哲学生の記録。

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【人文演習】人間のユニークさ

1.はじめに

幸福論を追っていったら「人間とは…」という論点があまりにも多いことに驚いた。それは、人間には「子孫を残す」ということ以外に何かこの世に生を受けた目的があるはずで、その目的に沿ってことこそが人間の幸福なのだという考え方だ。

 

2.人間とその他の動物

「人間と動物はどこが違うのか」という問いは、意味のある問いかけではない。

動物学では、動物を二十いくつかの「門」に分けており、(例:脊椎動物門、原索動物門、棘皮動物門、節足動物門、軟体動物門…)このように、まったく異なるからだの構成とか生き方のロジックを持ったさまざまな門の動物を十把ひとからげにして「動物」と呼び、その中の一つである脊椎動物門の一種にすぎない人間だけを別扱いにして、この「動物」と比較するのは、いささか無茶なことである。とはいえ、私はその脊椎動物門の人間に属しており、カニよりは人間についての方が知りたいと思う。というわけで、ネコのユニークさを問うことと同じような意味で人間のユニークさを問うてみたい。

 

人間のユニークさ①想像力

『人はなぜ働かなくてはならないのか』で小浜逸郎が言っていた「川の向こうに思いをはせる能力」が、これである。想像力は「いま・ここにないもの」や「いまだかつて・どこにもなかったもの」を現前にもたらす喚起力をもった「言葉」と密接な関係にある。

そして、人間はその他の動物と違い、満たされることのない欲望を持っているといえるのも、限りという範囲を消すことのできる想像力があるからだ。動物たちは決して「自由を求め」たりはしていない。彼らが求めるのはひとえに安全であり、長い間飼われていた動物は、そこを離れてどこか危険な冒険に旅立ってみようなどとは思っていない。「いま・ここ」で安全を享受している動物たちがそれ以上のものを欲しがらないのは、そんなものは思いえがけないからである。

 

人間のユニークさ②社会性

人間は社会的動物であり、社会を成り立たせているのは「人々の相互行為」である。

*「相互行為」…互いに相手の行為から影響を受け行為し、また影響を与える意図で行為すること。スムーズに取り交わすためには、社会生活を共にする人々が、そのために必要な諸諸の事柄をあらかじめ心得ており、身につけていなければならない。

社会化の過程で相互行為に必要な様々なことを共有しているから適切な相互行為ができる。

=共有していなかったら適切な相互行為はできない。

相互行為を成り立たせる条件は他者との相互行為を通してのみ習得され共有される

 ↓

①言葉と意味

②位置と役割の認識  それぞれが同一社会内の他者との関係の中で自分の占める社会的位置を認識し、遂行するにふさわしい役割を共有していること

③生活世界の意味付け  自分が生活している社会内での生活空間の区分、名付け、それらの意味付けを共有していること

 

生活世界の意味を習得し現実を構成していく過程と社会生活の(他者と相互行為を繰り返す)過程は同時に進行する。「共同の無意識」=縛りを持つことによって人間は社会のなかの人間になる。

 

人間のユニークさ③正当化

人間の知識には動物的知識には見られないメタ認知、とりわけ正当化が不可欠に思われる。つまり、ネコはネコのユニークさがどこにあるのかなんて気にもしていないだろうということである。

・個人レベルで、自分の信念それ自体を対象に思考して、それが正当化されているだろうかと考える能力→「反省」

・集団レベルで、知識主張に対してその根拠を尋ねたり、根拠を与えたりという社会的実践→「理由の実践」

行為の責任が問われる対象としての人間は、意図と行為の間の因果関係を明らかにし、理由を説明する言語行為、すなわち過去の行為と現在の自分という二つの出来事を結びつける言語的営み(「物語り」)がおこなえることが前提となる。デカルトもまた、人間と動物の注目すべき違いについて、人間ならば「いろいろな言葉を集めて配列し、それでひと続きの話を組み立てて自分の考えを伝えることができる」ことを挙げていた。生物的にいう人間と人格を分けた場合、前者は身体の同一性によって証明され、後者は記憶の同一性によって証明されるということも、この人間の特性があるからだろう。

 

 

(参考文献)

2→日高敏隆『動人物―動物の中にいる人間』福村出版、1990年、p.44‐55。

①→鷲田小彌太『人生の哲学―哲学的幸福論―』海竜社、2007年、p.278。

  日高敏隆、前掲書、p.98。

②→門脇厚司『子どもの社会力』岩波新書、1999年、p.35‐51。

  鷲田小彌太、前掲書、p.288。

③→野家恵一編『シリーズヒトの科学6 ヒトと人のあいだ』岩波書店、2007年

  戸山田和久「「知識を自然の中に置く」とはいかなることか―自然化された認識論の現在」p.157。

  野家恵一「ホモ・ナランスの可能性」p.24‐30。