【宗教哲学】西田幾多郎という人「学問は畢竟lifeの為なり」
1.枯れ草を食む彼の文章は(西田幾多郎という人)
西田幾多郎は『善の研究』の序文の終りにゲーテの「ファウスト」よりメフィストの言葉を引用する。「思索などする奴は緑の野にあって枯れ草を食う動物のごとし」(1)。それは病かはたまた罰か。西田は「赤きものを赤しといはであげつらひ五十あまりの年をへにけり」という、哲学に対して諧謔的としか言いようのない和歌も残している。しかし、枯草を食む彼の文章はとても生き生きとして見えるのである。
私が講義で取り上げられた数多い哲学者の中から西田幾多郎をレポートテーマとして選んだのは、最後の講義で扱われた『場所的論理と宗教的世界観』に見られる死の問題に翻弄された西田の軌跡に共感を抱いたからである。だからその思想ではなく、思想から見える人をテーマとする。
2.喜ぶべきものがあっても共に喜ぶべきものもない、悲しむべきものがあっても共に悲しむべきものもない(死の自覚)
西田は、宗教心が我々に意識されるときについて「我々が、我々の自己の根底に、深き自己矛盾を意識したとき、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚したとき、我々の自己存在そのものが問題となるのである」という。そして「我々の自己存在の根本的な自己矛盾の事実は、死の自覚にある」。彼はある時期、立て続きに肉親の死に面している。姉のチフスに始まり、弟の戦死、五歳の次女、生まれて数ヶ月の娘、母、妻、二十二歳の長男。この時期の日記には「猫も死んでしまった」という記述があり、この「も」にどれだけの重みがあることかと小林敏明は指摘する(2)。西田の趣味に和歌があり、このころを詠んだ歌には講義でも紹介された「妻も病み子等亦病みて我宿は夏草のみぞ生ひ茂りぬる」というものがあり、これもなかなか状況の凄まじさを端的に表しているが、私は「わが心深き底あり喜も憂の浪もとどかじと思ふ」という和歌には、山本良吉への手紙で告白された心情が表れていおり、西田の思想とも深くつながっていると思う。手紙には「喜ぶべきものがあっても共に喜ぶべきものもない 悲しむべきものがあっても共に悲しむべきものもない もはや私といふものはないのだ」とある。関係する他者がなければ自己はないという考えは、『善の研究』で語られる「個人なって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」ということばと同意的であると見える。
死の自覚は、その人の一生を変える。人は、自分はいつか必ず死ぬものだというあまりにも当たり前な自然の真理を改めて自覚したとき、死を自覚しない時に持っていた価値観は消え失せる。代わりに見い出せるのは瞬間の価値である。西田の純粋経験という概念は、この瞬間の価値についての記述であると私は彼の思想を解釈する。
3.「西田節」の理由
もしかしたら、このように自分の感情にひきつけすぎた解釈は危険なものなのかもしれないが、西田という人の文章には、それを許すだけの寛容性がある、もしくは彼が彼の思想を言語という限られた形態で表現するためには寛容性の幅を持たざるを得なかったというべきか。小林秀雄が「グロテスク」だと評した西田の文章の特徴を、安良岡康作は「文体の粘着性」と「無構成の構成」に見る。「西田節」がこのような特徴を持つ理由を、小林敏明は歴史的側面と思想的側面から分析する(3)。歴史的には、1890年の言文一致運動に象徴されるように西田の育った時代は日本語の表記自体があいまいで定まらないものだったためと、哲学書の翻訳がほとんど存在せず西洋の書物を読む際に原書で読んでいたため、西田の文章は西田自身が試行錯誤を重ね、作り上げたものになった。しかしこの時代背景だけであれば、同時代の著述家はみな同じ条件である。西田の文章が独特なものと言われるのはまさに、それが彼の思想を表現するために作られたものであり、彼の思想が独特のものであったからに他ならない。
4.彼にとって書くことはそのまま考えることであった(『善の研究』は随筆)
西田節の思想的側面の要因は、彼にとって書くこととは何であったかと、彼が書こうとしていたものが何であったかということに集約される。まず、彼にとって書くことはそのまま考えることであったと同時代人の林達夫は批評している。
「思想家のうちには、書くということが考えることであるようなそういう「随筆家」型があるものなのだ。ところでもし我が国においてそのようなタイプに近い思想家を求めるならば、多くの人たちは意外に思うかもしれないが、それは西田幾多郎先生ではなかろうか。そして西田哲学において、多くの解釈家、批評家がいちばん見遁とされているものも、それはまさしくこの哲学者のフィロソフィーレンにおけるこの「随筆」的性格であるように思われる」
そうか、随筆だったのか、と私はこの林の批評を読んで、自分が『善の研究』を読む際に感じたことについて納得がいった。ちなみに西田もこの林の評を読み「本当に書くことが考えることとなるのでせう」と認めている。『善の研究』は私にとって読みやすい書物だった。もちろん小説のように読めるとまでは言わないが、カントの『純粋理性批判』で痛い目を見ていた私は、まさか哲学書がこんなに読みやすいはずがないと訝しく思ったのだった。しかし、なるほどそれが随筆であったならば、体系も何もないわけで、思考の波長の流れに乗ってしまえば文章を追うのが容易いわけである。小林によると「西田の著作は、『善の研究』などを除けば、ほとんどがあらかじめ綿密に建てられた構想に基づいて書かれたものではない。そうではなくて、ある直観的な着想と、いまだその行方も定かではない道行きがおぼろげに浮かび上がると同時に書き始められる、いわば生まれながらの試作品である」(4)し、西田自身も「これまで私のかいたものは草稿の様なものです」という言葉を残している。『善の研究』が一応は構想に基づいて書かれたものであっても、普段随筆ばかり書いている人が書く文章からは随筆の匂いが抜けきらないものであるし、『善の研究』中の「思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない」(5)という記述も、見方によってはそれが随筆であるから故と見える。
5.本質的に捉えがたく語りえぬものを書こうとする(実在の真相は芸術に近い)
次に、西田が書こうとしていたものは何であったのかというと、もちろん西田がその膨大な著作の中で扱ったテーマは様々だが、中心課題は「実在」であったと小林は察する(6)。この「実在」は、あるがままの事象とでも言うべきもので、物も出来事も行為もすべてを含んでおり、主格の対立も知情意の分離もあってはならないものである。これは本質的に捉えがたく語りえぬものであると言える。しかし語りえぬ「実在」をあくまでも希求した結果が、西田の詩的言語、言葉の節約・沈黙、神秘的表現に表れていると小林は言う。有限の言語で無限の内容を追う行為においては、言葉の先に何かを見せようとすればそれは言葉の側に屈折を強いることになるのである。「実在」を書き表そうとすることは、本質的な矛盾を伴った行為である。西田が書こうとしていたものは言語では表すことのできないものであったというこの性格こそが、西田の文章を詩的にし、解釈の幅を広くしているのだ。しかもこの詩的な言語使用の利点を西田は自覚していたと思われるのが、「学者より芸術家のほうが実在の真相に達している」(7)という言葉である。この言葉は、西田の文章を学問としてではなく、芸術として評価する可能性をも示唆しているようだ。上田閑照は「言語で理解されると、経験の焦点が理解されたもののほうに移ってしまって、やはり元の経験から離れる」(8)と言語で表された「純粋経験」の危険性を指摘するが、おそらくその危険は、西田が経験を言語化するときには逃れられないものだが、読者が西田の経験を言語で理解するときにはまったく心配いらないものだ。私は「純粋経験」をあらゆる個別的な経験の総称であると読み取った。そうであれば、元の経験と理解された経験が違う経験であっても、それはあくまでも経験なのである。注意すべきなのは、言語の意味としての経験ではなく、実際に経験された経験しか経験ではないというところだ。西田の文章の寛容度は高いが、その解釈の広がりは必ず言語の意味を越えたところに見られなければならないと思う。
6.「学問は畢竟lifeの為なり。急いで書物読むべからず」(動機は人生の悲哀にあり)
以上のように私は西田哲学における芸術的な解釈は許容されると考えるが、哲学をこのように読むことは弁証を重んじる人から見たら大雑把でしかないだろう。しかし西田においては彼もまたそのような人だったという事情も発見された。弟子の下村寅太郎は「先生はいかに尊敬する大思想家といえども全集を持たなかった。カントやヘーゲルの全集も先生の書架にはなかった。先生は主著しか持たず、ただ主著だけを読んだ。その思想家の骨をつかむことが究極目標であった。その骨を把握すればその読書は結了する」と証言するし、もうひとり弟子の高山岩男は西田が「本物の哲学者には必ず独自な考え方がある。書物を読むというのは、その骨をつかむことだ。少し読んでいって、納得のいかないような本なら止めてしまうがいい。ところが独特の考え方のある本なら、その骨がわかってしまえば、なにも最後のページまで読む必要はない」と言っていたという。私ではそこまでは言えないほどの大胆発言である。
彼がそのような読書法をしていたのは、何よりも「人生の問題」を重視していたからだった。「学問は畢竟lifeの為なり。Lifeが第一等のことなり。Lifeなき学問は無用なり。急いで書物読むべからず」今ここに自分が生きていることとは何か、その自問自答が「実在」をめぐる哲学となったのだろう。「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と西田は『無の自覚的限定』で言っている。西洋史では驚くことから哲学することは始まるとされているが、「ある」ことに驚くためには「ある」ことの悲哀が身に染みていなければならないのは、確かに少し想像すれば分かることだ。
(引用文献)