哲学生の記録。

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【心理療法】読書と私

「自分」はどういう人間なのか?この問題に簡単に答えられる人は、どこにもいないと思う。人は、どんな人でも、そう単純ではないし、その人の特徴を一言で表すことができる言葉があるとは思えないほど、多面的である。特に、「自分」については、あの人と一緒にいるときにはこういう面を見せるが、こういう状況ではこんな振る舞い方をしたりもする、というふうに、ひとりの人間が場面によってさまざまな特徴をもち合わせるように見えることがあるが、自分は「自分」についてのほぼすべてを見ているということができると思うので、逆に、どの特徴が最も「自分」を適切に表したものなのかは、自分ではわかりにくい。

そこで、自分を理解するための手がかりとして役に立つのが、他人の言葉だ。クライエントがカウンセリングに求めていることのうちにも、これは大事なことであると思われる。自己に対する気づきは、今後の状況を改善してくために重要なポイントになりうるからだ。

私は、「論理的だ」と言われることがある。就職活動中に「あなたはどのような人ですか」と聞かれ、「私は論理的です」と述べたところ、「なるほど、その通りですね」と非常に納得してもらえたこともあるので、初対面の面接官からみてもそう見えるほどの客観性をそなえて、私はその特徴を持っているようだ。私が論理的だとみられる要因は、おそらく二つある。それは、口を開く前に考える時間がやや長めであり、内容の一貫性や因果性をよく考えていることと、話しかたがやや文語に近く、あらたまった場では特に接続詞などの文と文のつながりの関係が適切であるように気を使っていることだ。

私が論理的になったのは、本を読むことが子どものころから好きだったからだと思われる。論理に多く接し、親しむよりほかに、論理的になる理由は思い当たらない。文章を読むことをとおして、そのような思考の表現パターンを身につけたのだろう。では、なぜ本ばかり読んでいる子どもだったのかというと、内向的で好奇心が強かったという性格の側面と、両親が共働きのため、家にひとりでいる機会が多くあったという環境の側面のほかに、本は楽しいものだという考えを身につけていった学習の過程があったと思われる。

学習理論によれば、行動は強化子によって強化される。強化子が、正の強化子であれば行動の頻度が増加し、負の強化子であれば行動の頻度は減少する。私にとって、読書という行動を強化した正の強化子は、母とお菓子だった。幼いころは、母が絵本を読み聞かせてくれた。私の母は保育士をしていたため、読み聞かせという行為を普段からよくしていたし、本好きな子どもに育ってほしいという願いからそうしていたというのもあったのだろう。母親が自分と一緒にいて、かまってくれるということは、このころの子どもにとってはそれだけでも幸せな時間になるのだと思う。

三年後に弟と、その二年後に妹が生まれてからは、母が読み聞かせをしてくれた記憶はない。いろいろ忙しくなったからだろう。そして私は、ひとりで暇なときには、本を読みながらお菓子を食べるようになっていった。読んでいた本は、家にある本ばかりではなく、小学校に上がってからは特に図書館や学校から借りてきた本も多数あったので、普通は「本が汚れるからやめなさい」「行儀が悪い」と叱られていてもおかしくない。しかし、子どもが三人もいて、両親が共働きで、祖父母と同居しているわけでもない家庭においては、おとなしく部屋で本を読んで遊んでいる長女は、ほかっておかれるのが常である。レバーを押すとエサがもらえると学習したラットがレバーを押すように、本を読んでいれば自動的にお菓子がもらえるというわけではなかったが、私は自分で無意識的に本を読む行動とお菓子という強化子をセットで経験し続けていき、小学校高学年のころには、近所でも有名な本好きな子どもとして、友だちの親などから褒められるくらいになっていた。

ませすぎた恋愛小説などを除けば、本を読んでいて大人から咎められることは、まずない。読書能力は、学校の成績と密接にリンクする確率が高いからだろう。問題を解くにはまず問題文の意味を正確に理解することが必要であるということもあるが、活字の文面から具体的に想像する力、論理的に文章を読解する力、抽象的な概念を取り扱うことに対する慣れ、などを持っていることは、たいていの教科の勉強で有利に働くものである。実際私も、本がおもしろすぎて試験勉強を怠ったとき以外は、そこそこ悪くない成績を維持してきたと言える。

ところが高校に上がったとき、私は本ばかり読んできた弊害に気がついた。それは、読書という趣味に没頭することが、私の内向的な性格と合致することによって、人付き合いが苦手になってしまっていたということだった。中学までは、長い付き合いの友だちがおり、私が「こういうやつだ」ということを理解してくれていたのだが、高校に上がって知らない人達ばかりのクラスのなかで友だちを作らなければならないとなったときに、私は困ってしまった。本の中でなら、いくらでも文脈を読んでその後の展開を予想することができたが、現実ではどうしたらいいものかさっぱりわからなかった。このとき、そのまま「友達なんていらない」と本の世界に引きこもることも選択肢としてはあったのかもしれない。しかし何というタイミングか、私はそのクラスで好きな人ができてしまい、どうにかして現実にうまく人間関係を作れるようになりたいという欲求を持つことになった。

この状況に対処するために私が考えた行動の変革は、極端で思い切りがよく、根本的すぎるために直接的とは言い難い方法だった。今考えると、「朝、おはようと挨拶をすること」「休み時間は本を読まないで、なるべく近くの席の人などと話してみること」や、「自分から積極的に人の輪に入ること」といった、小さなことからはじめいくというスモールステップ的な方法でも充分だったのではないかと思われるが、このとき私は、「日常生活のなかで本に接することを、授業などで必要に迫られたとき以外はやめる」ということを決意した。そして、この大胆な変革は成功し、高校時代はほとんど本を読まずに過ごした。なぜいきなり、それまで大好きだった「本を読む」という習慣を断ち切ることができたのかというと、その好きになった人がハンドボール部に入部するというので、私も、それまで縁のなかった運動部につられて入部してしまい、練習、練習で、家に帰ったら疲れて眠るだけの日々を送ることになったからだと思う。部活は結局、ハンドボールの激しく戦闘的で、チームプレーが必要となるところが性に合わなかったのか、やはり運動があまり好きになれなかったからか、半年後にはやめてしまったのだが、改めて今思っても、人を好きになるということはすごい力で人の習慣を変えることがあるのだと思う。