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【哲学基礎演習】神と言葉について

1.ヨハネ福音書1章1節「初めに言があった」

講義資料より、新約聖書の「ヨハネ福音書」1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(中略)言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とある。ロゴスは神の言葉であり、神は言葉によって創造を行ったのだ。

 

2.言葉が存在するところには概念が存在する

冒頭の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」とは、いったいどういう意味なのだろうか。言は神であるのか、それとも言は神と共にある、神とは別のものなのか。キリスト教一神教のはずである。なので、言は神であるが、真の神ではなく、神と共にある神なのであるというふうには説明されないように思う。初めにあったのは言である。言は神よりも先に存在したのか、いやこれは、言葉がなければ神は存在できないという意味だろう。言葉は概念である。概念があって、初めて存在するものが言葉であり、よって言葉が存在するところには概念が存在する。生まれてから一度も草原を見たことのないイヌイットの人々が草原という言葉を持たず、またいくら説明されてもその意味を理解しないように、言葉は概念であり、存在なのである。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」というのは、このことを言っていると解釈することができる。同じことは神についてもいえるだろう。神という概念を持たない人は神という言葉を持たない。よって、神という言葉を使った人は、それをどのような文脈で使ったにせよ、神という概念を持っていることを、使用したというまさにそのことで示すことになる。だから「神は存在しない」という言明の意味を取ることは非常に難しいのである。神という言葉を使ったということは、その人は神という概念を持っているということになる。存在しないというときに何を存在しないと言っているのかを、その人が神という言葉で表しているものなのかをはっきりとさせなくてはならない。

 

3.概念として存在する「神」の否定は可能か

そしてまた、私は「神は存在しない」ということはあり得ないのではないかと考える。なぜなら、わたしが神という言葉を使うときに表わそうとしているものは、感覚で把握できるような実体をもったものではないからである。そしておそらくは、神という言葉を使用するほとんどの人も、神を直接自分の眼球の網膜に映すことができるなどとは思っていないのではないだろうか。感覚でとらえることはできないもの、それはまさに概念であると私は思う。だから、神という概念は、神という概念が存在するということで存在することになると思うのである。

言葉は概念であり、存在なのであると言ったときに、注意するべきことは、その存在がその人の中での存在であることである。先の例にしたがうと、イヌイットの人が草原という言葉および概念を持ち合わせていなかったとしても、たとえば私たちの使う日本語はまさに「草原」という言葉を保持しているし、英語でいえば「field」という言葉がある。つまり、イヌイットの人たちがないと思っている、もしくは概念を持ち合わせていない「草原」は、世界の草原のある地域に住んでいる人々にとっては、実体験に基づいて確実に存在しているといえるものなのであって、客観的にみて現実として存在している。イヌイットの人を草原のあるところまで連れて行って、「これが草原だ」と言って説明することができるのだ。一方のところ「神」は、神という概念を持たない人に向かって「これが神だ」と言って、易々とわからせることができるようなものではない。神は神という概念でしかないからだ。

 

4.インド実在論においても、言語表現されるものは全て実在する

また、言葉は神であり、全てのものは言葉からつくられたとするのは、キリスト教だけではない。たとえばインド哲学のウッダーラカ・アールニは『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』で、次のようなたとえを用い説明する。「愛児よ、一つの土塊によって土よりなるすべてのものが知られたものとなりうるように、土よりなる世界の多様な諸事象は、ことばによって産出されたものであり、単なる名称であり、土があるということのみが真実である。(中略)愛児よ、一つの爪切りによって鉄よりなるすべてのものが知られたものとなりうるように、鉄よりなる世界の多様な諸事象は、ことばによって産出されたものであり、単なる名称であり、鉄があるということのみが真実である。愛児よ、このようなものがかの秘法である」インドの実在論でも、全ては知られるものであり、かつ言語表現されるものであり、また逆に、知られるもの、言語表現されるものは、全て実在であるということを根本主張としている、と宮元啓一は言う。定義上、私たちは論理空間の外について知ったり、語ったりすることはできない。よって、世界のありとあらゆる事実は、この論理空間に収められる。論理空間の外を切り捨てたとき、実在するのは論理空間だけとなる。つまり、知られるもの、言語表現されるものは全て実在なのである。

 

5.今ここには存在しないという意味の否定

とはいえ、日常的に「神は存在しない」という文は十分に意味を持っている。それはなぜかというと、「水がめの無」というたとえ話に、そのヒントがあるように思う。「水がめの無」というのは、ある人が「水がめがない」と言ったときに、水がめというものが存在しないのではなく、たとえばその人の家の台所には水がめがないということなのである。ただ言語で表現できるのは、そこに水がめがないということのみであり、水がめというものが存在しないということは、そもそも言うことができない。水がめという言葉が何ものも意味することがなかったとしたならば、「水がめがない」という言葉も、何の意味も持たないものとなる。だから、「神は存在しない」というときも、神はいるのだと言える。神という言葉によってその人に思い浮かべられているものの存在はある。神は存在した、もしくは存在しうるものとして「神」として言い表されており、ただし今ここには存在していないということなのだ。

 

6.無神論者の神

これによって、何の宗教も信じていない人の中にも神はいると考えられる。仏教学者の末木文美士は『仏教vs.倫理』で、「神は自然現象そのものではなく、その背後に潜む非日常的な存在と考えられる。神は〈人間〉の秩序の限界において、あるいは〈人間〉の世界のわずかな隙間に現われる」と言う。人間の秩序には、必然的に限界もあるし、隙間もあるので、神が現われうるところは確保されている。何の宗教も信じていない人はどのようなあり方をしているのかといえば、困難や解きほぐされることのない問いにぶつかっていないか、もしくはその人が神だとみなしている概念が、既存のどの宗教のものとも異なっているかのどちらかであろう。前者はおそらく人間の秩序の限界を意識すらしていないかもしれないが、後者は自分で自分のための宗教をつくって持っている状態であるということができる。

 

仏教vs.倫理 (ちくま新書)

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