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【人文演習】「大人になる土台」(物語は与えられない、どうか作り出す土台を)

くらしとつながりの倫理学

1.「生きる意味などない」「だからこそ私たちは物語をつくって生きてゆくのだ、それもできるだけ楽しく共存してゆけるものを」

世の中面白くない、つまらない、と言う若者が刹那的な援助交際やクスリやリストカットや暴力に走るのは、世界には自分とは関わりなく既存の意味や価値があるという間違った思い込みのせいである、と工藤和男は言う。(1)「もし、すべては無意味ではないか、生きる意味などないのではないかという若者がいたら、そのとおりだ、自分と無関係にそんなものがあると思っているなら間違いだよ、と言ってやらねばならない。そして、だからこそ私たちは物語をつくって生きてゆくのだ、それもできるだけ楽しく共存してゆけるものを、と伝えるべきである」(2)と。物語とは、工藤によると、個々人の世界観、価値観であり、何が大事で何は捨ててもよいかの自分なりの価値の基準であり、この自分と関わる意味や物語の作り方を覚えることが大人になるということである。(2)

世界には自分と関わりなく既存の意味や価値があるという勘違いを抱いた若者が、あるはずだと思っている意味や価値を見つけられない世界に対して、面白くない、つまらない、という印象を持つのはやむを得ないことだろう。そして、そのように世界をつまらなく感じてしまう原因である誤った思い込みを打破し、自分と関わった世界の中に意味や物語を作りだしていくことは、生きていくために大切なことだ。意味や価値が見出せないところで生きていくことなんて苦痛でしかないのだから。

 

2.意味や価値を見出せずとも「存在していたい」という無言の叫び声

ただ、世の中なんてつまらないとしか思えなくなった若者が刹那的な援助交際やクスリやリストカットや暴力に走るという事態は、若者が間違ったことを思いこんでいるから起こる、だから、意味や価値は自分が関わったところから作り出していくしかない、ということを安易に解決としてしまってもいいのだろうか。そういうことをする若者が、あると思っている生きる意味が見つけられず将来への希望を描けなくなったために、刹那的でも確かな実感を追い求めるようになって、そのような行為にはまってしまうということがある程度あるだろうことはもちろん予測できる。しかし、自然と自分の関わったところに意味をつけ物語を組み立てることのできる若者もいるところに注目したい。自分の生きる意味をつくれる若者と、自分の関わる世界に意味をつくれず刹那的な実感を追い求める若者の間には、いったいどのような違いがあるのか。

リストカットしている人の多くは、同時に向精神薬の大量摂取で気分を高揚させ、所在なさを紛らわせている。その行為は、死への憧憬が誘因ではない。そこまでしてでもこの社会に存在していたい、という無言の叫び声なのだ」(3)と、自身もリストカットをした経験があり、多くのリストカットをする人へインタビューを行ってきたロブ@大月は言う。身体的な実感を求めることしかできない若者は、将来の希望をいくら実感として持ちたいと思っても、なんらかの理由があって持つことができず、それでもなんとかこの社会に自分を存在させたいと思った結果、体感を通してそれを危ういながらに実現させているのだろう。

 

3.自分の力を信じられるかどうかということについて、家族はとても重要な役割を担っている

自分に関わる意味や物語をつくれない理由を推測するに、リストカット経験についてロブ@大月が行ったアンケートで、ほぼすべての回答に共通する背景として「両親との不和」があった(4)ことから、家庭環境がその要因として大きなものであると見ることができる。「大人になることは物語作りを学ぶことだ、と最初に述べた。その最も土台になるのは自分の力を信じることだ」(5)と工藤は言う。自分の力を信じられるかどうかということについて、家族はとても重要な役割を担っている。家族は最初の共同体であり、おおむね自分が自分のままで認められるという絶対的な存在承認を条件としている(6)と、工藤は説明する。しかも「家族はいわばベースキャンプである。閉じこもるためにあるのではなく、開かれた共同体へと参加してゆくためにある。その意味で、家庭は地域へ、社会へとつながる戸口でもある。全面的な存在承認の土台の上に、社会で生きてゆく力が養われる」(7)。家族が自分を自分のままで認めてくれたという経験は、自分で自分の力を信じるときに強い後ろ盾になるし、社会で生きていく力を養うための土台にもなるということだ。

 

4.「自分のまま」で認められる場所が、誰もにあってほしい

ところが、ロブ@大月によれば「リストカットをする人の親は、子供に「理想像」を押しつけがちだ」(4)という。親が親の理想像を子供に押し付けるとき、子供が自分のままで認められている自分を感じられるかというと、まさかそんなはずはない。どこまでも高い親の理想と比較して、まったく敵いそうもない現実の自分に対し劣等感を抱くのが関の山である。自分の力も信じられないから、自分の関わった世界に意味をつけることができるなんて思いもしないのだろう。

自分で、自分の関わる世界に物語をつくっていくためには、ありのままの自分が認められる場所であるベースキャンプを持つ必要がある。幼少期に、最初の共同体としての家族が頼れるベースキャンプとならなかった場合、それからの社会の中でキャンプをつくっていくことすら困難なその人にはとても難しいしいことだろうが、家族以外の場所でベースキャンプをつくり、自分の力に自信を持てるようになることが、自分に関わる意味や物語をつくるためには重要なことだ。

また、昨今のグローバル化の中で、社会が私たちに何か単一の物語を与えてくれることがなくなったことが、自分で意味や価値を作り出せない人を苦しめることになっているのだろう。

 

 

くらしとつながりの倫理学

くらしとつながりの倫理学

 

 

(引用文献)

  1. 工藤和男『くらしとつながりの倫理学晃洋書房、2006年、p.92‐93。
  2. 同上、p.93。
  3. ロブ@大月『リストカットシンドロームワニブックス、2000年、p.18。
  4. 同上、p.13。
  5. 工藤和男、前掲書、p.99。
  6. 同上、p.124‐125。
  7. 同上、p.125‐126。