜ学校に通う必要があるのか

私はこの意見に対し、小浜の言う「学校」的なものの必要性はわかるが、それが今のような形の学校である必要はないと思う。「学校」的なるものが「その形式的な意味合いにおいて、家庭の中で親の庇護と管理のもとにおかれていた子供が、さまざまな人間関係の交錯する「社会」という場に自分を投げ入れることによって、一人の自立した近代的人格を形成するための中心的な場所である」(4)ことに一番の役割を置いているとするのならば、このような役割は、下校後の小学生のためにある学童保育所のようなところでも十分果たされうるだろう。けっこうな人数の子供が集められていれば、その中で一緒に何かをすることを通して、自分はリーダーシップを取ることが多いとか、年下の子供の面倒を見るのが好きだとか、集団において自分がどのような役割を担える人であるかはわかってくる。なぜ、学習塾や家庭教師などと学童保育所を組み合わせるのではいけなくて、学校に行かなくてはいけないのか。小浜の「なぜ学校に通う必要があるのか」という問いのたて方からして、私は気にくわない。誰しもが学校に通う必要はないと思う。

小浜も、現在のような学校のスタイルが絶対ではないとは言っているが、一方「学校」という概念が、大多数の人々の中で、現代における「通過儀礼」としての象徴的な意味をになっているといい、「子どもの知識養成や人格養成を、すべて家庭や地域の職能集団に任せてしまうとすると、おそらく、子供は自分の欲求や能力や意志がどこまでこの近代社会の中で具体的な意味と価値をもつものとして承認されるかというリアクションを経験する契機を大きく失い、てんでバラバラな相対主義の混乱がますます露呈するであろう。また、教育の完全な民営化は、頭の柔らかい年少の子どもたちに、おかしなイデオロギー教育や偏った宗教教育を注入しやすくするといった、思想的な危険性もはらんでいる」(4)と指摘する。しかし、それを言うのであれば、おかしなイデオロギー教育や偏った宗教教育が現在の学校で行われていないという保証はどこにもないということに気をつけないといけない。

 

3.「みんな」の「当たり前」は、その社会の規範

苅谷剛彦は、学校教育の中に潜む「隠れたカリキュラム」の存在に言及している。「隠れたカリキュラムが学校で教えられているのは、実は学校が集団の場であることと関係しています。授業であれ、ほかの活動であれ、おおぜいの人がいっしょに何かをしようとする。集団としてまとまって活動するためには、一定のルールが必要になります」(5)。集団の中で学ぶことであるという点では、苅谷の言う「隠れたカリキュラム」が教えているものは、小浜がそれを学ぶことが「学校」的なるものの存在意義であると主張するものと同一であると思われる。実際、「隠れたカリキュラム」の具体例としては、チャイムの音に従って行動する(決められた時間を守る)ことや、授業中は席につき、あてられたとき以外私語は慎む(人の話は聞く)ことがあげられ、それらが他者と関係するものとしての「自分」にふさわしい社会的規範であり、その習得が社会的成熟であると言っていいだろう。

そして苅谷は、「知らず知らずに入りこむ隠れたカリキュラムは、それが前提としているあたりまえのことを、より強化しているといえます。ほかのやり方の可能性があることさえ、気づかないようにさせてしまう」(6)と、隠れたカリキュラムの持つ影響の負の面をいう。隠れたカリキュラムが悪い面を持っているのは、それが前提としている当たり前のことというのがどこの誰にでも当てはまる普遍的なことではなく、特定の限定された社会の中でだけ当たり前とされていることだからだろう。

たとえば、アメリカへしばらく行っていた子が帰国子女として日本へ戻ってきたばかりのときの話だ。中学校で他国との文化の違いについての授業があったので、その子は授業に貢献しようと思って自分がアメリカで暮らしていたときの話をした。すると、教師からは困ったような顔が向けられるだけで、周りのクラスメートたちからは「空気読めよ」という感じの視線が投げられるばかり。ほめられると思ったその子は困惑し、何がいけないのか、と思ったそうだ。これは、その子がアメリカで通っていた学校と日本に戻ってきてから通った中学校との間で、当たり前のこととして前提としているものが違っていたゆえに起きた困惑である。このように、学校はさまざまな人間関係の工作する「社会」のひとつのモデルとして子どもに社会的規範を教えることはできるが、それは学校以外の場所であっても代替可能であり、しかもその弊害とされるものにも違いはない。

 

(引用文献)

  1. 小浜逸郎『人はなぜ働かなくてはならないのか』洋泉社新書y、2002年、p.141。
  2. 同上、p.142。
  3. 同上、p.146。
  4. 同上、p.140。
  5. 苅谷剛彦『学校って何だろう』講談社、1998年、p.118。
  6. 同上、p.129。