哲学生の記録。

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【英書講読】「嘘も方便」は道徳的に許されるのか

1.「嘘をついてはいけない」のか「嘘も方便」なのか

小学校もしくはもっと幼い頃から、わたしは「嘘をついてはいけない」ということをわかっていた。おそらく、初めてついた嘘がばれて「嘘をついてはいけないでしょう」と怒られるよりも以前にわかっていたのではないかと思う。嘘をついてはいけないと教えられる際にどうして嘘をついてはいけないのか納得のいく説明をされた記憶はないが、年齢がはっきりしないほど幼少のことであっても、嘘をつくかつかないかで迷ったり、ついてしまって後味の悪い思いをした記憶はあるからだ。

しかし年を重ねるにつれて、「嘘をついてはいけない」という決まりとは矛盾する、「嘘も方便」や「本音と建前」と言われるような行為の判断が必要とされてきた。こうなると話は一気にややこしくなる。果たして嘘はいついかなる時であってもついてはいけないのか、それとも嘘をつくべきところと嘘をついてはいけないところを場面場面で判断しなければならないのか。もし嘘をつくべき場面なんてものがあるならば、その判断はいったい何を基準にすればよいのか。

 

2.カントの主張「どんなときにも嘘をついてはいけない」(本当にどんなときでも?)

どのような場面においても嘘はついてはいけないと、カントは主張したという。彼は、普遍的にだれもが従うべき定言命法として「君は君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」という命法を見出した。これを易しく小学校の格言風に言うと「自分がして欲しいことを他人にしなさい」といったところだろうか。ここで仮に「いつでも嘘をつくのは個人の自由である」という格律が普遍的法則であったならば、この世は大混乱である。すべての人が気の向いたときに嘘を言うことになり、情報が正確に伝達される確率は0%だ。どの言葉を信じてよいかわからなくなり、そもそも言葉の存在意味というものがなくなる。言葉は主体が伝えたいものを伝えるための手段として発展してきており、嘘が当然であるならば言葉を使うメリットは失われるだろうから。よって、「君」がその格律に普遍的法則になってほしいと思う「君」の行為の基準とする格律は「いつでも自由に嘘をついて良い」というものにはならない。

では「どんなときにも嘘をついてはいけない」という格律が普遍的法則となることには何か問題があるだろうか。嘘をつくことに関する道徳の問題でカントを引き合いに出す時にはよくつかわれるたとえを見よう。もし友人が突然かくまってほしいと言ってあなたの家を訪れ、そのしばらくあとに包丁を携えた人物がその友人を殺したいのだが居場所を知らないかとあなたに尋ねたとする。この格律に従うならば、あなたは正直に友人の居場所を教えなければならない。そして、そうすべきだというのがカントの主張らしい。私ははじめてこのたとえ話を耳にしたとき、非常に驚いた。理論的に考えるのではなく、根拠のない感情の持った感想を言わせてもらうと「普通にそれはあり得ないだろう」と思ったのだ。その驚きから、高名な哲学者を病気呼ばわりするのは忍びないが、カントには自閉症の気があったからこのように極端な意見を唱えたのではないかとまで私は考えた。現在精神病と呼ばれているものの中には社会生活に多少の障害はあるものの同時に大きな能力を併せ持つものがある。カントについて、毎朝きっちり同じ時刻に同じ道を散歩しないではいられなかったという話も伝え聞いているし、このような常人ではありえないような几帳面さは、自閉症に見られる執拗にも思えるほどいつもと違うことが許せなく、一度決めたルールをきちんと守るという特徴にも一致する。カントは自閉症であり、それゆえに友人が殺されそうだという毎日の繰り返しからはかけ離れた危機的な状況に対しても、自らのルールから脱しない方法を選ぶことを選んだのではないか。「どのような場面でも決して嘘をついてはいけない」という嘘に対するカントの毅然とした道徳的態度は、ただカントが個人的に臨機応変な態度をとることができなかっただけなのではないかということである。

3.行為功利主義の主張「迷った時には、行動結果のメリット・デメリットを比べる」(単純に比べられないこともあるよね)

しかし、別の場面を考えてみよう。これは単なる空想であり、そのような場面が現実に起こり得るかどうかは問題にしない。現実に起こってからしか考えないのであれば、なにも間に合わない。あなたは空港で、ある国から出国しようとしている。その国では王様の気分次第で人が殺される。そしてあなたは今、その国で不条理に命を狙われている友人を救うため一緒に出国させようとし、大きなかばんを用意し、友人にはかばんの中にひそんでもらっている。その国の空港には、X線でかばんの中を調査するような機器は設備されておらず、また持ち物のチェックもそれほど徹底されていない。空港の職員が、あなたに「荷物の中に違法なものは入っていないか」「逃走中の~(友人)について何か知っていることはないか」を尋ねた。あなたはこれに、正直に答えるべきだろうか。嘘をつくべきだろうか。

正直に答えれば、友人はすぐにつかまり殺されるだろうし、あなた自身もただでは済まない。嘘をつけば友人は助かるかもしれないが、もし後になって友人がその空港から出ていたことが判明すれば、空港の検査体制が咎められるだけでは済まず、この職員が罰せられる恐れもある。行為功利主義の主張では、どちらの行動を選択するか迷った時には、それぞれの行動の結果のメリット・デメリットを見比べ、メリットが大きい方の行動を選ぶべきだということだが、この場面で「あなた」にとってメリットが大きいのは嘘をつく行為のほうだ。あくまでも個人としてのメリットを考えるならば、友人の命のほうが見ず知らずの空港職員の生活よりも大事なことだからだ。

しかし、見ず知らずの人を犠牲にして友人を助けることは、道徳的には良くないと感じられる。個人としては確かに、知らない人よりも友人のほうが大事なのは当たり前だ。だが、その知らない人もまた、ほかの人にとっては家族や友人という大切な人なのである。それを「自分の友人ではないから」という理由でないがしろにするのは、実際的にはたびたびあることであっても、道徳的にはやはり許されないことだ。メリットの大きい方を選ぶといっても、そのメリットはいったい誰に対するメリットを考慮するべきなのかというところがはっきりと定まらない。全体のメリットを見るということにしても、全体というのは、この国全体のことなのか、人類全体のことなのか、地球全体のことなのかがわからない。もし「地球全体のメリットを考慮して」ということであれば、人ひとりくらいいつどこで死のうが特に支障はないだろう。しかしともかく、このように個人のレベルを離れたメリットを考えると、嘘をつくべきかついてはいけないのかの判断はやはりカントの言うように「いついかなる場合でも嘘をついてはいけない」のが正しいような気がしてくる。事実に沿っても誰かが恣意的に嘘をついても誰かが害されるのであれば、事実に沿った成り行きのほうが全体としては自然なのである。

 

4.仏教の教え「仏も嘘を用いた」(結局よくわからない)

ここでもうひとつ、具体的なたとえを見よう。家に人が来て殺したい誰かを探すというパターンで、家の中に隠れているのが自分の子供だったらどうだろう。あなたは街で暮らすごくごくありきたりな家族の一員だ。ある日突然ドアが蹴破られ、殺人者が入ってくる。あなたはとっさに子供を押し入れに入れ、「黙っているように」と指示してふすまを閉める。侵入者は家のものを次々と殺し、あなたもやられる。息も絶え絶えになったあなたにその人は聞く。「もうほかに人はいないか」

この質問に対しては「あとは押し入れの中に子供が入っています」と答えるのが正直ではあるが、もしそう答える人がいたとしたら、その人は「人でなし」に値すると私は思う。この状況を考えると、「嘘も方便」は完全に許される。

「嘘も方便」というのは広辞苑によると、嘘をつくのはもちろん悪いことだが、時と場合によってはものごとを円滑に運ぶための手段として必要なこともあるということである。「方便」は、便宜的な手段の意であり、本来は仏教の教えで、一般大衆を救って悟りの世界へ導くためには、仏も嘘を用いたということから来ている。これが本当であれば、仏は「嘘も方便」を支持しているということだ。一般的に使われる「嘘も方便」ということわざが嘘をつくことを推奨する場面というのは、今私がたとえとして出したような命の危機に面した場合ではないかもしれない。しかし、「「嘘も方便」は道徳的に許されるのか」というテーマの立て方においては、「嘘も方便」が道徳的に許される場面が一つでも見つけられれば「許される」と言える。

加えて、嘘をつくべき場面を、その他多くの嘘をついてはいけない場面と分けている特徴は何なのかは、ここではわからないということにしておく。これは難しい問題であり、線引きというのはいつも完璧にはできないものなのかもしれない。