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【哲学基礎演習】カント『純粋理性批判』岩波文庫第二版(1786年)序文要訳

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

理性の営みに属するところの認識を取り扱う仕方について、学として確実な道を歩ませる。

論理学は学として確実な道を歩んできたが、というのも論理学が認識の対象とその差別とを度外視する権限を持っているからであり、それによって論理学において悟性は悟性自身と悟性の形式のみを問題にするからであった。ところが理性を解明しようとする、理性自身だけではなくその対象も究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは論理学のようには行かない。

客観的に学と呼ばれるべき学は理性を含むわけだから、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。理性認識の対象との関係の仕方には、対象とその概念を規定するだけである理性認識と、対象を実現する実践的認識の二種類がある。

数学と物理学は理論的認識である。これらはそれぞれ、突如として起こった革新によって堅実な学となった。ところが形而上学は、これはまた完全に思弁的な理性認識であるにもかかわらず、今までのところ不幸にも学としての確実な道を歩んでいない。そこで形而上学においても、数学や物理学のような革新を起こすことで、学として成り立つようになるのではないかと試みる。その革新とは、これまで我々は、認識はすべて対象に従って規定されなければならないと考えてきたが、それを今度は対象がわれわれの認識に従って規定されていると考えてはどうかということである。このような想定は、形而上学が要求する、ア・プリオリな認識、つまり対象が我々に与えられる前に対象について何事かを決定するような認識の可能とも一致している。もし対象の直観が対象の性質に従って規定されねばならないとすると、どうして我々がア・プリオリに何事かを知ることができるのかがわからなくなるのである。

このような考え方の変換によって、ア・プリオリな認識の可能は説明され、経験に対象がア・プリオリに与えられていることも証明されるので、学としての形而上学の第一部門(先験的感性論)でア・プリオリな概念を論究する。そしてこの第一部門によって、ア・プリオリな認識能力によっては可能的経験の限界をどうしても超越できないという結論が生じるが、この可能的経験の限界を超越することこそが、形而上学の最も本質的な関心ごとなのである。そこで、本当に我々のア・プリオリな理性認識は現象だけに関係するものであり、物自体は存在するかもしれないが決して我々には認識せられないものでしかないのかを、第二部門(先験的論理学)で吟味する。

このように可能的経験の限界を超えることを我々に強いるのは、無条件者である。理性は、物自体を設定し、一切の条件付きのものに対して無条件者を要求し、こうして条件の系列の完結を要求する。ここでも、認識が対象に規定されると想定すると無条件者は矛盾した存在となるが、対象としての物が与えられる前に我々はこのような物を表象しており、対象が現象として我々の表象に従うと想定すれば、矛盾は生じない。よって、無条件者というものは我々の知識の限界外にある物自体に見出されるに違いないということにすれば、これもまた革新として試みた新しい考え方を支持することになる。あと理性が我々にすべきこととして要求するのは、我々に無条件者という先験的理性概念を規定させるような事実が理性の実践的認識にあるのかどうかを検討することである。

純粋理性批判の本旨は、形而上学の全面的革新によってそれを学としてならしめる方法に関する論究であって、純粋理性の体系そのものではない。しかし、形而上学の外的限界と内的構造全体を顧み、その概略図を描くことをしておく。思弁的純粋理性はその特性として、思惟の対象を選択する仕方の違いによって理性自身の能力を徹底的に検討することと、自身に課題を与える仕方をすべて枚挙し、将来建設されるべき形而上学に対する全平面を描くことができるし、そうしなければならない。それというのも、ア・プリオリな認識においては、思惟する主観が自分自身から取り出したもの以外客観に付け加えることができないし、純粋理性は認識原理に関する完全に独立した一個の統一態だからである。この統一態においては、各々の構成要素は他の一切の構成要素のために存在し、全体はまた各個のために存在するので、ある原理を一つの関係の中に取り入れるためには理性使用全体に対する全般的関係において吟味しなければならない。しかしこの特性は、形而上学がこの批判によって一個の学として確実な道を歩むことになれば、この学は必要な認識の全領域を包括して自分の事業を完結し、後代までも役に立つということも意味している。

批判によって純化され永続的な状態を保つ形而上学が何の役に立つのかという人がいるかもしれない。思弁的理性をもって経験の限界を超えないというのは、一見消極的な効用に見える。ところが思弁的理性が自分の限界を超出しようとする場合に用いる原理は、理性使用を拡張するように見えて、実は理性使用を狭めることにしかならないので、限界を超えないというのは逆に積極的効用なのである。理性が限界を超えるときに用いる原理は感性に属するものなので、つまり感性の限界を拡張することになるだけなのだ。

この批判の分析的部門では、空間と時間とは感性的直感であり、現象としての物の存在を成立せしめる条件であり、また我々の悟性概念に対応する直観が与えられなければ悟性概念は生じず、我々は物を認識することができないのだと証明される。つまり我々が認識し得るのは、感性的直感の対象としての、現象としての物だけであるということになり、このことより理性の思弁的認識が及ぶのは経験の対象だけという結論に至る。

ただし、対象を物自体として認識することは不可能であっても、これを物自体として考えることはできなければならない。当の物自体が存在しないのに現象だけが存在することはありえないからである。しかし対象を物自体として考えられるからといって、現象と物自体とを同一とみなすと、これもまた矛盾に陥る。

たとえば人間の心について、人間の意志は自由であるが、この意志は自然必然性に支配されているという矛盾は、現象としての心と物自体としての心を同一とみなすことから起こる。人間の意志は、現象においては自然法則に必然性に従うように現れるので自由でないと言えるが、物自体としての意志は自然法則に従うものではないから自由であると、このように意志を二通りの意味に解すれば矛盾は生じないのである。今度は、道徳哲学は自由を我々の意志の性質として必然的に前提していると仮定する。このとき思弁的理性が自由はないと証明したならば、道徳哲学はその席を自然機構に譲ることになる。だから道徳哲学においては、自由が自己矛盾を含まないこと、すなわち自由は考えられるが認識はできないものであることが必要とされる。神や霊魂の不死についても同様に、理性が経験を超越して認識しようとしないかぎりでは、実践的理性使用のために想定することができる。このように理性使用を制限することによって形而上学独断論になることを免れ、それは今後の哲学にとって有益なことだ。思弁的理性の越権をなくすことは、諸学派が思い上がった独占権を主張する状態を変えるだろう。

理性による純粋認識が学として扱われる場合に、理性はこの純粋認識を独断的に処理するが、批判が反対するのはこのような独断的処理ではなく、理性自身の能力を前もって批判することなく純粋理性によって行われる独断的処理である。厳密な学としての形而上学は、あくまでもア・プリオリに、思弁的理性が納得するように進められなければならない。ヴォルフが採用したように、原理を法則に従って確立すること、概念を明晰に規定すること、証明を厳密に検討すること、推論における大胆な飛躍を防止すること、それに加え、あらかじめ純粋理性そのものを批判することによってこの学の領域を整理しておくことによって、形而上学の学としての堅実な道は開かれる。

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 
純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 
純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)