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【哲学基礎演習】上田閑照『私とは何か』の要旨と感想

私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))

1.自我の自意識から自覚への転換には、一種の目覚めを誘発する衝撃がある

まず「自覚と自意識」の節について要旨をまとめる。

「我は我なり」と言いつつ「我」が開かれる場合の「我」を自己、「我」が閉ざされる場合の「我」を自我と呼ぶことにした。自己とは「我は我なり」が否定によって開かれた「我は、我なり」であり、その自己が否定を表明化して「我は、我ならずして、我なり」というのが自覚である。一方、自我とは「我は我なり」が自分自身から離れられずに一押しに「我は我なり」となる「我」であり、そのときに「我は我なり」と言うのは自我の自意識である。

自覚は、「我」が置かれている場所に「我」が「我ならず」して開かれ、その場所の開けに照らされて「我が我を知る」ことである。この開かれる場所には、環境や歴史的社会や人と人の間などのほかに、そのような「世界」に収められない、死の問題をくぐって生きられる「いのち」の場所としての世界を超えつつむ虚空がある。世界のうちにあるということは世界を包む限りない開けのうちにあるということであるというふうに、世界は二重性を持っている。そして、「我なくして」世界をつき超えて虚空にまで開かれてはじめて、真に「開かれる」が成立する。始めて真に世界に開かれ、それから具体的な世界内のさまざまな場所に真に開かれるのである。つまり、限りない開けに開かれ、「世界/虚空」を場所とすることが真の自覚であり、そういう自覚としての真の自己があるのである。

逆に「我」が閉じて一押しに「我は我なり」となった場合、それは自意識というものになるが、ここには、この自意識の「我」も人間存在として必然的に場所、そこで他者と交わり物事とかかわる場所において存在するという重大な事態がある。この場合は、場所に存在するというより、半開きの状態で「我」に粘着している自分、場所に開かれないままの自分を場所に押し込んでいるというような状態である。したがって、場所に開かれていない自意識の自我にとって、場所はやはり外であり、外と写るものである。狭い自我空間の中では、外と我は刺激しあいつつ絡み合い、自意識はますます高じていき、それにつれて自意識も自我は自縄自縛的にますます不自由になってゆく。しかし、自意識の自我からの脱却は決して不可能ではない。

では、どのようにすれば可能なのだろうかということで、自我の自意識から自覚への転換を考察すると、「我は我なり」が切り開かれて開けに出る、そのきっかけに、一種の目覚めを誘発する衝撃がある。この衝撃は、「我」にとっては外からの一打でなければならない。内からの脱却の要求とそれに向けての努力、あるいはうちの問題化による緊張は、目覚めの必然的な前提ではあるが、「我は我なり」は内から目覚めることはできないので、初発は外、しかも無限の外からでなければならないのだ。そして自覚の発端となる出来事は、言葉を絶する、つまり言葉を奪って起こり、その出来事は言葉で表され自覚される。この自覚には、さらにもう一元の展開があらざるをえないが、ここでは示唆されるにとどまる。

 

2.私なるものは存在するのか

次に「無我ということ」の節を要約する。

「私とは何か」と問うときに、まずは私なるものは存在するのかしないのかということが問題になる。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言い、私は存在するとした。西洋近・現代では、いわゆる「超越論敵〈我〉」の考え方を持っており、「私なるものは存在する」とされる。古代インド思想においても同様に「我」は「存在するもの」と理解される。一方、仏教では「無我」と言い、これは「そもそも私なるものは存在しない」という意味であると説かれるのが通常である。

世界思想史のうちに、このようにまったく正反対の答えが実際に出されているのはどういうことなのだろうかというと、おそらくこの事態は、「私」ということがそもそもその両極端への可能性を含んでいるゆえに起こっているのだろうと思われる。「私」とは本来「私は、私ならずして、私である」ということであった。それは肯定と否定とからなるので、「私」には原始的な不安定性とでも言うべきものが備わっており、「私」はその不安定性を乗り越えて「私」であろうとするわけだが、そのとき不安定性をどのようなものに感じるかによって、それをどちらの方向に乗り越えていこうとするかが違ってくる。この違いが、先にあげた両極端の「私」観につながってくるのだろう。「私ならず」というところの度を高めると、無我の立場が成立し、「私である」というところの度を高めると超越論的我の立場が成立する。

「私なるものはない」と言う仏教の基本思想では、「すべては関係のうちにある」というふうに、関係性に存在が見られることになる。もちろんこの関係も、「我なるものはない」のだから、「存在するもの」と「存在するもの」があって関係するのではなく、「関係するもの」もまた関係から成立するということだ。しかしただ、私なるものはなく、存在するのは関係性だけであるということにすると、自発性や責任などの人間にとって基本的な事柄の場所がないことになってしまうので、そこには否定された実態ではない「我」が新しくある。「我なし」の無は関係をとおり超えて関係の究極の場所である限りない開け、いわば「永遠の無」にとどくものだ。関係の中の一点である「我」は、この無から関係性を通って働き、全関係性に新しい変化をもたらすことができる。単に関係に解消されるのではなく、無に透けているものとしては「我」は「夢」である。

「私なるものは存在する」と見る立場には、二つある。ひとつは経験を可能にするのは「私」の構成力であるとする。構成する「私」自身が、「私」に与えられるものを構成すべき「私」に与えられる素材と考える。この立場はデカルトの延長線上にあり、近・現代の哲学のひとつの主導的な立場をなしてきた。もうひとつの立場では、「私」主観による構成を承認しながらも、構成以前に与えられるもののほうを原経験とし、その後での主・客の枠による構成を原経験のさまざまな相対化による展開とする見方をする。

以上見てきたような「私なるものは存在するのか」という問いに対する両極端、正反対の二つの見方はいずれも「我は、我ならずして、我なり」という構造に照らし合わせてみると、「我なるもの」について理論的偏りがある。この理論的偏りによる自己理解のために、私なるものは存在しないとする場合は自己喪失の自己義認となり、存在するとする場合では自己固執の自己義認となり、どちらも実存そのものを歪めることになる。

 

3.夏目漱石「私の個人主義」と「則天去私」

最後に「「私の個人主義」と「則天去私」」の要約をする。

英文学を研究する事を職業とした夏目漱石は、異なった文化の伝統の中で育った日本人である自分に英文学が本当にわかるのかという問いに苦しんだ。ロンドン留学中に漱石は「文学とはどんなものであるか、その概念を自力で作り上げるよりほかに私を救う途はないのだと悟った」と言う。自分にほんとうにおもしろいと思えたらおもしろいと、おもしろくなければおもしろくないと言えばよいのであり、西洋人ぶらずに自分で判断することが英文学が世界の文学になる道となる。このような態度を漱石は「自己本位」と言った。そして、このような「自己本位」は、単に英文学研究上のことにとどまらず、つまり「独立した一個の日本人」としてだけではなく、さらに「一個の夏目漱石」として、人間としての「自己本位」というあり方につながった。自分は自分だという、そこにしっかり腰をすえて生きていくということである。これによって漱石は、生きられるという存在の力が湧いてきた。明治の開化は外発的なもので、日本人はそれにつれて自己本位の能力を失った。

また、大病を患った「三十分の死」の経験ののち、漱石は、本当の自分は自分を捨てることと結びついていると自覚する。これと、自己を取り戻すことに目覚めた留学中の「悟り」をあわせ、漱石の言う「自己本位」は、ヨーロッパの伝統における人間の自覚と、東洋の伝統における人間の自覚とが、ひとつの連関で結びついて生きられる可能性が含まれていると言える。 自由な個人でありながら「私を去る」と言うことにおいて始めて「自と他」を「自と他」たらしめる「自己本位」になってくる。

そしてそれには「深い背景がなければならぬ」。自己本位が本当に確立されるためには、自己の根においてエゴイズムの現実化が何らかの仕方で立たれているか、あるいは、エゴイズムをも含み含めてなおかつ自他が成り立つ高次の場所に自己が開かれていなければならない。自・他の問題は「自分で」では解決できないようなところが根本にある。

漱石にとって「ありのままに」核ということは、ほとんど「成仏」というほどのことだった。ありのままをありのままに書きうる人は、その人が何を行ったにせよ、書いた功徳によってまさに成仏することができる、と漱石は信じていた。そのような人は、「強烈なインデペンデントの精神を持った猛烈な自己」であり、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならない。

 

4.「私は、私ならずして、私である」という考え

本書全体の著者の考えについていうと、私はただ、この著者が非常に長きにわたってこの「私とは何か」という問題と向き合ってきたのだろうということに感心するところが多かった。仏教あるいは西洋哲学の考えに乗っかることなく、自分で自分を見つめた結果が、著者にとっては「私は、私ならずして、私である」ということだったのだろう。これは漱石の言う「自己本位」という生き方にも通じるあり方であろう。私にとってこの著者の考えは、自分についての問題を見るうえでの新しい切り口のひとつとなった。

 

 

私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))

私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))