【人文演習】カウンセリング技法について(心の問題の解決とは何か)
1.カウンセリングは心の問題を解決するか
大学が用意している「カウンセラー」という人のもとに行ったことが、一度だけある。相談内容は「おやつを食べるのがやめられない」というものだった。冗談ではない。真剣に悩んでいた。その真剣の悩んでいた折に、河合隼雄が「糖尿病の人は、運動した方がいいとか、食事療法をした方がいいということは「わかっている」わけです。わかっちゃいるけれども、お医者さんや看護婦さんがいくら言っても、やらないって人がたくさんいる。これは心の問題です」(1)と言っているのを読み、単純な私は「そうか!心の問題だったのか」と思い、この問題の解決を望みカウンセラーのもとへ足を運んだ。しかし、一時間ほどの相談の後に私は、「困った時はまたいつでも来てくださいね」というカウンセラーの言葉に「はい」と返事をしながら、「たぶんもう、ここには来ないだろうなぁ」と感じていた。確かに「おやつを食べるのがやめられない」というのは心の問題なのかもしれないが、これ以上ここへきてカウンセラーと話をすることがこの問題の解決につながるとは、私には到底思えなかったのだ。
2.「体制的価値の望む答え」に合わせる「いい子クライエント」
小沢牧子もカウンセリングの場面で腑に落ちない感情を覚えたことがあるらしく、それを彼女は「不自然な人間関係の中で自発的に「望まれる答え」を導く見えにくい管理構造への違和感と、そこに進んで身を合わせてすばやく「いい子クライエント」を演じた自分への後味の悪さであったのだと思う」(2)と語る。「カウンセラーは自分の言葉を語らずとも、体制価値としての身体を体現している。個人としての生き方を見せず自分の考え・価値観をほとんど語らないが無言の権威は体制的価値を代弁し、結果として社会適応を促す作用を持つ」(3)から、カウンセリングの場面においてクライエントは自分の中の「その状況を全体的にみて今後の自分にとって最も有利になるように考えた場合、今自分がすべきことはこうすることであろう」という価値観、つまりは「体制的価値の望む答え」と向き合わざるを得ない状況におかれるのである。そしてカウンセラーはあくまで自分の言葉を語りはしないのでクライエントは浮かんできた「体制的価値の望む答え」の責任をとらなければならなくなる。まさに小沢の指摘する、「「自分で決めなさい、判定してあげる」。この屈折した構図は、審査基準を探らせそれを内在化させる、姿を見せない圧力である。そして結果責任は、自分で取るのである。カウンセラー自身は、みずからの考えを直接話すしたりましてなにごとかを勧めたりしていないのだから」(4)という、カウンセリング技法が屈折した援助、やさしく巧妙な管理技法と呼べる所以である。また、クライエントがカウンセラーに「先生はお子さんがいらっしゃるのですか?」と訊ねた場合に一番カウンセリング臭の強い返答は「それが気になりますか?」というものである(5)という例を出して小沢が説明する、カウンセリングのなかに組み込まれている問題をずらす技法を見てもわかるように、カウンセリングの場面においてはクライエントの目前に座っているのは互いに言葉を交わすことが可能な人ではなく、クライエントのうちの体制的価値を映す鏡、そしてそれにクライエントを従わせる無言の権威なのだ。
3.「わかっちゃいるけどやめられない」
しかしここでクライエントの心のうちに浮かんでくる「体制価値の望む答え」は、カウンセラーはなにも勧めたりはしないということからも自明なのだが、まったくもってクライエント自身の中から浮かんできたものであって、おそらくは多くの場合、カウンセリングの場面に向かう前からクライエントはそれを知っている。河合隼雄が言った「わかっちゃいるけどやめられない」という心の病を抱えた状態において、「わかっちゃいる」というのはその問題において体制的価値の望むものが何なのかを、悩んでいる人はすでにわかっている、ということである。むしろ、体制的価値の望むものがわかっているからこそ、それに従えない自分の問題を持った者としてとらえることができるのだとも言える。
4.問題は、体制的価値に望まれている行動をどうしても自分がしたいとは思えないところにある
たいていの心の病といわれるものはこれに当てはまるのではないかと思うのだが、問題は、体制的価値に望まれている行動をどうしても自分がしたいとは思えないところにあるのだ。自分のしたいこと・したくないことが体系的価値と何の矛盾もなければ、そこに問題はない。そして、「カウンセラーの「需要」や「語られる言葉の再陳述」そして「感情の明確化」などの手法は、クライエントが「問題」を全体状況から切り離し、自分の内面の問題としてとらえなおすことを促す」(6)ということは、カウンセリング技法の構造からしてクライエントは、「どう考えてもそうした方がいいのにそうしようとしない自分」という問題に目を向けさせられるわけであり、カウンセリングの場面以外で悩んでいた場合にはむしろ真っ先に目が向くことが多いであろう「そうした方がいいにもかかわらず、自分にそうしたくないと思わせる何か」は、カウンセラーの前ではどこかに隠れてしまう。もし出てきたとしても、「自分にそうしたくないと思わせる何か」によってそうしたくないと思う自分が問題視されるだけである。これは少しどうかと思った。体制的価値に逆らうほどの欲求は何か、大事な主張を含んでいるような気が私にはするのだ。
5.カウンセリングは、生活全体の問題を心の問題として解消する方法
「本人の生活全体に起こっている問題が心の問題に置き換えられ「深め」られ、本人自身の内面で問題が解消していったとき、カウンセリングは成功したと評価される。本人の周囲の状況は依然として問題であったとしても」(7)と、小沢はカウンセリングの成功が必ずしも問題の解決にはつながらないと言う。それは全くその通りだろう。カウンセリングの目的がそもそも、「問題がある」といってカウンセラーのもとを訪れたクライエントが「問題はなくなった」と言って出ていくことにあるのだから、わざわざ周りの状況を変えたりまでする必要はないのだ。しかし、問題のほとんどはクライエント自身と周りの状況双方に原因があるのだろうから、変えやすい方からまず変えるというやり方はあながち間違っているとは言えないと思う。
(引用文献)
(1)河合隼雄、南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫、2004年、p.73。
(2)小沢牧子『「心の専門家」はいらない』新書y、2002年、p.24。
(3)同上、p.23。
(4)同上、p.35。
(5)同上、p.77。
(6)同上、p.76。
(7)同上、p.74。