【哲学基礎演習】エラスムスの紹介
1.エラスムスとは
まず、エラスムスというのがどのような人であったかというと、ルターはエラスムスのことを「彼はうなぎのような人間で、キリスト以外に彼をつかまえられる者はいない」と評しています。とらえ難い人であったようです。
彼は司祭の資格を持つ聖職者でした。
とらえ難さの一因として彼の思想や著作の領域の広さがかんがえられます。とりあえず、宗教改革史とキリスト教史において大きな役割を果たした人ですが、西洋史の中では、人文学者として古典研究史、出版文化史、政治思想史などにも名前が挙げられていますし、キリスト教的なものでは、教父研究、新約聖書学、広い意味での神学史などにも登場します。
著作の幅広さについては『格言集』『対話集』『文章用語論』『痴愚神礼賛』『死の準備のための説教』『キリスト者兵士提要』『自由意志論』『神の無限な慈愛について』『世の蔑視について』『反蛮族論』『校訂版新約聖書』『平和の訴え』というふうに、タイトルを見ただけでも多様なものを書いていることがわかります。
また、貧者の世話と教育を重要な仕事とする修道院で生活した者の典型に、四世紀から五世紀にかけて生涯を聖書研究にささげた聖ヒエロニムスがいますが、エラスムスは、新約聖書の注解とこのヒエロニムスの全集刊行に全力を挙げていたことから、業績上その後継者というべきです。
2.人文主義
エラスムスは代表的な人文主義者でした。人文主義者というのはいわば文系であり、伝統的スコラ学者たちという理系の人たちとは多くの点でそりが合いませんでした。人文主義者はプラトンの文体と議論を好み、アリストテレス主義を基本とするスコラ思想を嫌いました。人文主義者の理想とする文体や人間像からして、スコラ学者の無味乾燥で奇妙な新造語や面倒な弁証にあふれた文章は滑稽なばかりでなく、一種の生理的憎悪感を呼び起こすものであったと想像できます。この両者の対立は理性的論理的というより、資質的感覚的レベルだったのでした。『痴愚神礼賛』は人文主義者のスコラ的思想や伝統的思想様式に向けられた揶揄と侮蔑のもっとも著名な例のひとつです。
3.年譜
エラスムスは1460年代後半にオランダのロッテルダムで生まれました。誕生した年には1467という説もあり、はっきりとはしません。1483年、エラスムスが14歳のときに母親が疫病で死に、そのあとをおって父親もほどなくしてなくなります。
1469 オランダ・ロッテルダムで生まれる。
(司祭と医師の娘のあいだに正式の婚姻外で二人の次男)
1483 両親を相次いで亡くす。
1486‐88 ステインのアウグスティヌス修道会の修道院にはいる。
1492 司祭叙階誤カンブレイの司教の秘書として仕える。
1495 パリ大学に学ぶ。
1499‐1500 イギリスに滞在。ジョン・コレット棟と知り合いになり、キリスト教ヒューマニズムと聖書と教父に基づく進学を知る。ヴェラの聖書原点に接する。
1500 『格言集』
1503 『キリスト者兵士提要』
1506‐09 イタリア滞在。トリーノの大学から神学博士号授与。
1509‐14 イギリス滞在。
(1511年 トマス・モアの館で『痴愚神礼賛』を書く)
1514 バーゼルに移り住み、アウグスト・フローベンを知り、彼の書房を自分の著作の印刷・出版元とする。
1516 バーゼルで『パラクレーシス』、『校訂版新約聖書』(『ギリシア語・ラテン語対照・注釈つき新約聖書』)、『キリスト者君主の教育』を刊行。
1517 『平和の訴え』
1518 『対話集』
1520 『反蛮族論』
1521 ルーヴァンからバーゼルに帰る。
1524 ルターへの反論、『自由意志論』を発表。
1529 混乱を避け、ドイツフライブルグに避難。
1535 再びバーゼルに帰る。
1536 七月十二日バーゼルのフローベンの家で死亡。
※エラスムスの思想と生活に重大な影響を与えた歴史的事件
1440頃 グーテンベルクによる印刷術の発明
1453 東ローマ帝国の滅亡とトルコによるコンスタンティノープルの占領
1517 ルターの宗教改革
4.グーテンベルクの出版革命
従来は写本によって図書が製造されていた。
1440頃 グーテンベルクによる印刷術の発明
ヨーロッパ各地で出版印刷業者が出現、書籍の氾濫。
監修・法律的に不備な印刷術を取り囲む情勢。
(著者、出版業者、印刷業者に対する規定・保護なし)
→売れる本は勝手に印刷販売
『痴愚神礼賛』
1511-1520の間に14以上の異なる出版社から35班印刷される。
20万部を超すベスト・セラー(当時の通例:500~1000部)
親友バーゼルの出版業者Flobenに生活を支えられる。
5.『痴愚神礼賛』
・馬鹿さ加減が増せばますほど、人間の生活はますます豊かになる。
・生命そのものにまして甘美で貴重なものなどなく、生命の始まりは痴愚神のおかげ。
・愚かな人たちはまじめな仕事をとりあげて娯楽を楽しんだあげく、鈍感ではない読者が厳格で輝かしい議論から引き出してくる以上の成果を、愚かな人たちはこれらの愉しみから得てくる。
・痴愚はさもなければ移ろいやすい若さをひきとどめ、好ましくない老年をはるかに遠ざけておく。
・愚かでない人などいないので、人を愛する友愛もまた愚かさ。
・至福の肝腎な部分はあなたがあるがままでいたいと思うこと。うぬぼれはその近道。
・人間の屑は窃盗や殺人などいろいろなことを成し遂げるが、夜の灯火のもとで勉学に励む哲学者によって成し遂げられることなど何もない。それどころか哲学者たちは、生活に必要などんなことにもからきし役に立たない。
・ものごとをうまく運ぶために知性は邪魔になる。
・愚かしさが市民社会を生み、それによって国家も行政制度も宗教も議会も法もしっかり維持されている。
人間生活=痴愚の戯れ
・恥辱・不名誉・避難・悪評は感じ取れる者だけを傷つける。
・全ての人に避難されても、自分が自分自身を喝采するなら傷つくことはない。
←愚かさのおかげで可能
・「智者の心には嘆き、愚者の心には喜び」(『マタイによる福音書』一章四節)
頭がおかしければおかしいほど幸福であり、智慧が増えると悩みも増える。
愚行を重ねて楽しい人生を過ごすように振る舞う
or
自分の首を吊る梁をさがす
・赦しを求めるとき、愚かさが理由に挙げられる。
→愚かさであれば赦される。
・大事にするもの
俗人:肉体と親しい事々
敬虔な人:見えない精神的なもの ←気が狂っている
「戯文」旅の終わりの徒然に執筆された成立の事情と、揶揄や皮肉と諧謔に満ちた内容
→しかし、ただの戯文ではなく、司祭として聖職者の一員であるエラスムスの、当時の教会および神学者たちの実情と彼らを囲む情勢に対する警世の書。彼は婉曲に叙述しながら当時の世相を批判し、聖書学者としてその知識を駆使してキリスト教の本質の説こうとした。
その評判から皮肉の対象とされた聖職者たちの怒りをよび、1527年にはパリ大学神学部によって『地具申礼賛』の断罪、1559年には教皇パウルス四世によってエラスムスの全著作は禁書目録に加えられた。
6.ルターとエラスムスの自由意志論争
1517年10月31日 ルターがウィッテンベルクの教会の門にローマ教会に対する915条の質問状を貼り出し、教皇レオ10世のローマのサン・ぴ絵と理性道改築のための免罪符に反対する。(アウグスティヌス以来の人間救済に対する人間の意志と神の恩寵の関係に関する神学上の大問題)
ルター:人間の救いは全面的に神の恩寵のおかげ
ローマ教会:ある程度伝統的に人間の自由意志の寄与を認める
エラスムスは、1519年にルターから支援を求められるが応じず、23年教皇ハドリアヌス6世からルター論破の要請を受けるも応じなかった。性格的に争いを好まず。
1524年、ルターへの反論として『自由意志論』刊行。
(原罪後も人間の知性と意志は、傷ついたとはいえ、真理を選別し前向きに努力する力を備えており、聖書の説くように人間はその救いに向かって神の恩寵と協力しうる。)
ルターのエラスムスへの反論『奴隷的意志論』。
(人間の意志の救済に対する無効性を説く。)
ルターはこの中で、彼の主張を最もよく理解したのはエラスムスであることを認めながらも「私は、その文体の典雅さをのぞけばこれほど説得力に欠ける書物にお目にかかったことはない」という。
エラスムスは、自己の意見を開陳しようとしたが、他人を説得し引きずりこむことは、むしろ好まない人間だった。
(参考文献)
J.マッコニカ、高柳俊一・河口英治訳『エラスムス』教文館、1994年。
木ノ脇悦郎『エラスムス研究 新約聖書パラフレーズの形成と展開』日本基督教団、1992年。
エラスムス、大出晁訳『痴愚礼賛』慶応義塾大学出版会、2004年。