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【博物館実習】柳宗悦・民藝の美

民芸四十年 (岩波文庫 青 169-1)

1.民藝の性質・実用的で普通品

柳宗悦は、民衆的な工藝という意味で「民藝」という言葉をつくった。それは一般の人々が日常生活の中で使う器の中に美を見出すという思想だった。民藝の性質として柳は、実用的であることと普通品であることの二つを挙げている。民藝は、華美で豪奢な一品ではなく、使い勝手がよく安価に大量生産されたものなのであり、その作者は著名な個人ではなく無名の職人たちだ。そのような民藝の内にあって柳の心を捉えた美しさとはいったい何であったのかというと、それは自然さという一言に集約できるだろう。柳は「自然さ」と「美しさ」が同意義だと考えている。そして「自然さ」を産んでいるのが、民藝の性質としての実用的であることと普通品であることだ。

 

2.民藝の美は無心の美

 柳によれば、雑器の美は無心の美である。まさに作り手が無名の職人であることからその名が銘記されない器は、仕えるためであって名を成すためではない作となり、無慾である。そこには作り手の個性や自己主張がない。作り手がその価値について無邪気であったからこそ、民藝の美しさは産まれたのである。また、それが大量に生産されたものであったことも、民藝が無心の美を体現するものとなった要因だ。無名の職人が日々の糧を得るためにつくる雑器をつくる作業工程は、素早く単調な反復からなっていた。この繰り返しが器に単純さを与えるのであり、単純さを離れたところに正しき美はないと柳は言う。このようにして民藝は、人によって作られたものでありながら作り手の個人的な意識の介入を許さない、自我を超えたものとなっているのである。そして、民藝が実用的であるがゆえに美しいというのは、実用と美を関連させることで美を冒瀆しているとさえ思われもしたが、そこに見られる健康さは用から生まれた賜物であり、平凡な実用こそ、作物に健全な美を保証すると柳は言う。貧乏人が毎日使うものは凝った技巧では作られず、何よりも単純な用途のために丈夫に働く必要がある。人の生活を支える物としてのそもそもあるべき姿が、実用的であるということだ。

以上のような柳のいう民藝の美は、評判や知識によって引きずられることなく、直観によって見出されるものである。直観というのは、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見ることを言う。見る眼と見られる物とが一つになることでもある。そこに見られる美しさは人間が本来的に帰りたくなる故郷だといえるものだ。

 

3.現代日本における民藝品

では、現在には柳が説くような民藝品はあるかというと、ありはするがその数はとても少ないのではないかと思われる。冷たい工場の組織と機械と労働とは、民藝の正当な発育には不向きであり、誠実な器物を産むには適さないと柳は述べるが、現在の日本では普通の人々が日常で使用する器のほとんどが工場で作られたものとなっているからだ。大勢の人に届ける実用品であるという性質から当然産業として発展されなければならない民藝であるが、手工藝の衰えによって、手工藝で作られた器は今やそれだけで比較的高価なものと化している。日本人の日常生活ほど選ばれた器物で暮らしている国民はほかにないかと思われると言える時代は過ぎてしまったのかもしれない。直観に優れていた日本の眼が現在も生きているのかが不安である。

 

4.二種の美の興味深さ

 最後に、私は柳のいう民藝の美については、これもひとつの美しさの形でありことには大いに共感するが、実用性と関連させることが冒瀆となる類の美しさの基準も確かにあるのであり、両者は一線を画して論じるべきであると感じた。実用性と関連付けられない美しさのほうは人間の精神の病みを映したものとしての芸術であり、これも人の心を惹きつけるものではあるが、実用的な普通品である民藝の美とは対極に位置しており、美とは何であるかという問いの奥深さには恐れ入るばかりだ。民藝の美が実用性に基づくものであるという点に関して、生活に即した実用といったときに、普通の民衆という枠でくくられた人々の生活は決して均一ではなく環境や身体によった多種多様なものであることから、日々使われることを目的として作られた民藝は、作り手の自意識は入りこまないものであるのに、使い手はその美を見極める直観において適切な自己把握をおこなっていなければ物の実用性を生かしきれないことを興味深く思った。生活の中で使われるために作られた民藝品の健全さや自然さを、使い手の生活のない日本民藝館で柳がいかに提示して見せたのかも気になるところである。

 

参考文献:柳宗悦『民藝四十年』岩波文庫1984年。

 

民芸四十年 (岩波文庫 青 169-1)

民芸四十年 (岩波文庫 青 169-1)