哲学生の記録。

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【宗教哲学】理性と信仰(共になくてはならぬもの)

1.哲学は理性を、宗教は信仰を

哲学は理性を、そして宗教は信仰を、それぞれの心的活動を行ううえでのよりどころにしている。このことをP.Tillichは「哲学は根底から問うという姿勢、すなわち、問うということに関しても問うような姿勢であり、また、すべての事項についても、それらが根底的な問いに対して具体的な答えを与えることができる限り、問いかける姿勢である。一方、宗教は、無制約的なもの、存在の彼岸にあるもの、つまり、存在に対して存在を、意味に対して意味を与えるところのものによって完全に捉えられた状態である」(1)と述べる。哲学における心的活動のよりどころとなる理性にとっては、いかなる先入観をも所有することは決してあるべき姿ではなく、理性はただすべてのことに対してひたすらその根底にあるものを見ようとし、その本質を求めるのである。そして、宗教という心的活動の行ううえで礎となるものは信仰であり、信仰とは、端的に言ってしまえば、神によって自分と自分の世界を所有されることである。神によって所有される状態は、すべての答えを与えられている状態、答えの中に立っているという状態であるといえる。ただし、ここで与えられる答えは、信仰によって初めて答えとなり得るような答えでしかなく、先にあげたP.Tillichの引用中に「存在に対して存在を、意味に対して意味を与えるところのもの」という表現がみられ、これはおそらく神をあらわしているのだろうと考えてよさそうではあるが、たとえば、存在とは何かという問いに対して存在であるという答えを与え、意味があるとはどういうことかという問いに対して意味があるということであるというふうに答えることは、哲学においては成り立たず、これは結局何も答えていないとみなされる。

 

2.哲学は姿勢であり、宗教は状態である

ただし、ここで注目しなければならないのは、哲学は姿勢であり、宗教は状態であるという点であるように思う。姿勢は常に方向性を持ち、何らかのものを目指している。この、姿勢の目指す何らかのものは、何らかの状態と呼ばれて良いものなのではないだろうか。一見すると、哲学と宗教、理性と信仰は相いれず対立するものであるようであるが、その実は、決して対立するものではなく、相互に密接なかかわりを持つ心的活動であるといえる。

ユルゲン・ハーバーマスは、理性と信仰をめぐる哲学的な言説による表現は「理性は、自己の内奥の根拠を反省するならば、自己の起源が他者に由来することを見いだすのであり、もしも夜郎自大の袋小路にはまって理性的思考を失いたくないならば、まさにこの他者の運命的な力を理性は認めなければならないのだ」(2)とする考えとしてよくあらわれてくるという。哲学的思考を延々と続ける途中で、理性が自己の限界に気がつきはじめると、そこで理性は自己の中から抜け出て他者の方へ向かい始めるということである。運命的な力を持った他者というのは、理性からすればほとんどイコール神であると見てよさそうだ。自分の理性はあくまでも自分を超えることはできず、他者も理性を持っていると考えられる可能性が高いと理性が判断してもなお、他者の存在は運命的力を持って、他者を他者として認めさせようとする。先にも述べたように、そのものをそのものとして認めることは信仰に他ならず、よって他者の運命的力を認めたならばそこでひとは信仰の状態にあるといえる。おそらく、微塵の信仰心ももたずに、理性のみで世界をとらえようとしたならば、日常生活はままならないであろうし、気が狂ってしまうに違いない。

 

3.理性は無限を追求し、信仰は無限から始まる

また、理性と信仰をめぐって清沢満之は、哲学という学問の中での理性と宗教心がともに無限に関与する領域を表していることに着目した。ただし「理性は無限を追求するという仕方でこれに関わり、宗教心は受容するという仕方でこれに関わります」(3)といい、同じ無限に関わるのでも、理性が無限に関わるのとでは大きな違いがあるとした。もう少し詳しい説明を引用する。「理性は無限の真否を疑って、これを研究し、検討して、最終的に無限をきわめ尽くそうとします。したがって、もし理性が明確に無限を手にすれば、無限に関わる哲学の営みは終わることになります。ところが宗教心の方はその第一歩目に無限の実存を確信して、無限へと向かいます。そして無限の感化を受けようとします。以上のことをまとめて言えば、哲学に終わるところに宗教の営みが始まるということになります」(3)。宗教の営みと哲学の営みは、繰り返し言うようではあるが、全く違うものでありつつも双方人間にとってなくてはならないものなのである。

 

4.理性と信仰の一致状態

しかしさらに、双方なくてはならないどころではなく、理性と信仰が一致している状態が真のあるべき姿なのだと清沢は主張する。宗教は宗教であるというその本性において信仰を根本にするが、だからといって真の宗教の中で理性を働かせることはできないかといえば、決してそんなことはないのである。むしろ、もしも宗教の中に疑いがあると思われる場合には、理性による研究を行い、疑念を解くことができたならそののちに宗教に入っていくというのが、まったく正当な順序だ。そして、どうしても理性によって宗教の中の疑念を解くことができなかったならば、迷うことなく信仰のほうを捨て、理性を取るべきである。清沢の言うとおり、真の理性と真の信仰はつまるところ一致すべきものなのであるが、理性のほうは自己批判という形で自らに過ちがあるかどうかを吟味し過ちがあれば正すことができるのに対して、信仰のほうはただあるものを一度信じたら、そのすべてをあるがままに信じていくというふうなので、過ちを改めるためのすべを持たないからだ。

ただここで問題となるのは、理性の性質事態が不完全性をはらんでいるというところである。理性は事物を前にして、常にその理由を求めてやむことがない。つまり、あるものを認めたら、そのあるものの理由である何かを求め、そしてその理由が得られたとしたら、その理由に理由を求めていく、そしてその理由となったあるものにもまたその理由を求める、というふうに次々と理由を求め続けて決して止まることのないのが、理性の本性であると思われる。だからもし、どこかで立ち止まり、生きるための足場となる場所を見つけたいと思うのであれば、それは何らかの形をとったひとつの信仰であるほかはないだろう。信仰というと宗教上のものであるというニュアンスが強いように思われるならば、信念といってもいい。ただし、理性の最終到達点が信仰であるというわけではない。何かを信じたとしても、それを絶対的に信じ続けることは、人間が理性を捨ててしまえない限り不可能だ。自分の持っている信念に対して理性が違和感を永遠に抱かずにすむような信念というのは、そうそうない。生活の中でことあるごとに、理性によって見直されるべきものが信仰である。

まとめていうと、以上見てきたように理性と信仰は決して互いに害を与えるようなものではなく、互いに依存しあい、助けあうべきものなのである。信仰だけでも、理性によってだけでも人は人として生きていくことができないだろう。

 

 

 

 

引用文献

(1)P.Tillich;Philosophie und Religion,in“R.G.G”2.Aufl.

(2)ユルゲン・ハーバーマス『ポスト世代化時代の哲学と宗教』岩波書店、2007年。

  (講義資料より)

(3)清沢満之、藤田正勝訳『現代語訳 宗教哲学骸骨』法蔵館、2002年、p.15。